広河隆一講演会&写真展開催
(東京学芸大学 6月14日)




◇◆核の問題はよくわからなく、鉄腕アトムの影響で、原子力エネルギーは素晴らしいものだと考えていたので、チェルノブイリ事故が起こった1986年にも、大変だという意識はなかった。そのころ、新しい雑誌を創りたいから、それを手伝って欲しいと言われた。創刊号で何をするか。88〜89の時代は,まだ核の問題はタブーだったが核の問題を扱うことになった。その写真を撮ることになった。チェルノブイリの事を扱わなければならなくなり、本当に困った。

放射能は形はないし色もないし、それをどうやって写真に写していいのかわからない。ただその時に、チェルノブイリよりも10年前に起きた事故の所に行けば、チェルノブイリの10年後に何が起こるかということのヒントがみつかるかもしれない。5年前だったら5年後に何がおこるかのヒントがあるかもわからないと考えた。それでチェルノブイリの現場を目指すのではなく、スリーマイル島の原発事故の現場、ネバダの核実験の後の周辺とか再処理工場のあるイギリスのウィンズケールルなどに行った。

◆◇そのあとチェルノブイリに行った。現場近くに入るのはすごく難しかった。現場からの汚染地がどこまで広がっているのか秘密警察KGBが監督していた。世界中のジャーナリストが汚染された村がどんな状態なのか見ようとしてビザを申請するけれど、みんなモスクワからでられないのにましてやウクライナやその周辺の村々には行けないという状況になっていた。何百人というジャーナリストがそこで待っていた。僕は先にウクライナのキエフに行くことができたが、ただ待機しているだけでKGBに対して日々イライラが募った。最後に帰る日になって、許可してくれた。原発から60から70km離れた村だった。

◇◆実際大勢の人たちが大変な恐怖の中で生活しているということが初めてわかった。人々がものすごい放射能の中で生きている、そしてそのことを知らされないでいる。そこのものを食べていいといわれている。それから定点観測のようにそこに行き始めた。そうすると周辺にも、もっと大変な状況があると分かってくる。人々は大変な病気を抱えてしまっているということが分かっているから、最初は持てる限りの薬を持ってそこへ行った。そしてさらにひどい大きな汚染地があると分かっていた時にはもう僕の手ではどうにもならないと思って、友人たちに話を持ちかけて「チェルノブイリ子ども基金」という団体を立ち上げた。食べ物もすべて汚染されていて、その頃食べ物を薄切りにしてエックス線のコイルの上において置くだけでエックス線をあてなくても、その繊維が全部写ってしまう状況。葉っぱを置けば、葉っぱも写ってしまう。何を食べていいのか分からない。そういう時に最初に持っていったのが食品検査器だった。

◆◇原発の被曝は、チェルノブイリの場合は、原発から280km離れた村が消えてしまっている。日本で言えば、東京で事故が起こったら岐阜が消えるとか、岐阜で事故が起こったら東京が消えるとか、そういうふうなところまで放射能が達しているわけだ。実際に一番怖いのは、日本は地震との兼ね合いがある。それなのに今までは安全だと言い、丈夫な岩盤の上に建てられているというようなことを言いつのって来たわけだが、実際は恐ろしい状態になっているということが分かってきた。

【講演より一部抜粋/文責 編集部】

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※このイベントは、子ども基金のロシア語翻訳を手伝ってもらっているウクライナの留学生ナースチャが企画、先生や学長の全面的な後押しにより実現したもの。この種の講演会として大学始まって以来というほどの学生が集まり、講演後の質疑応答には熱心な質問が続いた。紙面の都合で割愛したが折をみて質問も掲載したいと思う。写真を真剣な表情でみつめる学生たちの姿が印象的だった。企画の成功は、ナースチャにとって自分の国のことだから、ということもあったかもしれないが、一生懸命に実現に向かって力を注ぐ集中力と気力に脱帽した。(事務局スタッフ)


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