03月01日(月)[ハイチの暴動と時差ボケ]

年齢のせいだろう、ひどい時差ボケが出て、昼間、睡魔に襲われた。それでソファに横になったらそのまま2時間もオフィスで熟睡してしまった。何やってんだか。テレビではハイチ情勢が刻々報じられている。アリスティド前大統領は、中央アフリカに「脱出」したことになっているのだが、その事実関係が判然としないのだ。CNNがそのアリスティドと電話で会話している。それによると、武装したアメリカ兵に「拉致」されて出国を強要された、というのだ。銃を突きつけられて飛行機に押し込まれたという。この「拉致」疑惑について、ホワイトハウスのマクレラン報道官は記者から質問されて「ナンセンスだ」と一蹴していた。パウエル国務長官も「拉致」説に取りあわなかった。でも、本当のところはわからないなあ。ニカラグア、エルサルバドル、パナマ、コロンビアなど中米地域においてアメリカのやってきたことを考えてみると、何があってもおかしくないよな、と疑ってしまうのは僕らの職業上の性(さが)か。アリスティドはもともとアメリカには距離をおいていたトマス・ミュンツァーの「解放の神学」派の神父だったという。ハイチのおかれている地政学的な位置などを考えると疑問はつのるばかりだ。でも、日本でハイチのことはどれだけ関心をもってみられているだろうか。ああ、また時差ボケの睡魔だ。


03月02日(火)[スーパーチューズデーというお祭りの日]

時差ボケがとれない。困る。スーパーチューズデーだというのに。頭がぼーっとしている。カリフォルニアやニューヨークなど「大票田」で代議員が決まるのだ。
下馬評というか、もう流れは決まっている。ケリー勝利と。ケリーはきのうフロリダ行きをやめてDCで勝利集会をやることになった。集会場は支局のすぐ近くのOld Post Office Station。夜8時半に現着。すごい熱気である。ただ、心の片隅ではどこか醒めてしまっている。ケリーVSブッシュの戦いか。うーむ。盛り上がるかな? あとはケリー陣営の副大統領候補の人選だろう。ニューメキシコ州知事のリチャードソンとかの名前がすでに囁かれている。それにしても、あのディーン旋風を支えていた人の支持はどこへ流れるのだろう。ラルフ・ネーダーという人の無視できない支持票もある。民主党の力学は眺めているだけでも面白い。それに比べて共和党の運動は組織されすぎていて、ある意味では面白味がない。いや、党大会の空気に直に触れなければ自分にとってはそれもまだわからないことがらだ。日本にこの選挙のことがどれくらい面白く伝わるだろうか。何しろ政治に無関心な国民性がある。とか何とか思っていたら、東京からのニュースで、赤旗を配布したとかで社会保険庁の職員が警視庁にパクられた上、ガサを食らったというニュースがあるという。おいおい、今は治安維持法の戦前かよ。共産党なんて全く好きじゃないけれど、アメリカの人にこういうことを話したらどういう反応がかえってくるだろう。だって大統領選挙キャンペーンで、みんなビラだのステッカーだの集会で配りまくってる。そんなかには公務員だっているし、大体、国務省の職員だって政党支持を公言したりする人もいる。まあ、文化の土台が違うのだ、と思うしかないのか。時差ボケが抜けない。いや、時代ボケか?


03月04日(木)[ラルフ・ネーダーと「ネーション」誌の口喧嘩]

スーパーチューズデーが終わって実質、大統領選挙は、党大会まではちょっと盛り上がる局面がなくなるのかもしれない。民主党の副大統領候補が誰になるのかによって多少様子が変わってくるかも知れない。でも、少なくとも小休止が続くだろう。ディーン支持票はどこに流れるのだろうか。それともうひとつ、小さいけれども無視できない流れ。例のラルフ・ネーダーの出馬である。ネーダーが2000年の選挙で獲得した280万票がなければ、今頃はゴアがホワイトハウスにいただろう、とはゴア陣営の言い分である。陰の共和党応援団とか、民主党殺しとかネーダーはさんざんの言われ方だった。しかしネーダーにしてみれば、ケリーだのエドワーズなどはワシントンの同じ穴のむじなに映っているのだろう。ネーダーが自説を展開していたこともある古巣『ネーション』誌が、2月にネーダーにあてた公開書簡で「今回は不出馬を」と訴えたのに対して、ネーダーは猛反発し、「『ネーション』までがそんなことを言うのか」と激しく反駁した。しかし、今回の民主党指名争いの盛り上がりの大きな背景にはABB(=Anybody But Bush)という欲求があることは確かだ。ネーダーの出馬はそれに水を差す効果があることも事実だろう。そういう意味では、ネーダー出馬はギリギリの所で響いてくるのかもしれない。『ネーション』誌の反論には説得力がある。確かネーダーは去年まではクシニッチ候補を応援していたはずだ。けれども2大政党制のダメさを批判する視点は見習うべきである。日本の一部に2大政党制を無条件に称賛する議論があるが、対抗軸なき二分法は、真の意味での選択肢ではない。


03月05日(金)[まるでハイエナのように]

ポーラ・ザーンというCNNの司会者がどうしても好きになれない。今日は例のカリスマ主婦(我ながら古いダサい表現だ!)マーサ・スチュワートの司法妨害・偽証事件の有罪評決が出た日だが、彼女の番組は、このマーサ・スチュワートへの評決を「全力投球」で伝えていた。何というかそれは、まるでハイエナのようなイヤ〜な感じがする放送だった。著名人の転落劇を詳報するのは日本のテレビのワイドショウのなかにもあるテレビの常套手段でもあるけれど、不思議なことは、ポーラ・ザーンがこのネタを報じるとき活き活きとしてみえることだ。まあ、いいや。そんなこと。この一種の露骨さがアメリカ文化の特質でもあるのかもしれないし。
きのうから放送が始まったブッシュ大統領の再選をアピールするテレビCMにも、そのような露骨さが滲んでいるようにも見える。9・11の現場映像をCMに使ったことから、遺族や消防士たちの一部から、9・11という悲劇を自身の再選のために政治利用しているとのクレームがあがっている。でも、大統領陣営にしてみれば、利用できるものは何でも利用するだろう。例え露骨だと言われようと。露骨というのは何しろ過剰にわかりやういということだから、アメリカ国民のなかには「うーん、やっぱりわかりやすい」と納得する人もいるだろう。最近またぞろ耳にすることが多くなったポピュリズム(大衆主義)という言葉と、この露骨さはどこかで響き合う。


03月06日(土)[アメリカ人はこの映画をどうみるだろう?]

ゴールデン・グローブ賞の外国映画賞を受賞したアフガニスタン映画セディク・バルマク監督の『OSAMA』をみた。うーむ。この映画を今のアメリカ人の観客はどうみるんだろう? タリバンはヒドかった。アフガンでは女性は抑圧されている。かの国は遅れた民主主義のない国だ。だからアメリカが行った対アフガン戦争は、やって然るべき戦争だった。もし映画館で僕の横に座っていた2人連れのように、バケツ一杯ほどのポップコーンをほおばりながらこの映画を見ていた多くのアメリカ人にとって、この映画の意味がそのような「アフガンはひどい」でしかなかったのならば、この映画は失敗作だったかもしれない。9・11事件以前に製作されたイランのモフセン・マフバルマフ監督の『カンダハール』でさえ、アメリカでの見られ方は、タリバン批判という文脈でしかなかったかもしれないのだ。『OSAMA』の主演の女の子は、実際のストリート・チルドレンだったという。画面からは演技ではない絶望の顔が見える。ところで、この映画の冒頭にいきなり「NHK」というバカでかい文字が映し出される。日本=アイルランド=アフガニスタンの共同製作で、平たく言えば、NHKがカネを出しました、という告知なのだろうけれども、もう少し上品にできないものだろうか。


03月07日(日)[こんな春先にケルトかよ。]

コンサートを見終わったときのこの充実感。チーフタンズの公演をケネディ・センターでみた。いやはや満足。特に客演していたピラツケ兄弟のダンスとフィドル。すごいとしか形容のしようがない。ジョン・ピラツケの方は、フィドルとダンスの両方をスリリングにこなしており、完全にチーフタンズを食っていた。アイルランドのケルト文化の伝統に裏打ちされた見事な演奏に酔いしれる。こういう厚みのある文化に接すると、このあいだにみたアンダルシア舞踏団の時にも感じたことだけれど、アメリカの文化ってたかだか知れてるよな、と思ってしまう。今日のチーフタンズの公演には、ブルーグラス系のカントリー歌手ジェフ・ホワイトがゲスト出演していたが、ブルーグラスの出自も結局はヨーロッパにさかのぼるのだろう。チーフタンズをみたのはもう何年も前の東京のテレビ局のスタジオでだった。時が流れるのは何て早いんだろう。でも、彼らは全然衰えていない上、ピラツケ兄弟のような、より若い世代との共演を積極的にやっていて、それがとても全体に魅力を醸し出しているのは実にいい。


03月10日(水)[ケリーとディーンの握手のシーン]

転んでもただでは起きない。チャンスの国を自認するアメリカならではの光景なのだろうが、昨夜のCNNのラリーキング・ライブに、記事ねつ造事件でNYタイムスを解雇されたジェイソン・ブレア元記者が出演しているのには驚いた。ブレア元記者はことの顛末を本にして出版したので、そのプロモーションの一環なのだろうが、自分の生まれ育った家にまでテレビカメラを同行して撮影に応じている場面などを見せつけられると、個人的には辟易してしまう。けれども、ここアメリカは「敗者」にもチャンスが確保されるということか。
で、敗者と勝者の握手のシーンである。民主党の指名争いで勝者となったケリー候補が、敗者となったかつてのライバル、ハワード・ディーン元バーモント州知事をワシントン市内のヘッドクォーターに招いた。支持者の拍手に迎えられたディーン氏は、笑顔でケリー候補と握手を交わして、そのまま部屋の中に消えていった。1時間ほどの会談の中身はわからない。これだけ肌合いが違う2人が、「じゃあ、これからは力を合わせましょう」となるのだろうか。ABB(AnyoneBut Bush)「=ブッシュ以外なら誰でもいい」が、ケリーというある意味で「無難な」候補に支持が集中した理由の最大の要素であることを考えると、今日の演出はケリー陣営にとってはとてもプラスになったのだろう。


03月11日(木)[マドリッドの惨事。その動機と疑問]

こちらの朝方、スペインのマドリッドで列車爆破テロ事件があったとのニュースに接する。通勤電車をねらった同時爆破事件。190人が死亡、1247人が負傷という内務省の発表だ。
一体、誰が何のために行った事件なのか。よくわからない。スペイン警察当局はバスク地方の分離独立を求めている非合法組織「バスク祖国と自由」(ETA)による犯行だと断定した。でも何のために?単に「社会不安を煽る」ためにここまでやるものだろうか?警察当局の断定も早すぎないか?即断は禁物だ。ETAの犯行にしては突出しすぎていないか?いろいろな疑問が沸いてくる。現地に入った同僚記者によると、「スペインの9・11」だと人々は表現しているらしい。アメリカの情報当局からは、ETAかアルカイダだろうという観測も出ている。ブッシュ大統領は、お悔やみの言葉とともに、対テロ戦争(=イラク戦争)でのスペインの貢献に感謝する言葉を忘れなかった。その9・11のNYメモリアル・サイトにブッシュ大統領は今日の午後訪れる。「9・11を政治利用するな」という遺族の抗議の動きがあるようだ。


03月12日(金)[9/11から3/11へ]

230万人とも、それ以上とも言われる人々が、雨の降るマドリッド中心部の広場・街頭に集まって、弔意と怒りと悲しみと絶望に打ちひしがれている。その映像を見ながら胸が塞ぐ思いがする。ETA犯行説が早すぎる疑問をきのう記したけれども、その後のアルカイダ犯行説への若干のシフトをみていると、スペイン治安当局も相当の混乱に陥っているようだ。今日のワシントンポスト紙やウォール・ストリート・ジャーナル紙は「3/11」と社説で記して、「9/11」後の最悪のテロと断じている。ある意味ではその通りだろう。ニューヨークタイムスの社説も「マドリードのグランド・ゼロ」と題し、「私たちみんながマドリード市民(Madrilenos)だ」と書いた。「9/11」のあとに、フランスのル・モンドが「私たちみんながアメリカ人だ」と書いたことに通じる強い強い連帯と共感の表現だ。この「9/11」と「3/11」のあいだに何が起きたか?冷静に考えてみる。
2つの戦争があった。対アフガニスタン戦争と対イラク戦争である。ものすごい量の血が流れた。20世紀から21世紀になり、国家間の秩序はとんでもない混沌のなかに放り出された。次のルールがまだ出来ていないのだ。
何という世の中になったことか。憎しみの連鎖を断ち切ること。青臭い切実な希望をまだ失いたくはない。


03月13日(土)[スペインの市民の怒りの矛先]

外は晴れ渡ったよい天気だ。仕事があって支局に出たら、CNNがブレーキング・ニュースで、スペイン当局が5人を列車爆破に関連して逮捕したと一報している。3人のモロッコ人と2人のインド人を含むという。何が何だかわからないが、マドリッドからの生中継映像が延々と映し出され、スペイン内務省の前には、捜査当局の「曖昧さ」に怒った市民が数千人か、繰り出している。「嘘つき!」「情報を操作するな!」と叫んでいる。本当のことを言え、というわけだ。CNNやワシントンポストもあけすけに報じているが、例の事件が、ETAによる犯行か、アルカイダなどイスラム系組織の犯行かで、間近に迫っている選挙での現在の政権に対する国民の態度が180度違ってくるだろうというのだ。モロッコ人の逮捕が気にかかる。

(この間、5時間不在)

支局に戻ってみると、何と「犯行声明ビデオ」が発見されたというではないか。
声明はモロッコなまりのアラビア語だという。「米同時テロ事件からちょうど2年半後に、犯罪者ブッシュの協力者へのお返しだ」とか言っているらしい。スペインは地政学的に、アラブ系の人々やイスラム教徒も多い。そういう人たちに対するHate Crimeが起きなければよいが。怒りの矛先がどこに向かうかが心配だ。


03月14日(日)[スペイン総選挙で与党政権が敗北]

デラウェア州での取材に出かける前に、スペインの総選挙で、アスナール首相率いる与党が破れ、野党の社会労働党が勝利したことを知った。ある意味で驚きである。きのうのマドリッド市内の集会で「嘘つき!」と当局の発表を怒っていた数千の市民の声が記憶に残っている。マドリッドの凄惨なテロ事件を「ETAの犯行だ」と断定していた当局に対する不信感は相当のものだったようだ。まだ真相はわからない。アルカイダ説にしてもわからないことだらけだ。とにかくブッシュ政権にとっては「盟友」の敗北は快いものではないだろう。スペインは対価を払いすぎたのだ、とのヨーロッパ諸国のなかでの空気が醸成されるのではないだろうか。
デラウェア州での取材から戻って、東京からのメールで辺見庸さんが倒れたことを知った。とても心配だ。


03月15日(月)[<彼ら>がいる。どこにでも。]
きのう、今日と、MFSO(Military Families Speak Out)というグループの取材をしている。イラクで息子や娘、親族を失った軍人家族らの反戦団体だ。そのMFSOが声をあげ始めている。デラウェアのドーバー空軍基地前からホワイトハウスまでの一連の抗議行動を取材している。軍人家族のなかからのこういう動きは、少数派ではあるけれども、新しい動きだ。それらのことは放送で出すのだけれども、その際、目についたことがある。ドーバー空軍基地前にも、今日のホワイトハウス前でも、彼らを待ち構えているように、プロテスターに対するプロテスター(「戦争支持派」の人)がいて、「アカ!」とか「裏切り者!」とか「絶対戦争を支持するぞ!」とか叫んでいるのだ。ここにあるのがホワイトハウス前にいた<彼ら>の写真だ。『左翼の奴らが戦死者を食いものにしている』とか書いたプラカードを持っていた。RedとかLeftistとかLiberalとか、とにかく<彼ら>の敵にはそういうレッテルを貼って攻撃する輩である。そういう人たちはどこにでもいる。アメリカにも日本にも。息子がつい先月(つまり戦闘終結宣言から9ヶ月もたって)イラクで戦死したばかりの母親の話はリアルだった。お金の話まで絡んでいてなおさら生臭い。ただ、そういう声も<彼ら>には届かない。RedとかLeberalとかLeftとか言って攻撃していればそれで<彼ら>は満足しているようだ。<彼ら>と<私たち>を隔てる距離の大きさ。

03月17日(水)[バグダッドの自動車爆弾とチェイニー演説の2画面]

イラク戦争開戦1周年を前に、やたらと演説が多い。ホントにこの国の人たちはよく喋る。スピーチのうまいへたが、その人の価値を決めるような弁論社会だ。
僕は昔から弁論部と聞くだけで虫酸が走っていたタイプなのだが、そういう人間には生きにくい場所だ。で、朝からそれらの演説を続けてテレビで聴いていた。チェイニー演説を聴いている最中のことである。バグダッドでホテルが爆破されたというニュースが飛び込んできた。惨状を伝える中継映像が刻々と入ってくる。27人が死亡、40人以上が負傷との発表。ひどい事件だ。しばらくして、奇妙なことが起きた。CNNもMSNBCも、テレビの画面を2分割画面にして、バグダッドの映像とチェイニー副大統領の演説を同時並行で流している。片やバグダッドの惨劇、片やテロとの断固たる戦いを訴える演説。これが「相乗効果」というか、それを狙ってのディレクターの判断なのだろう。こういうテレビの「演出」がある。2つの画面の組み合わせが「相乗効果」になるのか、それとも「相殺効果」になるのかは一種の賭だ。しかし、その2つの画面の組み合わせというフレームに潜む「政治性」については語られることが少ない。仮に片方の画面で「イラク戦争後、世界はより安全になった」という大統領の演説が流れていたら、視聴者はどのような思いを抱くだろう。テレビのフレームの構成が思考の流れを枠付けることがある。


03月18日(木)[「フセイン捕獲後、世界はより安全になった」か。]

気づきもしなかったが、きのう下院が「フセイン捕獲後、世界はより安全になった」との決議案を可決していたそうだ。それをあざ笑うかのように、今日もイラクではバグダッドやバスラで爆弾事件が起きている。開戦1周年を意識した動きだ。世界はより安全になったか。事件を引き起こす動機になっているアメリカに対するこの憎悪が、持続的なものか、それとも過渡的なものか。それをじっくり見定めることが大事だ。ブッシュ大統領はケンタッキー州のフォート・キャンベルでミリタリー・ジャケットを着て兵士らを前に演説をぶった。イラク開戦1周年を記念しての演説である。とても嬉しそうだ。目元もうるうるしている。何度も何度も兵士らの拍手喝采で演説は迎えられた。その前座に、例によって愛国系のカントリー歌手が登場していたが、ダレル・ウーリーという「Have You Forgotten?」(君はあの9/11を忘れたのかという歌)を歌っていた例の歌手だ。トビー・キースが谷村新司だとすれば、ダレル・ウーリーはさだまさしみたいな感じか。こういう歌手が大好きなアメリカ人が増えていることは、トビー・キースのCD売り上げの記録をみてもわかる。2002年が4160万ドルの売り上げだったのが、2003年は、6240万ドルに増えた。コンサート売り上げはもっと爆発的に増えた。なるほど、こういう歌手たちにとっては、世界はより安全になったのだろう。午後、大きなニュース。アルカイダNO.2のザワヒリが包囲されているという。本当か?


03月21日(日)[死んだ男の残したものは]

谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけた「死んだ男の残したものは」は好きな歌のひとつだ。言葉のちからとメロディのちからが、せつなくも一種優美な形で融合している。その歌詞はこうだ。

死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりのこども
ほかには何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりのこども
ほかには何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

死んだこどもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
ほかには何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
ほかには何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
ほかには誰も残っていない
ほかには誰も残っていない

どうしてこんな詩を引用したのかというと、19日のブッシュ大統領のイラク開戦1周年演説で、イラクで殉職した日本の外交官・故・奥克彦さんについてのエピソードが言及されていたからだ。奥氏が死の直前にどのような思いを抱いたのかはわからない。無念の思いがあっただろう。けれども、確かなことは、奥氏が死なない方がよかったという事実だ。死んでしまった人間は何も言うことができない。その言う意味で彼は「ほかには何も残さなかった」。死の直後に「ひるんではならない」と書いた新聞の社説や、演説の中で「彼は全く正しい」と「評価」する人々の言葉が、根源的な部分で信じられないのは、「死なない方がよかった」という事実がまず消えているからだ。奥氏のエピソードが、彼が生前、イラク復興で中心的な役割を果たすべきだと言っていたという国連ではなく、ホワイトハウスという場所で言及されたので、あらためてご冥福を祈らずにはいられない。


03月24日(水)[捨て身の告発と大統領の余興]

NYからシャトルの1便でワシントンに戻ったが眠い、眠い。9時からの9・11調査委員会の公聴会がヤマ場を迎える。リチャード・クラーク元補佐官(テロ担当)が午後から証言。クラーク氏は冒頭で「政府は国民の期待を裏切ったし、私自身も期待に背いた。許しを請いたい」と米国民に謝罪をした。とても重みのある言葉である。いわば捨て身の告発だ。クラーク氏の言葉を聞く限り、どうやら、ライス補佐官(安全保障担当)という人物の危機管理能力は、致命的に何かが欠如していたという印象を強くもたせる。ブッシュ大統領に至ってはそれ以前の問題だ。アルカイダよりフセインとのつながりを調べろ、と指示していたというのだから。クラーク証言の前には、サンディー・バーガー元補佐官(クリントン政権の元での安全保障担当)が証言していたのだが、その証言の最中という絶妙なタイミングでFOXニュースが、クラーク元補佐官のバックグラウンド・ブリーフィング(通常は匿名=政府高官が語ったという書き方になる)の際の音声テープを放送しているではないか。そこでは当のクラーク氏がブッシュ政権のテロ対策を誉めあげたりしているのだ。つまり、クラーク氏は二枚舌の信用のならない輩である、との印象がおのずと生まれる。いよいよホワイトハウスとクラーク氏の泥仕合の様相を帯びてきた。
閑話休題。タキシードを着るのは、そもそもこのタキシードを試着購入した10年前以来のことである。こんな窮屈なものなんか着たことがない。それを着てホテルへと急ぐ。TVラジオ記者協会主催の年次ディナーがあるのだ。去年はイラク戦争やら何やらで出席できなかった。毎年、大統領が列席する。ブラックタイ着用というドレス・コードがある。何しろバカでかい会場での夕食会だ。会場にはテレビ・ラジオ関係の記者・カメラマンなど放送ジャーナリズム関係の人がもの詰めかけた。そして自分もそのひとりである。そこでのことだ。余興でスライドショウをブッシュ大統領が演じてみせた。「選挙の年アルバム」とのタイトルで、ホワイトハウスの日常を写真で撮ったものにおもしろおかしくコメントをつける。当然、作者は大統領とは別にいるのだろうが、これがとてもウケていた。ホワイトハウス内で何かを探しているシーンの写真をみせながら「大量破壊兵器はどこだ」などと自らおどけてみせる。何という臆面のないサービスぶりだろう。会場で起きる笑いにつられて、自分も笑いながら、つい数時間前に聞いていたクラークの捨て身の告発と大統領の余興のあまりの「落差」に、急に醒めた気持ちを抱え込む。この会場の緊張感の欠如が、どこか米放送ジャーナリズムの今を語っているようにも思えてしまうのだ。そしてその客席のひとりが僕である。


03月25日(木)[寝ざめの悪い朝、まぶしすぎる太陽]

今日はついていない一日だった。こういう日もある。どうも昨夜のパーティー出席以降ロクなことがない。ひとつはカメラ手配でトラブルが生じて、ネタを撮りこぼした。このあいだ接着してもらったばかりのDentureがいきなり外れた。外はいい天気だ。この陽気だと、Cherry Blossom Festivalの頃にはちょうど満開を迎えるのかもしれいない。
それで昨夜のディナー・パーティでのブッシュ大統領のジョークがさっそく問題になっている。「大量破壊兵器がない、ない」とおどけたやつだ。
国防総省の記者会見で、CNNの記者がこの件について質問した。大量破壊兵器をさがした事実があんなふうに大統領にジョークにされていいのか?それにテレビ・ラジオ記者がそれを座って笑って聞いているなんていいのか?と。ラムズフェルド長官は「自分は出席していなかった。でもどういうコンテクストでの発言かわからないので判断できない」とかわした。その場にいた身としては、こういう質問をした記者(CNNのペンタゴン担当)に敬意を表するしかない。
夜、帰りしな、駐車場に行ったら、車のタイヤがぺしゃんこになっていた。朝は全く大丈夫だったのに。パンクしていた。ついてない日はこういうもんだ。


03月27日(土)[文化の力・戦争の力]

この所の陽気でワシントンの桜は一気に満開モードだ。1854年の日米和親条約締結以来、日米関係が150周年の節目を向けたというので、いろいろなイベントがここワシントンである。アメリカの始めたイラク戦争の「復興目的」ということで自衛隊が戦地に派遣されたという出来事が、この150周年の年に起きたことは長く記憶にとどめられるだろう。その評価は、しかし、どのように定まるのか。
ケネディ・センターのミレニアム・ステージは、入場料がフリー(無料)ということもあって、いろいろなイベントを気軽に楽しめる。演目の善し悪しで客席が埋まったり埋まらなかったり。そのミレニアム・ステージの客席が、今日は満員どころか立ち見客が大勢連なり、人が溢れている。出し物は、その日米150周年のジャパン・ウィークの一環として、沖縄の伝統芸能が演じられているのだ。三線と笛、沖縄の踊り。ケネディ・センターで三線の音が聞けるとは思わなかった。それにしてもすごい人数。琉舞はとても珍しいのか、多くの人が足を止めて見入っていた。沖縄には発信に値する「文化の力」がある。これは素晴らしいことだ。何だか自分は全く関係していないのに、この沖縄の「文化の力」が溢れているステージをみているうちに、とても誇らしく思えてきて、何となく涙ぐんでしまった。この「文化の力」。日本の東京から世界に発信できる文化はあるか?アニメか?映画はどうだ?音楽は?何やらニッポンでは『踊る自衛隊』とかいう自衛隊のPRビデオが話題らしいが、戦争というパワーではない、「文化の力」というソフトパワーが発揮される日がいつの日か来ることを祈る。


03月31日(水)[この憎しみの根深さは、ならず者と言うだけでは]

イラクのファルージャで起きたアメリカ人民間業者らに対する襲撃事件は、イラク人のこころの内奥に潜む「憎悪」の根深さを語っている。黒こげになったアメリカ人の遺体を引きずり回し、橋脚に電話線のようなものでぐるぐる巻にして吊している。その映像から多くの人は、ソマリアで米兵の遺体が引きずり回された過去の記憶を想起したに違いない。それにしてもこの憎しみ。CBSのイブニングニュースを見ていたら、映像は加工されてボカシのような状態になっていた。CNNなどは時間が経過するに従って、なし崩し的に吊された黒こげ死体を加工せずに出していた。民主主義を植え付けようとする努力を妨害しようとする卑劣な犯行とか、通り一遍のことをホワイトハウスはコメントしているが、そういうレベルとは違う根源的な憎しみが存在しているのだ。この憎しみと関係がおそらくあるのは次のことがらだ。例のリチャード・クラーク元補佐官の捨て身の「内部告発」以降、何となくおぼろげながら輪郭が出来上がってきているのは、クリントン政権からブッシュ政権に代替わりした際、ブッシュ政権、特にライス補佐官らは、冷戦型の思考から抜け出せず、アルカイダの脅威を何ら重視していなかった。9・11が起きて、ブッシュ大統領は、これをイラクと結びつける短絡思考に陥り、その結びつきを探すことに執着した。9・11がアルカイダの仕業とわかり、アフガニスタンのタリバン政権という国家体制転覆を、対テロ戦争の第1幕とした。その勢いの赴くまま、「大量破壊兵器の存在」を盾に、イラク侵攻を決断した。これは対テロ戦争の第2幕。その結果、フセイン政権をあっけなく転覆させた。しかし、大量破壊兵器がなかったことが徐々に明らかになるにつれて、戦争の大義を「中東全体の民主化」という大義にシフトさせようとしている。クラークが撃ったのは、そもそものスタート地点の思い違い、つまりアルカイダの軽視という事態と、イラクへの強引な関与探しである。それゆえに、今後の展開次第では、ブッシュ政権の致命傷になりかねない、と。こういう構図ではないか。
大統領選挙も絡んだ生臭い展開になるかもしれない。

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