ミハイル・グジーさんのお話 (前号の続き)



事故から数日後、原子力発電所の仕事に志願者が集められました。私は家族を親戚のもとに残し、事故処理に懸命に取り組むため自分の職場に戻りました。そこで私は、1986年から1998年まで働きました。仕事は、発電所内のケーブルや機械類の交換をすることでした。この期間に私達は数百キロ分にも及ぶ使えなくなったケーブルを交換しました。

作業は、時には1時間当たり被曝量が250ミリレントゲンから5000ミリレントゲンにもなる放射能環境下で、とてもつらくまた健康に悪影響のあるものでした。始めの頃は瓦礫を取り除くことからはじまり、どんな仕事もしなければなりませんでした。仕事は交代制で、2週間働いては、2週間は休み、1日の仕事は12時間続きました。 最後のころ、自分が病気になったこに気づきました。足の自由が利かないことが頻繁になり、歩けなくなり、それから肺を病んで入院しました。

病院には1年間入院し、多額の薬代がかかりました。事故後、チェルノブイリ原発で働いていた多くの人々がこのような境遇に見舞われました。病気になってからは、医者に原発で働き続けることを禁止されました。この原発事故は、私達家族やウクライナ全土に深い傷跡を残しました。私は、働けない体になりました。

長年一緒に働いた多くの同僚が、今はもうこの世におりません。何人かは大量の放射能被曝のために死亡しました。私の組織では、50人が事故後に亡くなりました。家族のなかでは、子どもや孫が頻繁に病気になります。1994年には、妻、マリアドミートリブナが病気になりました。彼女の肝臓に腫瘍が見つかり、緊急手術を受けなければなりませんでした。

そして、とりわけ幼かったカーチャとナターシャの問題に触れないわけにはいきません。なにしろ、カーチャは生後1か月、ナターシャは6歳だったのですから。彼女達は幼い頃、様々な困難に遭い、病気になりました。実際に、何度も子ども用の療養施設に行きましたが、短期間の療養で健康を取り戻すことなどできるでしょうか。

チェルノブイリ原子力発電所の爆発を、私はウクライナ国民の悲劇であったと考えています。日本の人たちもかつて同様の核の悲劇を経験しています。それは広島と長崎の人々や被爆者だけでなく、日本の人、全てにとっての悲劇でした。日本の方々、そして世界中の人びとに対して、日本で、ウクライナで、そして世界中のどこでも2度と過ちが繰り返されないことを祈ります。私は日本のみなさまに幸せと健康をお祈りします。

ナターシャが病気の子どものために、役立つ活動ができるという運命に感謝しています。

そして重い病気を患ったり、事故後18年の間に両親を失い孤児になったりしてしまった同級生を助けるという、私達やナターシャの夢の実現を支援してくださったみなさまに感謝いたします。ありがとうございます。


チェルノブイリ原発4号炉


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