’08年3月 ベラルーシ訪問

報告 佐々木 真理


「以前は子どもに多かった甲状腺ガン、現在は大人が発症している。一方で、子どもたちは脳腫瘍、肝臓・腎臓・目の腫瘍、白血病を発症している」これは今回訪問中、何度も耳にしたことです。またその現実を目の当たりにしました。ゴメリ市小児臨床病院(*)の医師は、[20年近くこの病院で働いていますが、以前は病気の子どもはこんなに多くありませんでした。チェルノブイリ事故当時子どもだった世代の出産が始まっています。早産も多く見られます。いま病院は患者であふれています。しかし予算が足りないためベッド数を増やすことも、医薬品を必要なだけ購入することもできない状況です」と言います。 ベラルーシでは昨年末でチェルノブイリ障害者への様々な特典(医薬品代・交通費・公共料金など)が廃止されました。病気の子どもを抱える家族に重い負担がのしかかってきています。

この原稿を準備している最中の5月末、ゴメリ州レチッツァ出身で子どもの頃甲状腺ガンの手術を受けた22歳の青年が亡くなったという知らせが、ゴメリの救援団体から届きました。

(*この病院へは、カタログハウスの「チェルノブイリ母子支援募金」を通して2006年に保育器を贈っています。)


【ベラルーシ】

K・ダーシャ 2002年生まれ ゴメリ市

2003年に腎臓の腫瘍が発見された。2004年、ミンスク市の小児腫瘍センターにて、腫瘍のある方の腎臓を完全に切除。チェルノブイリ障害児に認定された。脳に化学療法の副作用が現れたため、5歳までまったく言葉を話せなかった。1年間言語療法を受け、最近やっと話し始めたが、まだ明瞭に発音できない。半年に1度はミンスク市の病院で、心臓や肺などに転移がないかどうか検査する。

母親は出産前まで、薬品を扱う研究所で働いていた。「自分が前に働いていた環境とチェルノブイリ事故、両方の影響でダーシャが病気になってしまったのではないかと思います」と話した。父親は以前働いていた会社から解雇されしばらく無職だったが、最近ドライバーの仕事に就いた。兄アルチョム(10歳)、妹ソフィア(2歳)、年金生活者の祖父母と共に暮らしている。家族の住む地区には、他にもチェルノブイリ障害者のいる家族が多く住んでいる。そこから遠くないところにある林や森には「放射能危険・立ち入り禁止」の立看板が立っているそうだ。

不思議な話を聞いた。以前はあった場所から「放射能」の立看板がなくなったり、反対に前はなかったところに最近立てられたりしているところもあるという。郊外の畑で野菜を作っている人が、すぐそばにその立看板が立ち、大変ショックを受けている。今まで食べてきたものはどうなのか、これから作物を作っていってよいのかどうかと、地区の役所に問い合わせたが、誰も明確に答えないそうだ。

 

Z・ヴィオレッタ 1998年生まれ ゴメリ市

2004年7月と12月、2回脳腫瘍の手術を受けた。現在も年に3回ミンスクの病院に検査に通っている。吐き気や頭痛がよく起こる。春と秋は血圧が高くなり、強い太陽の光をいやがる。また、背骨の痛みを訴えている。頭痛薬、背骨の痛み止め、ビタミン剤を服用している。

体の不調がありながらも、ヴィオレッタは学校の授業の後に音楽教室にも通い、合唱やダンスを習っている。「学校の宿題と音楽教室の両立は普通の健康な子どもでも負担が大きく、体の弱いヴィオレッタはとても疲れます。でも歌が好きなのでがんばっています」と母親は話す。ゴメリ市内のアパートに母と妹と3人で暮らしている。2年前に酒を飲んでいた父親(現在は別居)のタバコの火による不始末で火事になり、家の中はほとんどが焼けてしまったという。父親からの援助は何もない。


L・サーシャ 2003年生まれ  レチッツァ市

2007年4月に脳腫瘍が発見され、治療を続けている。化学療法の後は食欲が無くなり、食欲が少し出てくるとまた化学療法、という繰り返し。治療を始めてから痩せてしまい、大変疲れやすくなった。ミンスク市の病院へは3週間に1度検査に通っている。交通費は付添って行く母親の分と合わせて、往復で約35ドルかかる。3/26には5回目の化学療法を受けた。この治療は無料だが、その後に必要な薬は自費負担となっている。1ヶ月の薬代が約70ドル。視力が悪く、外斜視である。目の専門家にかかるときの治療費は有料で1回で約15ドル。

「辛い治療なのに、サーシャはとてもがんばっています。娘はとても強い子です。泣きもせず、わがままも言いません。それから彼女は歌や本を読むことが好きです。とても上手に本が読めるようになりました」と母親は話した。私たちが訪問したときも歌を唄ってくれた。

サーシャの二人の姉も脳腫瘍と診断された。97年生まれの姉は2002年に亡くなった。95年生まれの姉ナターシャは、今のところは定期検査を受けている。母親(1971年生まれ)は血管腫と診断されている。また甲状腺にも異常がある。「娘の介護で忙しく、自分の検査に行く時間がありません」と話す。

 

L・クリスチーナ 2001年生まれ ゴメリ州モーズィリ地区ボリシエ・ジモヴィシャ村

2004年、悪性腫瘍のため左眼球摘出手術を受けた。現在は半年に1度、義眼の交換(約45ドル)が必要。家族の住んでいる村から首都ミンスク市までの交通費は、本人と付添って行く大人の二人分、往復で約50ドルかかる。クリスチーナは昨年9月から小学校に通っている。両親は学校へ通わせることを心配したが、クリスチーナはすぐに慣れた。両親は農場で牛の世話をしている。家族は、集団農場で働く労働者のために建てられた家に住んでいる。10年間働けば、家が自分たちのものになるという。両親が農場で働いている間、姉のリューバは家事を手伝い、妹の勉強もみている。母親はグルジア人。母親の家族はグルジアの内戦を逃れて、93年にベラルーシへ移住してきた。この村には、カザフスタンやウクライナなどから移住して農場で働いている家族もいる。

農場労働者たちの家と道をはさんだ向かい側には、チェルノブイリ汚染地域からの避難民たちの住む地域がある。チェルノブイリ事故後、高濃度汚染地域からの避難民のために住宅が建てられた。しかし、この村も放射能汚染地域に変わりはない。近くの農場では白血病や結核の牛がいる、と地元の人が話した。

 

L・スラーヴァ 1988年生まれ ゴメリ市

3歳のとき甲状腺の手術を受け、チェルノブイリ障害児に認定された。95年に社会保障としてアパートが割り当てられた(購入費用が一般の半額で、大体25年ローンで支払う)。スラーヴァは甲状腺ホルモン剤を飲み続けているが、18歳で障害者認定を取り消され、国からの援助がなくなった。今年の6月に専門学校を卒業する予定で、その後は大学に入学したいと思っている。

「専門学校を卒業しただけでは工場の修理工の仕事に就くことになるでしょうが、そういう仕事は息子の健康状態では辛いと思います。大学で勉強して、もっと別の仕事に就く可能性ができればよいと思います」と母親は話した。母親はスラーヴァと同様、甲状腺ガンの手術を受けた。他にも胃や背骨に異常があり、「うちの収入のほとんどが薬代に消えていきます」と言う。スラーヴァの兄には心臓の病気があり、就職先がまだみつからない。

同じアパートには、甲状腺ガンの手術を受けた子どものいる家族が他にも数軒ある。

 

F・ナターシャ 1984年生まれ レチッツァ市

96年12月甲状腺ガンの手術。2年前、チェルノブイリ障害者への社会保障として一部屋のアパートが割り当てられた。2007年11月に娘を出産。娘は生まれつき、肩と腕の動きが悪いため、1回10ドルのマッサージを受けている。その他にも治療のための薬代がかかる。「昨年末で障害者の特典が廃止され、薬代も交通費もかかるようになり生活がとても大変です。今は子どもの健康が一番の気がかりです」と話した。ナターシャが生まれたのはオゼルシナ村。ナターシャの父親はリクビダートル(*)だった。同じ村で生まれた2人の従姉妹も甲状腺ガンの手術を受けた。

(*チェルノブイリ事故後に、原子力発電所や周辺地域で働いた人々のこと。汚染地域から人々を避難させたり、村を埋める作業をした人たちなどもそう呼ばれる)

 

Y・ユーリャ 1985年生まれ ブレスト州コブリンスク地区カタシ村 ベラルーシ国立医科大学4年生

「9歳のとき甲状腺の手術を受けました。そのとき治療をしてくれた病院の医師がすばらしい人たちだったので、とても感動しました。それで自分も医師になろうと決めました。母が看護婦だった影響もあるかもしれません。私自身が甲状腺の病気と長年つき合っていますから、この病気については誰よりもよく知っています。自分と同じ病気の人たちを救いたいです」

ユーリャは夫サーシャと共にミンスク市の大学の寮で暮らしている。2歳の子どもがいるが、寮では育てることができないため、サーシャの両親(モギリョフ州チェリコフ市)に預けている。そこは放射線による高濃度汚染地域のため、以前はオデッサ(ウクライナ)やドイツなどに子どもたちが保養に招かれていた。しかし1997年以降それが全くなくなったという。サーシャの父は警察官だった。チェルノブイリ事故後、リクビダートルとしてブラーギンなどの汚染地域で働いた。そのとき一緒に働いていた仲間はみんな、骨や心臓に異常が起きていて、亡くなった人も多いという。

「昨年末でチェルノブイリ障害者の特典は廃止された。甲状腺ガンの手術を受けたユーリャみたいな子は、薬がなくては生きていけないのに、こういう人たちを助けないなんてどういうことかと思う。“ベラルーシ人の平均月収は250ドル“と言われているようだが、一体誰の、どこの国の話かと思う。自分の給料は100ドル。パンと牛乳、薬を買ったら終わってしまう」温厚そうなサーシャが、少し興奮した様子で話した。

 

G・エレーナ 1982年生まれ ミンスク市

生まれたのはソリゴリスク市だが、86年のチェルノブイリ事故当時は、祖母の住むストーリン地区ルベリ村にいた。1994年に甲状腺ガンの手術。83年生まれの妹も同年甲状腺ガンの手術を受けた。チェルノブイリ障害者に認定されている。放射線ヨード治療を受け、現在はチロキシンとカルシウム剤を服用。2007年に大学を卒業後、企業の会計担当として働いている。2002年に結婚、同年11月に娘アンナを出産。アンナが生まれたとき両手は固く握られたまま開けず、足もまっすぐに伸ばすことができなかった。股関節の形成障害と神経系統障害と診断された。手はマッサージを4コース受けて正常になったが、足には特殊な矯正機具が10ヶ月間装着された。機具がはずされると歩けるようになったが、年に一度整形外科医の検査を受けることになった。その後も膝と股関節の痛みは続いた。現在もマッサージ治療と、体に負担がかからないような生活が必要である。

夫(1976年生まれ)は勤務中の怪我により片足を切断。2年に一度義足を交換している。以前の仕事は辞めなければならず、現在は一時的な仕事をしている。「障害者を正職員として雇ってくれるところは少ない」と話した。

*この家族は6/4-6/17に「希望21」で行なわれた「家族の保養」に参加した。

4月22日NHK World Radio Japan(海外向け国際放送)にて「チェルノブイリは終わらない〜女性ボランティアが語る被災地の今」と題して、子ども基金スタッフのインタビューが放送されました。番組の中では、今回紹介したベラルーシの被災者のうち、当基金スタッフが現地で録音した3人の声も流れました。



2008年6月4日〜6月17日
「家族の保養〜甲状腺手術を受けた親とその子どものための保養」/ベラルーシ「希望21」

☆保養参加者より感謝の手紙を受け取りました☆

「親愛なる日本の子ども基金の皆様へ 保養参加者一同より、皆様に深くお礼を申し上げます。「希望21」での日々は私たちの心に素晴らしいものを残してくれました。皆様のお蔭で私たちはここで多くの新しい友人を得ることができ、たくさんの楽しい思い出を作り、気持ちも体も元気になることができました。このプロジェクトが今後も続くことを願っています。私たちの悲劇を忘れずに長い間活動されている皆様に心から感謝します。皆様のご健康と幸福、そしてご活動のご成功を心よりお祈りします」

参加したのは7家族、大人12人と子ども7人(3〜6歳)。ほとんどの参加者が「希望21」での保養は初めてだった。

 

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