チェルノブイリ報告


〜チェルノブイリの証言〜

 今までチェルノブイリ原発事故の被害の現状を報告した代表の広河隆一の講演やお話しの一部を「基金ニュース」でも紹介してまいりました。その中で事故当時の「子ども」が思春期を迎え、結婚や出産といった将来への深刻な問題を抱えている一方で、事故処理作業員や被曝した人々の子どもたちが様々な病気で苦しんでいる被災地の現状を訴え、支援を呼びかけてきました。
 今年、広河はプリピャチからの避難民を中心に約40家族を取材しました。そのなかからある家族のインタビューを、36回目のチェルノブイリ取材から帰国した広河の報告とともに紹介いたします。

ペカチ・ユーリ(38歳)のインタビューより


ペカチ・ユーリ(以下Y):私の子イワンは13歳で小児まひです。脳障害でほとんど動けず、しゃべることはできず、目も見えません。骨は曲がっています。
広河(以下広):目は見えないのですか?
Y:光は分かるようです。家に帰って電気をつけると嬉しそうです。太陽の光にも反応します。眼球の検査では正常だと言われましたけど、実際に見えているのかは分かりません。
:お父さんのことは分かるんですか?
Y:分かります。声やにおいで。
:あなたはどんな仕事をしていますか?
Y:医者です。マッサージやリハビリをやっています。
:仕事の時は誰が子どもの面倒をみているのですか?
Y:自分一人でみて、誰にも手伝ってもらっていません。私が仕事に出ている時は一人で留守番しています。出かける前にご飯を食べさせて、「仕事に行ってくるからちゃんと留守番していてね」と言ってから出かけます。ちゃんと分かっています。帰ってくると嬉しそうです。近所の人から子どもが泣いているとか文句はを言われることはありません。骨が弱くてベットのかどで足をぶつけて骨を折ってしまったこともあり、とても痛がって大変でした。その時にお手伝いさんを頼んだのですが、その人は1か月でやめてしまいました。
:チェルノブイリの事故の時にあなたは何をしていましたか?
Y:レーニングラードの医大の学生でした。休暇中で妻と両親のいるプリピャチに来ていました。4月26日はメーデーのお祭りの前で私たちは家の掃除、両親は市場に買い物に行っていました。買物から戻った母から原発で何か起こったみたいだと聞いたのです。電車やバスが止まってしまい、レーニングラードに戻れるかどうか心配でした。帰る時には誰からも呼び止められたり、検査をされたりということはありませんでした。事故後、体調の変化などは感じませんでした。
:彼の病気がチェルノブイリと関係しているといった書類はありますか?
Y:障害者の書類はあります。プリピャチには数日しかいなかったので、チェルノブイリとの関係を証明するのはとても難しく、証明書はありません。前妻はプリピャチから避難したという証明書を取得しています。その避難民の子どもであるという証明書はあります。チェルノブイリと子どもの病気の関係を証明するにはたくさんの検査を行う必要があり、お金もかかるのです。放射線量を測る特別な最新の検査方法もあるのですが、今は子どもとの生活で手一杯で検査に行けません。将来は行けるかもしれません。
(子どもをあやしながら)結構動いたり、感情を表現したりするんです。座ることはできませんが、ソファーとクッションで囲んで場所をつくるとその中を動きまわっています。
:離婚されたのはいつですか?
Y:89年から別々です。正式に離婚したのは93年です。
:子どもが何歳の時に彼女は出ていったのですか?
Y:2歳です。私には娘もいます。息子イワンは87年に生まれ、2年後に娘が生まれました。娘は前妻が連れて行きました。
:今何が一番必要ですか?
Y:お金と紙オムツ、シーツ、洋服、座ることができないので、寝たまま運べる特別なベビーカーです。

<この家族の写真は2001年の私たちの救援カレンダーにも載っています。>

コサンチューク・セルゲイ(38歳)と娘スベトラーナのインタビュー


コサンチューク・セルゲイ(以下父):娘のスベトラーナの喘息の発作はひどく、発作をおこすと顔は青ざめ、息ができなくなり、半分死んだようになるのです。特別な薬を飲んでいます。彼女は母親といつもいっしょに寝ています。夜中に発作を起こしたら母親がついていないといけませんから。治療に医者は喘息の薬を出しますが、薬は強く、薬で胃腸がやられてしまいます。息子も娘も胃を悪くしています。
:事故当時の様子を教えてください。
:彼女はたった4か月でした。とても暑い日で服は着ていませんでした。私たちはバスではなく個人の車で逃げました。もしかしたら放射能でひどく汚染された地域を通ったのかもしれません。それから祖母(妻の母)の家に逃げました。でも2日後にはそこからも出なくてはなりませんでした。
 娘はキエフの病院で5レントゲン浴びたと言われました。10日間病院にいました。服を全部取り替えました。病院を出る時にも着換えたのです。電車の中で警察がレントゲン測定機を持って私たち夫婦の所で立ち止まりました。他の乗客は大丈夫だったのに、私たちの着ている服は危険だといってまた服を取り替えなければいけませんでした。妻は泣き出しヒステリックになりました。
 86年の夏から92年までチェルノブイリ原発で働いていました。仕事を辞めればアパートをもらえないと言われました。「強制ではなく自らすすんで働く」という書類に署名させられました。放射性物質が貯蔵された特別な施設で働いていました。放射線測定機は持っていませんでした。
:働くのを辞めたのは何故ですか?
:建設部の支部がいろんな所にあり、ここキエフにも支部があったので行くことに決めました。その組織は98年になくなり、今は働いていません。
:生活費はどうしているのですか?
:障害者としてもらっている年金がありますが、多少は働いています。個人的に建物やアパートの修理をしたり…。もちろん1グリブナを出して子どもにアイスクリームは買えませんが。
:薬はどうしていますか?
:医者に行って処方箋を書いてもらえるのは、だいたい安い薬ばかりです。時々人道支援の特別な薬局で薬をもらいます。治療にお金がかかるので人道援助の薬局に助けてもらう他ないのです。必要な薬はその薬局にあります。
:海外へ保養に行ったことはありますか?
スベトラーナ(以下娘):小さい時に2度、ドイツとフランスに行きました。最近5年間は行っていません。喘息のため、いつ発作が起こるか分からないから行けないのです。
:あとどのくらい学校に行くの?卒業したらどうするの?
:あと2年。先のことはまだ分からないわ。
:好きな科目は?
:数学。5か4をもらっています。

<写真・左からスベトラーナ、セルゲイ、息子ジーマ(11歳)>

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広河の取材した家族の報告を受け、「子ども基金」では、特に困窮状況にあり、支援を必要とする家族に緊急に支援をすることに決めました。 [募金・救援状況]に報告していますのでご覧ください。

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