'07年4月 ベラルーシ訪問  後半

報告: 佐々木 真理


■ 奨学生 ■

N・リューバ 
1989年生まれ ゴメリ州レチッツァ地区

2002年に脳腫瘍の手術。その後化学療法と放射線療法を受けた。化学療法の後、髪が抜けてしまい、長い間スカーフを被って過ごしていた。手術後は歩行が困難となり、介助が必要だった。今も歩行と手先に障がいが残っている。リューバの母親はナロヴリャ地区の出身。リューバはレチッツァで生まれた。現在レチッツァ市のカレッジでドイツ語を勉強しており、ドイツ語の教師を目指している。2年前リューバが「希望21」(*1)での保養プロジェクトに招待されたとき母親は断った。娘のような体では無理だと思ったのだそうだ。去年リュ―バは初めてそのプロジェクトに参加した。別人のように元気になって帰ってきたという。「自分のような病気の子どもは他にもいる、自分は一人じゃない、友だちもたさんできた、面白いセミナーにも参加できた」リューバは母にそう話した。あとで母は救援団体のスタッフに泣きながら感謝したと言う。リューバの兄は去年ミンスクの医科大学に入学した。「妹のような病気の子を助けたいと、医師を目指したのです」というと母は涙ぐんだ。家にはガスを引いていないので、食事も暖房もペチカを使う。「冬の寒い時はネコと一緒にペチカの上に座って勉強します」とリューバは笑顔で話した。

*1:「希望21」は、ベラルーシの放射線汚染地域の子どものための健康回復・リハビリセンター。子ども基金は子どもたちの保養費の一部を支援している。子ども基金は10年前より毎年夏に「希望21」で、「甲状腺手術後の子どものためのプロジェクト」を開催している。2年前より、甲状腺以外の腫瘍病の子ども・若者も参加対象としている。

 

R・スヴェータ 
1986年生まれ ヴィテブスク州ポラツク市

2000年に甲状腺ガンの手術。05年には卵巣の手術。ドイツで放射性ヨード治療を4クール。チロキシン(*2)とカルシウム剤服用。第3級チェルノブイリ障害者。今も定期検査が必要。スヴェータは現在ミンスク市内のアパートに暮らしながら大学で心理学を学んでいる。
「14歳の時学校の健康診断で甲状腺ガンが発見されました。父(1955年生まれ)は事故後すぐにチェルノブイリで1カ月間仕事をしました。特別な作業服等与えられず、向こうで働いていた服のままうちに帰ってきました。そのとき私は生まれて3カ月でした。多分父が放射能をうちに持ち帰ったのだと思います。チェルノブイリ事故の影響は、まだ残っているというより、まだ“始まったばかり”と言ったほうがよいかもしれません。私の世代だけでなく次の世代にも必ず続くでしょう」と、ため息交じりに話した。父にはリクヴィダートル(事故処理作業員)の証明書はあるが、年金や特典などは何も受けていないという。

*2:甲状腺ホルモン剤。甲状腺ガンの手術を受けた患者にとって一生涯必要な薬。

 

■ 若い家族 ■

C・ユリヤ 
1981年生まれ グロドノ州ノヴォグルドク市

96年甲状腺ガンの手術。放射性ヨード5クール。チロキシンとカルシウム剤服用。第3級チェルノブイリ障害者。尿腎症、慢性咽頭炎、声帯不全麻痺。2005年グロドノ国立医科大学を卒業。出産前までは病院で内科医として働いていた。2003年に結婚。夫は保健施設でインターンをしている。2006年6月娘ディアーナを出産。妊娠中はカルシウム値が大変低かったため、カルシウム剤の服用量が何度も増やされた。出産後の子どもの体調に問題はない。長期にわたりホルモン剤を服用しているため母乳を与えることが許されず、人口哺乳をしている。今後子どもは内分泌医と整形外科医の管理が必要とされている。

 

■ 里子 ■

K・サーシャ 
1995年生まれ ゴメリ地区クラスヌィ・ボガトィリ村 

06年1月に脳腫瘍と診断され翌月入院し手術を受けた。両親、兄15歳、祖母と暮らしている。兄は甲状腺肥大と診断されている。サーシャは半年に1度検査を受けている。手術後視力が極端に低下した。手元のものもよく見えないようだった。また、頻繁に熱を出したり倒れたりする。いつも食欲がないという。視力が弱いため一人では歩くこともままならず、病院へ行く以外は外出せずほとんど家にいる。「小学校5年生までは普通に学校に通っていました。大きな病気もせず普通の元気な子どもでした。あるときから朝になると吐き気が起きるようになり病院にしばらく通っていました。それから筆跡がだんだん乱れてくるようになりました。あるとき「時々何も見えなくなる時がある」と本人が話したので検査を受けると「この状態はもっと前からあったはずだ」と医師に言われました」「この子のことは何度話しても泣いてしまう」と涙を拭きながら母親は話した。退院後も何度もミンスやゴメリの病院に行かなければならなくなった。訪問した日の1週間前にも点滴、昨日も検査に行った。ミンスクの病院へ検査が予定されているが家から遠いため、いまのサーシャの体調では行くことができないという。回復を待ってから行く予定。「病院に行く時、こんな体調の悪い子どもを連れてバスには乗れません。料金は高いけれどタクシーを使わなければなりません」回復するには栄養のあるものを採らなければならないが、果物やジュースは家族にとって安いものではない。「子どもたち、特にサーシャの食べ物を一番優先させています。自分は何を食べたか覚えていないくらい」サーシャは化学療法の影響で髪の毛が薄く、下3分の1くらいはまだ毛が生え揃っていない。ミンスクやゴメリの病院に頻繁に行くのでうちにいることが少なく、勉強どころではないという。「日本からの支援を初めて知ったときは泣いてしまいました」と母。母親の両親が建てたという古い家。家には水道がなく、通りの井戸から水を汲んでいる。トイレは外にあり、家に浴室はない。祖母がペチカで焼いた復活祭のパンをごちそうしてくれた。

 

L・アリョーナ 
1983年生まれ ミンスク市 

甲状腺手術後、チロキシンを服用。2001年に障害者認定を取り消されたため、現在障害者年金を受け取っていない。両親、姉、弟、姉の家族(夫と子ども)が3部屋のアパートに同居。アリョーナは障害者のための商業カレッジを卒業。現在は食料品店で店員をしている。1日13時間の労働を2日続けて、2日休みというシフト。アリョーナの健康状態では体への負担は多きい。将来は大学で学びたいと思っている。母は脳腫瘍の手術を受け、以前は障害者年金を受けていた。現在は老齢年金を受けている。脳腫瘍の再手術が必要になるかもしれない。訪問時も母は体調が悪そうだった。「物価は上がっているのに年金は低いままで生活は苦しい」と母。

「里親の方からのご支援は本当に私たちにとって支えとなっています。年に一度届くカードはとてもうれしいです」とアリョーナは話した。ベラルーシの保養所「希望21」で1度だけ保養をした。「覚えているのは日本人ボランティアが開いたマッサージ教室。すごく気に入って、すぐに家族にやってあげた。今でもやっています」

家族は高濃度汚染地であるホイニキからの避難民。住んでいたところが放射能汚染地域となり、移住させられた。事故のすぐ後、アリョーナは保養所へ送られ1カ月間過ごした。92年6月にミンスクの今のところに越してきた(避難民のための住居が建設されるまでの6年間、放射能汚染地域で暮らしていた)。「アパートはあるけれど初めは家具も何もない状態。5人の子どもを抱えて本当に大変でした。今はそれぞれの子どもが働くようになって少しよくなりました」と母。同行した現地救援団体のスタッフが「ここへ引っ越して来られてよかったわね」と言うと、「よかったと言っても、どちらにせよ、みんな病気もちです。みんなあそこで被害を受けてしまいました。妹は甲状腺ガンの手術を受け、母は今でも苦しんでいます。私も甲状腺に問題がありますし、小学生の私の息子も生まれつき心臓に異常があります。アパートより健康がほしかったです」とアリョーナの姉アーラは話した。「以前住んでいたうちの家具は、放射能に汚染されているから持ってきませんでした。あとでそれが家からなくなっていることがわかりました。誰かがどこかへ運んでいったらしいのです。何も知らない人が放射能に汚染された家具を使っているかもしれないと思うと恐ろしいです」と続ける。避難した人が残した家には今、旧ソ連各地からの難民が住んでいるという(内戦を逃れて放射能汚染地域に移り住んでいる)。今でもゴメリ州レッチツァ(汚染地域)には78歳の祖母と母のきょうだいたちが住んでいる。そこに住むアリョーナの従姉妹(27歳)は、足の痛みで仕事に出ることもできなくなったという。「放射能のせいにきまっている」とアリョーナとアーラは言った。

 

K・ワーニャ 
2003年生まれ ベラルーシ モーズィリ市

1歳の時に肝臓の悪性腫瘍のため1年間入院。化学療法を8回受けた。母親イーラ25歳。母親もワーニャもモーズィリ生まれ。父親とは別居中。父親からの経済援助は何もない。ワーニャは足関節にも問題があり手術の予定。視力も極端に落ちた。「たくさん病気がありすぎて頻繁に病院に行きます。急に吐いたり、咳が止まらなくなったり、わけがわからない症状もあります。歩行もうまくできません」と母親は話した。化学療法の後、上の歯はすべて抜けてしまったため、今は下の歯しかない。口がうまく閉じず、よだれが常に出てしまう。手の先もうまく使えず、細かいものがつかめない。頻繁に感冒にかかり、訪問した前の週にも病院に行ったそうだ。「治療と薬は無料ですが、交通費の負担は小さくありません。入院の時はたくさん荷物を抱えて出かけ、お金もほとんど使い果たします。ワーニャには果物を与えるように心がけています。ワーニャを連れて外を歩くと人がじろじろ見たり、砂場で遊ばせていると他の母親から「お宅の子はその年齢なのにどうしてそんなことができないの」と言われたりする」話をしながらも母親は泣いていた。「本当は幼稚園に行って同年齢の子どもと交流させたらよいと思いますが、免疫力が低いため無理です。この調子では学校も先生にうちに来てもらうことになるでしょう」と話した。

 

F・マリーナ
1985年日生まれ グロドノ州ヴォルコヴィスキー地区マトヴェーエツ村

甲状腺ガンと診断され、91年から97年にかけて4回の手術を受けた。放射性ヨード治療4クール。Lチロキシンを服用。第三級障害者に認定されている。

家族はゴメリ州ホイニキ地区からの避難民である。避難家族のために建てられた住居のある地区(同じ村から約50世帯が移住)で暮らしている。両親、兄二人、姉一人、弟二人、祖母の大家族。2番目の兄だけ結婚し隣村で暮らしている。父親はトラクター運転手。母は家畜を飼い、野菜を栽培している。

マリーナの母親の話:事故当日、大人たちは畑仕事をしていた。空を頻繁にヘリコプターが飛んでいたことを覚えている。チェルノブイリで何か事故が起きたことはわかったけれど、その重大さは知らされなかった。大人たちはそのまま農作業を続け、子どもは外でいつものように遊んでいた。翌日になって初めて「危険だから窓を締め切り外に出ないように」と言われた。その後9月までベラルーシ国内の保養所に送られた。家の主や老人たちだけが村に留まった。その後住んでいた家は「放射能に汚染されているから」と埋められ、代わりに新しいレンガ造りの家が作られていた。トイレや風呂も室内にあり、暖房設備もあるちゃんとした家だった。でもそれが建てられた場所は、元の家よりもさらに原発に近い場所だった。それから数年後、移住先の家が完成すると引っ越すように言われた。2番目の家は今でも残っている。年に一度の墓参りの時はそこまで無料のバスが出る。

この地区の約50世帯はみんな汚染地域からの避難民。初めこの村にやって来たときには、元から住んでいる村人たちから「チェルノブイリ人たち」と言われ嫌われた。「家をただでもらえていいね」とか「交通費が無料でいいね」などと嫌味を言われた。「だったら故郷の村と娘の健康を返してほしい」と言い返したかった。私たちの地区の住民は、ほとんどの人がみんな畑や家畜の世話で朝から晩まで働いている。しかし中には酒におぼれて子どもの世話もしない人もいる。あんなひどい親の子どもは健康で、どうしてうちの娘が「ガン」なのか、と思ってしまう。どうしてこんな運命なのかと。マリーナがガンだなんて、今でも慣れることができない。マリーナは小さいときに甲状腺ガンになり、手術・入院・治療のために学校に通えない時期があった。健康だったらもっと勉強したりいろいろな可能性に挑戦したりできただろうに。今のマリーナは、部屋の掃除をしただけでも疲れてしまうほど体が弱い。

家族の住んでいる家の前の道は「ホイニキ通り」と名づけられている。道の名前だけ故郷の名残がある。戦争を生き抜いた82歳になるマリーナの祖母は「放射能は戦争より恐ろしい」と言った。年金はみんな孫娘のマリーナの健康のために使った、と話した。この家族は長い間里親の支援を受けている。「同じ悲劇を経験した国の人だから、私たちのことを助けてくれるのでしょう」と母親は涙を浮かべた。

 

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