08月15日(月)[トップを走り続けるシーラカンス]
今日からこの<業務外>日誌をスタートする。連載開始日に8月15日を選んだのには特に意味があるわけではない。おまけに今日はちょうど60年目の敗戦記念日である。新聞やテレビには戦後60年にちなんだ特集なども散見されるが、そういうことは書かない。何しろ<業務外>日誌だから。で、書くのは忌野清志郎のことだ。きのう日比谷の野音で野外ライブをみたので。これが今年見たなかで最も出来のいいコンサートだった。清志郎は今、最強の仲間たちと一緒にやっている。日本のどの他のロックバンドもこんなにうまくはない。歌も下手くそで聞くに堪えない。こんなに切なく歌える歌手なんてそうそういるわけがないもんなあ。デビュー35周年記念のツアーの一環だけれども、こないだ鎌倉で見た時よりズウッとよかった。やっぱり清志郎は夏の野音だ。この暑さが心地いい。客に若い人がかなり混じっているのもいい。入り口でもらったうちわに清志郎直筆の魚の絵が描かれている。シーラカンスだ。35年間も日本のロックシーンのトップランナーを走り続けている自分をシーラカンスに擬したんだろう。でもね、腐った魚の目をした他の若い自称ロックバンドなんか及びもつかないほどこの日の清志郎たちはクールだった。
ずいぶん久しぶりに聞いた「サマータイムブルース」も全然訴求力が衰えてないんだよな。原子力をめぐる世界の情勢は、このカバー曲を歌い出した頃よりもっとひどくなっている。途中、何と観客席のまんなかにサブステージをつくって、そこで観客に囲まれながら『僕の好きな先生』とか『あふれる熱い涙』とか5曲ほど歌った。こんな試みが野音でできるなんて彼ら以外に誰ができるんだい? 定番の『ドカドカうるさいR&Rバンド』『雨あがりの夜空に』『キモちE』以外に、この日の曲で突き刺さってきたのは『君を信じてる』という美しいバラードだ。なんて素敵な歌なんだろう。梅津和時や片山広明らのホーンセクションとの息もピッタリ。このシーラカンスは今もトップを走り続けている。コンサート後に楽屋にお邪魔すると、素顔の優しいあんちゃんがいた。清志郎だった。同時代を生きてきて本当によかったと思える人だ。まだまだ希望は捨てられない。

08月17日(水)[原爆投下から60周年の年に]
この夏は、広島・長崎に原爆が投下されてから60年という節目の年にあたる。原爆投下の意味を問い続けることは、被爆国・日本の責任でもあるはずなのだが、政治家たちは政争に忙しく、また僕ら自身を含むメディアもその責任を全うしているとは言い難い。もちろん8月5日にテレビで放送された『ヒロシマ〜あの時、原爆投下は止められた』のような志の高い試みも例外的にはあったのだが。そんななかで、原爆開発=マンハッタン計画に携わった科学者たちが1947年に創刊したアメリカの科学専門誌『Bulletin of the Atomic Scientists』の8/9月号が、刺激的な原爆特集を組んでいる。この雑誌は例の「終末時計」でも有名だが、今のアメリカのなかでは少数派の良心を象徴しているような雑誌だ。原爆特集では、まず問いが設定されている。If the decision had been yours alone to make, would you have dropped the (atomic) bomb? -----あなたが一人で決断を下していたとしたら、原爆は投下していたか? 『ヒロシマ』のサブタイトルに呼応するかのような根源的な問いなのだが、この問いに対して8人の有識者たちが回答論文を寄せている。回答者のなかには、北朝鮮の核問題の専門家ロバート・ガルーチやメリーランド大のアルペロヴィッツ教授らに加えて広島の秋葉市長も名を連ねている。なかでも面白いのは、辛うじて多数派だった「投下は誤り」との主張に対し、原爆投下は正当だったとの論陣を2人の有識者が堂々と張っていることだ。保守系シンクタンクAEIのトーマス・ドナリーは、1945年当時の日本の「一億一心」という狂気のプロパガンダや、本土決戦になった場合のあり得べき被害などを指摘しながら、こう言い切っている。
原爆の投下は戦争のない世界をもたらしはしなかったが、人類の歴史上最も破壊的な紛争に終わりをもたらした。この間、2つのファシスト体制(訳注;日本とドイツ)は、数千万の同胞を組織的な野蛮な方法で抹殺するさまざまな巧妙な手段を用いてきた。原爆を与えてくれた神に感謝しようではないか。そして、原爆使用にともなう重責に進んで堪えてくれたハリー・トルーマン大統領にも感謝しよう。そして、もし私がトルーマンの立場だったら? 太平洋戦線における第二次大戦の苦しみを短縮するために、私も同じ決断をしていたと思う。原爆が開発された以上は、私はそれ(=原爆)を使っていただろう。
このような考え方が、残念ながらアメリカの主流にあることをもっともっと日本のメディアは伝えなければならない。先日ガンで亡くなった米ABCテレビのアンカー、ピーター・ジェニングスは、すでに原爆投下50年の節目の年に、自国の原爆投下の正当性を問う報道番組を制作していたことを思い出す。

08月20日(土)[ライフ・イズ・ミラクル]
エミール・クストリッツァ監督の映画『ライフ・イズ・ミラクル』を遅ればせながら見た。クストリッツァの映画が好きなのは、そこには誰ひとり「正義の味方」が登場しないことだ。すべての登場人物は欠点だらけの生身の人間であり、戦争との関わりでは、愚かであったり利己的であったり、運命を翻弄されまくる人間くさい人たちばかりだ。あの名作『アンダーグラウンド』でもそうだった。もうひとつの魅力は彼の音楽の使い方だ。実に暴力的、扇情的な音楽の効果。今回の『ライフ・イズ・ミラクル』も音楽が実にいい。『ライフ・イズ・ミラクル』の舞台は、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争である。そこではムスリムやキリスト教徒、正教が複雑に入り交じって殺戮を繰り広げた。その情況にいわば巻き込まれた人々の悲喜劇なのだが、前に書いたように、誰一人「正義の味方」なんぞ登場しない。ただ、ある意味の「神」が実はこの映画には登場してくる。ロバである。世の中に絶望したとかいう触れ込みで何度も線路で自殺を図ろうとして線路上で動こうとしないロバ。そのロバが実にうまい具合に登場してくるのだが、ここでは記すまい。そして最も唾棄すべき存在として登場してくる人間は、この映画においては、テレビ報道のリポーターである。CNNあたりを揶揄しているのかもしれないが、戦争を食い物にしている英語放送の女性リポーターの扱かわれ方に、クストリッツァの強烈な意志を感じる。

08月23日(火)[『大統領の陰謀』を今更みてみる]
ウォーターゲート事件におけるワシントンポスト紙の独走スクープで、例のディープスロート氏が名乗り出たことは大きな衝撃だった。そのミスターXがスクリーンに登場する映画『大統領の陰謀』(1976年制作)を今更みると、いろんなことを考えさせられる。何しろ古い映画だ。ロバート・レッドフォードがウッドワード記者を、そして、ダスティン・ホフマンがバーンスタイン記者を演じている。あの時代。はいているズボンがやたら細い。ダスティン・ホフマンのしているネクタイがやたら太い。タバコを職場や取材先ですぱすぱ吸っている。あの当時はそれでも平気だったんだ。電話もダイヤル式だ。うーむ。調査取材のかなりの部分が電話取材なのが気にかかったりする。記事はタイプライターで打っている。記者は、メモをとっていいかどうかに非常にこだわっている。つまり、メモは録音テープと同じくくらい証拠能力があったということだ。映画では、ディープスロート氏の所属先は曖昧にされている。まさかFBIのナンバー2だったなんて、脚本家の頭の中にはなかったんだろうなあ。で、面白いのは、ワシントンポスト紙の編集会議のシーン。あれだけのスクープ記事だったのに、政府が対決姿勢になると同じ職場の上司が「ニクソン政権に盾突くのはよくない。再選も確実だし」とか言って、スクープ記事を排除しようとした場面だ。いつの時代でもおんなじと言うことか。

08月24日(水)[『パッチギ』の健康さ]
井筒和幸の評判作『パッチギ』(DVD版)をみる。青春映画としては実によくできた作品だと感心させられた。同じ時代を描いた村上龍原作の映画『69』があまりにヒドかったのでその対照が際だつ。こうも出来・不出来がはっきりするのも映画の残酷なところだ。李鳳宇(シネカノン代表)と四方田犬彦(明治学院大学教授)の対談本に以前ずいぶん笑った記憶があるが、この映画の「健康さ」は今のような不健康な時代にあっては貴重なモノだ。役者たちの演技も超ハイテンションで可笑しい。フォーク・クルセイダーズの『悲しくてやりきれない』は今聞いてもこころに沁みるね。

08月25日(木)[孤独な魂(たましい)のロードムービー『Broken Flowers』]
東京にいるとなかなか好きな映画もみられない。きのうから短い夏休みでワシントンDCに舞い戻ってきた。わずか4泊の短い夏休み。でもなぜかほっとする。ここが第二の故郷になったみたいな。これはニセモノの郷愁だろうか。自分でもよくわからない。夜遅く映画館に行き、ジム・ジャームッシュの映画を久し振りにみる。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロー』をみたのはもう二十年くらい前かな。今年のカンヌで審査員グランプリ(第2着という位置づけ)を獲得した『Broken Flowres』をみる。これがコワい映画だった。主演は『ロスト・イン・トランスレーション』のビル・マーレー。あの映画の印象がとても強いので、何だかあれの続きをみているような錯覚に陥るが、内容は全く異なる。大体、ハッピーエンディングではない。一言でいえば孤独な魂(たましい)のロードムービーか。ジム・ジャームッシュ映画特有の「不条理」がこのロードムービーでも全編を貫いていて、観客はビル・マーレーと共にこの「不条理」の謎解きに参加させられてしまうのだ。ビル・マーレーという役者は本当に存在感がある。ついでにこちらで借りてみた『What about Bob?』での演技にしても、この役者の笑いは本当にコワいのだ。そう、まさに「不条理の笑い」とでも言ったらいいのか。日本での公開はまだまだ先なのだろうが、こういうアメリカ映画こそもっと評価されてもいいような気がする。

08月26日(金)[カネさえ儲ければいいのか?]

今日のワシントンポスト紙に面白い記事があった。NIH(National Insutitutes of Health=米国立衛生研究所)と言えば、アメリカの医療研究機関の最高峰・最先端だ。日本からもたくさんの研究者が在籍していて重要な研究にいそしんでいる。ワシントン勤務時代に何度かここに入ったが、入り口での検問チェックはかなり厳重だった記憶がある。何しろ医療研究の最高峰・最先端だ。そこで働く研究者にも強い職業倫理が要求される。このNIHのエリアス・ゼルフーニ所長が、ここで働くおよそ1万8千人の研究者らに対して、製薬会社や医療企業、バイオテクノロジー関連企業との関係、特に株式保有に関して禁止、または強い制限を設けるとの「職業倫理規定」を発表したところ、内部の研究者らから猛反発を喰らい、当初6千人の研究者を対象としていた株式保有の禁止が、何と200人の上級研究者だけに限るように「緩和」されたのだという。さらには、NIH研究者が外部の研究機関に参加することを禁じていた措置も、それが明らかな製薬会社・医療企業のスポンサー機関でない限り、許可する方向に方針転換してしまったのだという。その理由が面白い。

Many warned that the broad divestment order would have severe economic repercussions and cause some top agency scientists to leave for more lucrative jobs.

つまり、あまりにも広範に倫理規定を適用すると、経済効果面で悪影響が出て、さらにはできる研究者はもっとカネになる場所に移ってしまうおそれがあるというわけだ。
この記事を読んで、うーむ、日本ならばどうなんだろうと考えた。学問研究者と営利企業との関係という根本問題のことを言っているのだ。
一般的な風潮としての拝金主義は下品だし、とても忌むべきものだ。それはIT成金とかの行状をみてもわかる。でも今の日本は国全体の政治がその方向に向かいつつあるし、「産学協同」という言葉がかつての意味から反転してしまった現実から考えても、このビジネス(カネ儲け)と職業の社会的な責任との<折り合い>はまだまだ未解決の問題だ。「カネさえ儲ければいいのか?」という問いに僕らはまだ有効な回答を持ち得ていない。忌野清志郎デビュー35年記念DVDにおさめられている金子マリの歌『彼女の微笑み』を聴きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。


08月29日(月)[R・ストーンズの『スイート・ネオコン』]
ローリング・ストーンズが9月6日に全米リリースする新アルバム「A Bigger Bang」のなかの1曲がアメリカで何かと話題を呼んでいるとか。テキサス州クロフォードのブッシュ大統領私邸の牧場前に座り込んでいるシンディ・シーハンに関するニューヨークタイムズの記事を読んでいたらそんな情報にぶちあたった。イラクで息子が戦死した彼女は、ブッシュ大統領に直接の面会を求め、息子が命を捧げたとか言う<崇高な使命>とは一体何なのか、直接聞きたいと言っているのだ。彼女の行動は全米の大きな話題になっている。それはそれとして、その記事の中にローリング・ストーンズの『スイート・ネオコン(愛しのネオコン)』のことが触れられていた。ミック・ジャガーは『特定の個人、例えばブッシュ大統領を批判してるんじゃないぜ。もしそうなら<愛しのネオコン>なんて言わないさ』とか、しつこく釈明しているみたいだが、歌詞のなかには、イラクでボロもうけした軍需産業ハリ・バートン社をからかう内容もある。さらには『あんたらは自分たちのことをキリスト教徒だとか言っているけれど、俺に言わせりゃあ、偽善者さ』というような挑発的なフレイズもある。かつて『ストリート・ファイティング・マン』を歌っていたストーンズだ。怖いものなんかない筈だけれど。さわりを聴いてみたけれど、なかなかよさげな曲だ。コンドリーザ・ライス国務長官はクラシック好きで、ストーンズはお気に召すような感じじゃないし、ブッシュ大統領も、トビー・キースみたいなカントリー系のファンだから『スイート・ネオコン』は二人の耳には届かないかもしれない。

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