98年2月、チェルノブイリ被災地を訪問 / 広河隆一


■ ウクライナ・キエフの内分泌研究所で ■

甲状腺ガンの手術をしたS・ユーリャ(14歳・ウクライナ)のおばあさんの話

 ユーリャは小さい時、全然病気をしませんでした。鼻血をよく出したので病院に行きましたが何も発見されませんでした。6歳のとき突然、斑点のようなものが両足に現れ、方々の医者に診てもらいましたが、病名がはっきりしないうちに治ってしまいました。95年、喉の腫瘍を偶然見つけました。痛みはありませんでした。検査をして、手術で甲状腺の片方を摘出しましたが、ガンだとわかって両方摘出しました。

 ユーリャ:手術後に自分がガンだと聞いたときは、普通の病気と同じだからどうってことないと思いました。でも薬を飲み始めて、一生飲み続けなければならないとわかった時はショックでした。お母さんがいなくなったらどうしよう、忘れたらどうしよう、と思います。(ユーリャは昨年夏に子ども基金が行った「希望21」の特別保養に参加しました)


甲状腺ガンの娘(ナターシャ)をもつお母さんの話(ローベンスカヤ州から移住、現在はポルタワ州に在住)

(ナターシャの手術前に、内分泌研究所で話を聞きました。)

 私は、ローベンスカヤ州のスタロエセロ村で生れました。夫はトラクターの運転、私は農場で牛乳を採乳したりしています。子どもは3人です。

 チェルノブイリ事故のとき私は妊娠中で、1歳のナターシャは外で遊んでいました。乳房に炎症がおきたため母乳を与えるのが嫌で、子どもには牛乳を与えました。今年の1月、ナターシャの休みで祖母の村に帰ったとき、彼女の喉の右側がふくらんでいるのを見た祖母が医者に見せなければいけないと言い、病院へつれていきました。専門病院を紹介されましたが結核と言われて10日間休ませました。しかしポルタワの病院でまた調べてもらうと、甲状腺ガンだとわかりました。1カ月もの間、キエフの研究所をいろいろまわって、ここに転送されてきました。

 移住なんてしなければよかったとも思います。向こうにいれば、もっと注意深く診てもらえる機会があったのかもしれない。移住先で我々は必要のない人間みたいな感じです。でも向こうでは給料もほとんどでません。小麦もパンもありませんでした。

 娘が病気になっても、20グリブナだって貸してくれる人はいません。ちょっとした病気は赤チンをつけるだけです。小さい子がおなかが痛いと言っても、なんとかごまかすしかありません。それくらいお金がないのに、娘の治療にこなければいけません。注射器とか綿といろいろなものを、自分達で買ってこなければならないんです。

 ナターシャは2歳のとき肺炎にかかり、冬は毎日のように咳こみます。暖かいものを着せたいのですが、お金がなくてできません。暖かい靴を買うお金もありません。濡れた靴のままでいて学校を休んだりします。私たちの給料、20グリブナでは服も靴も買えません。家の豚を売りますが、安く買いたたかれてしまいます。3人の子どもで5人家族。お金がないのです。ナターシャは手術のことで、「お母さん泣かないでね」と言ってくれます。でも心は痛めていると思います。

 手術を行なった医師の話:ナターシャの腫瘍摘出手術は大変な手術でした。腫瘍はもうほとんど全部取りましたが、取れないところは残してあります。肺にも転移があります。91年から93年ぐらいには、こういうのもありましたが、最近はなかったぐらい重症です。こういう子は、カルシウム不足になりがちなので、背骨が折れるようなことにも注意が必要です。

※今回、ナターシャには医薬品費用など200$の支援を行ないました。今後も「核の傷跡」を通じて支援を続けます。


甲状腺の手術を受けた男の子・ビクトル(16歳)の話

 チェルノブイリの事故が起こったとき、4歳だったぼくは事故当日から気分が悪くなったのを覚えています。事故の後すぐにお母さんの叔父さんのところへ行きました。そこはきれいな地区です。92年に甲状腺の病気がわかって、この内分泌研究所、フランスと、2回手術を受けました。もう1回手術を受けなければいけません。

 首の傷跡を人に見られるのは、あまり好きじゃありません。昔は、道を歩いていても、みんながぼくの首を見ているような気がしました。特別に首が隠れるシャツやセーターを買ったりしました。今でも視線を気にすることもありますが、だんだん慣れてきました。女の子と付き合うのに病気のことは気にしません。友達やガール・フレンドとは、普通につきあっています。


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