ユーラシア史を見直す(1) [INSIDER NO.278 92年8月15日号より]

ロシア人とは何か?


 ドニエプル川を見おろすキエフ市の小高い丘の上に、11世紀に建てられたペシェルスク寺院の跡がある。同市内に残る多くの正教寺院の中でも最も古いものの1つで、1700年に始まったロシアと北欧諸国との北方戦争では、川を遡ってくるスウェーデン艦隊を迎え討つ砦ともなった。第2次大戦中、キエフがドイツ軍に占領されていた1941年、この寺院を訪れたドイツの要人を殺害しようとしてソ連赤軍のテロ部隊が強力な時限爆弾を仕掛け、壮大な主聖堂をほとんど跡形もなく吹き飛ばした。が、ドイツ要人は到着が予定よりずれたために命を取り留めた。今はその廃墟の真ん中に粗末な木の十字架がポツンと立てられて、いつのことか分からない聖堂の再建を待っている。

■キエフの古寺院の庭で

 その寺院に背中を接する3世紀前に建てられた2階建ての館に「ウクライナ文化・歴史的記念物保存協会」の事務所がある。歴史保存協会といった名前の団体は、エストニアをはじめ旧ソ連の各共和国のどこでも、独立志向の高まりの中で新たに結成されたり、活動を再開したりした。それまでモスクワから画一的な“ソ連文化”を押しつけられ、それぞれの民族独自の文化的伝統や歴史的記念物がないがしろにされていたのを、自分たちの力で回復しようとするそのような運動は、地味ではあったが、どの国でも独立と改革を目指す市民的なパワーの一翼を担ってきた。ウクライナのそれは、60年代半ば、ブレジネフ時代に私的なサークルとして始まり、200万会員から広く献金を集めて立派な事務所を持つ有力な団体に成長した。

 副会長のザレンバ・セルゲイは開ロー番、こう言った。「キエフは10年前、1982年に市創建1500年祭を祝った。1500年前にバルト海と黒海を結ぶ貿易の中継点としてこの街が出来た頃は、もちろんモスクワは存在していなかった。13世紀の初めでさえも、モスクワは小さな砦(クレムリン)にすぎず、それがようやく街の体をなしたのは1247年のことだ」

 ここに、実はウクライナ人のロシア人に対する感情の原点がある。東スラブ人が初めて国家を形成したのはこのキエフを首都とした「キエフ・ルーシ」であり、それが栄えた9〜12世紀の間、ここは、今日ではロシア、ウクライナ、ベラルーシに分かれている東スラプ人の領域の政治的中心であったばかりでなく、東ヨーロッパ全体の最も強力な文化・教育の中心でもあった。ペシェルスク寺院はその時代の栄光の残影であるし、やはり11世紀に建てられた有名な聖ソフィア教会は単に教会であったのでなく、東西の書物を集めた図書館やその筆写・翻訳のための工房を備えた学問所でもあり、またイコンをはじめとする美術工芸の職人養成所でもあり、さらにはユダヤ人やギリシャ人やノルマン人の商人が出入りする交易所でもあった。

■タタールの軛

 1237年に始まったモンゴル騎馬遊牧帝国=タタール人によるルーシ侵入によって、キエフは徹底的に踏みにじられ、ほとんど廃虚と化した。それから18世紀まで、いわゆる「タタールの軛(くびき)」の500年間が始まる。タタール人はしかし、一般に信じられているように、ただ破壊と暴虐の限りを尽くしたのではない。ロシア人やウクライナ人は、自らのふがいなさへの悔しまぎれもあってそのように歴史を描きたがるのだが、ただ武力だけで500年にもわたる支配が成功するはずがない。

 岡田英弘=東京外語大AA言語文化研究所教授は『世界史の誕生』(筑摩書房)で書いている。

「モンゴルの支配下に、ルーシの文化は飛躍的に成長した。モンゴル人が人頭税の徴収のために戸籍を作り、徴税官と駐屯部隊を置いてから、ルーシの町々は初めて徴税制度と戸籍制度を知り、自分たちの行政機関を持つようになった。ルーシの貴族たちは、黄金のオルド〔注=この一帯を支配したモンゴルのジョチ家のキプチャク・ハーンの宮廷〕への参勤交代の機会に、ハーンの宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化にあこがれるようになった。彼らは他のルーシとの競争に勝つために、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚となるのに熱心であった。またモンゴル人のほうでも、仲間との競争に敗れたモンゴル貴族には、ルーシの町に避難して、客分となって滞在する者もあった。政治だけでなく、軍事の面でも、ルーシの騎兵の編制も戦術も、まったくモンゴル式になった。ただ1つ、宗教の面では、ルーシはモンゴル人のイスラム教は取り入れず、ロシア正教を守ったが、そのロシア正教でさえ、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人が、教会や修道院を免税にして保護したおかげで、それまでになく普及したのである。そういうわけで、500年のモンゴルの支配下で、ルーシはほとんど完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になったのである」

 で、このモンゴル支配の下で、誰よりも熱心に黄金のオルドに従い、言わばその手先となって他のルーシ諸国からの徴税まで請け負って、その功により、ルーシ諸公たちの筆頭である「大公」の位をモンゴル人から授けられたのが、新興のモスクワ公国だった。モスクワが、ウクライナはじめ他のルーシに対して優位に立ったのは、タタール人の庇護によってであり、それが昨年まで続いたモスクワのキエフやミンスクに対する支配・被支配の関係の始まりだった。

 ウクライナは、昨年秋、ゴルバチョフが提起した「新連邦条約」への署名を拒否することによって、連邦瓦解への引き金を引き、自らの独立を達成した。それによって彼らは単にソ連邦74年の歴史をめくり返したのではなく、1328年にモスクワ公イヴァン1世がハーンから大公に任命された時以来の660年間分の無念を晴らしたのである。歴史保存協会のセルゲイは、ペシェルスク寺院の庭をゆっくりと歩きながら言った。

「ルーシの始まりはキエフであり、モスクワなど北の方はキエフが支配していた。後にモンゴルの後ろだてでモスクワ公国が大きくなり、ロシア(ルーシ)の名前を纂奪した。これは一種のカモフラージュだった」

■ロシア人の起源

 同行した歴史学者で「ウクライナ人情報ビューロー」キエフ支部長のアルカディー・キエレフが“カモフラー一ジュ”の意味を補足した。

「キエフ・ルーシすなわちウクライナ人が東スラブ人の本流であって、いわゆるロシア人は起源が違う。スカンジナビアのノルマン人が、バルト海から川を遡って、いったん舟を陸に揚げて、またドニエプル川に降ろしてキエフから黒海に抜ける、その最初の陸揚げ地点あたりで、フィン人〔注=フィンランド人やエストニア人の祖先〕とミックスしたのが、モスクワ・ルーシすなわちロシア人の元だ。彼らはその出自を隠して元々からルーシ全体の支配者であったかのようなふりをするために、ロシア人を名乗ったのだ」

 ロシア側の伝承によっても、9世紀半ばにフィン人と東スラブ人がバルト海の向こうのルーシ族に使いを出して、「我々の国は大きく豊かだが秩序がないので、公として統治するために来てくれ」と要請したのでリューリクという人物が一族を引き連れてノブゴロドに座して北方を支配し、さらにその家臣2人がキエフにやってきて平原の東スラブ人も支配した、ということになっているから、いずれにせよルーシはノルマン人とフィン人・東スラブ人のミックスによって9世紀に出現したことは確かなようだ。

 ただウクライナの側からすれば、キエフはそれ以前、5世紀後半に建市した「ルーシの都市の母」であって、それから400年も遅れて北方に現れた混血支配者が主人顔をするのは許せない、ということなのだろう。民族意識の強いウクライナ人に言わせれば、ルーシはノルマン人とフィン人の混血であり、少なくとも最初は東スラプ人の血も混じっていなかった。あるウクライナ人がエストニア人に向かって「あんたたちがノルマン人を呼び込んだから、ロシア人などという野蛮な人種が出来たのだ」と責任追及しているのを聞いたことがある。それほどウクライナ人のロシア人への軽蔑は強い。ウクライナ人の立場では、古いルーシ語の原型を最もよく残しているのもウクライナ語で、それがロシア語の1分流のような扱い方をされることは我慢がならない。その思いは19世紀後半のロシア帝国がウクライナ語による出版・演劇・歌謡・講演を全面的に禁止して厳しい弾圧を加え、1930年代にスターリンが再び同じことを繰り返したことの記憶と結びついている。

■スラブ人とは……

 とはいえ、そもそもスラブ人そのものの起源も、学問的にはっきりしているわけではない。古代には、ドニエプル川上流からエルベ川流域にかけて(今の北西ウクライナからベラルーシ、ポーランドあたり)に広がる、温和な森林採集・農耕民族であったらしく、その南の今のキエフあたりから黒海北岸のステップ平原には先駆的な遊牧騎馬民族国家スキタイが1000年もの間、繁栄を続けていた。2〜4世紀にゲルマン系ゴート人が南下してスキタイを滅ぼし、やがて4世紀末、遙かモンゴル高原から中央ユーラシアの草原の道を通って新しい遊牧騎馬民族=フン人(匈奴)がやって来て、ゴート人を東に追った。その結果ヨーロッパでは「ゲルマン人の大移動」が起きて、西ローマ帝国が消滅、ヨーロッパの古代が終わって中世が始まる。しかしその衝撃を引き起こしたフン人も、5世紀半ばに王アッティラが死ぬと急速に衰えて消滅する。

 その後の黒海北岸の平原の空白を埋めたのは、またもやモンゴル系の遊牧民アヴァル人(中国名は烏丸)で、その王バヤン・カガンは6世紀半ば、ドナウ川下流を中心に一帯のスラブ人を従えて、ドン川からエルベ川とアドリア海に及ぶ地域を支配した。バヤンの息子は7世紀前半にアヴァル人、スラブ人などからなる大軍を率いて東ローマ帝国を攻めるが失敗、衰えていく。

 このように、モンゴル高原から発した遊牧騎馬民族がステップ平原から地中海沿岸にまで進出して、古代地中海世界を繰り返し揺さぶっている間に、もみくちゃになりながらも元々の領域から四方に広がって行ったのがスラブ人である。北東に向かってバルト人(今のラトヴィア人とリトアニア人の祖先)の住むバルト海沿岸や、フィン人の住むヴォルガ川流域まで侵入したのが東スラブ人で、南に向かってバルカン半島からギリシャに入ったのが南スラブ人、そして西にエルベ川を越えて今のライプツィヒにまで達したのが西スラブ人である。

 現在のインド・ヨーロッパ語族の中でスラブ人は最大で、計2億6000万人。東スラブ人はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人で1億8000万人、西スラブ人はポーランド人、チェコ人、スロバキア人で5000万人、南スラブ人はセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人、それにブルガリア人で3000万人である。ブルガリア人は元は北コーカサスのトルコ語系の遊牧民で、フン王アッティラの子孫に率いられて7世紀にバルカン半島に入り、先住の南スラブ人を征服してブルガリアを建国した。スラブ人とミックスしてスラブの言葉を使うようになったので、一応南スラブ人に分類されている。

 こうしてみると、今の旧ソ連の崩壊とその後のいがみあい、旧ユーゴスラビア(南スラプの国という意味)の血みどろの内戦、そしてチェコとスロバキアの分裂などは、たかだか50年か70年の寿命しかなかった社会主義の崩壊というよりも、そもそも民族的アイデンティティが必ずしもはっきりしないまま便宜的な国家形成を遂げてきたスラブ系諸族の、5世紀以来の歴史の見直しのプロセスと見たほうがいいのではないか。

■コサックの復活


 ところで、キエフのウクライナ歴史保存協会の事務所の同じ建物の中には、「コサック復活運動」の本部がある。セルゲイに案内されてその部屋に入ると、4人の幹部が会議中で、そのうち1人は剃頭弁髪に立派な髭を蓄えた屈強な青年である。壁にはウクライナの大きな地図と、真紅に金の十字を配したコサックの軍旗が槍に結んで飾ってある。

 コサックと言えば、まずタタール・コサック——すなわちキプチャク・ハーンが衰退期に入った14世紀にステップ平原に現れた、タタール人の組織から離脱した独立強盗団のことを思い浮かべてしまう私は、ウクライナ民族主義に立つセルゲイがなぜそこに私を連れて行ったのか、いやそもそもなぜその本部がセルゲイの事務所に接して存在するのかをいぶかった。コサックの原義はトルコ語で「群れから離れた者」だと読んだことがある。4人の幹部たちはロ々に言った。

「コサックこそ我々ウクライナ人の誇りであり、魂である。コサックこそがウクライナ民族のアイデンティティなのだ」「ウクライナの独自の自由と民主主義の理念と組織は、コサックが作ったもので、ロシア人はそういう伝統を持たないので専制的になる。奴らとウクライナ人との決定的な違いはそこだ」

 彼らの話や、帰国後に本棚から引っ張り出した中井和夫『ソヴィエト民族政策史』(お茶の水書房)で確かめた知識を総合すると、コサックの起源は疑いもなくタタール人の自由軍団であるけれども、1482年にオスマン・トルコの支援を受けたクリミア・ハーンのタタール軍による攻略でキエフがほとんど廃墟と化し、キエフ・ルーシが完全に崩壊した後、15〜16世紀にかけてこのウクライナ(荒れ果てた辺境の地という意味)の農民はポーランドおよびリトアニアの支配から逃れて「ウクライナ・コサック」の集団を形成した。

 ウクライナを巡る支配関係は複雑で、モスクワを含めてルーシ全体としては依然タタールの軍事・政治的支配の下にあったものの、ポーランドとリトアニアは抗争しながら、やがて1569年には国家合同を遂げて形の上ではウクライナをその領土に組み込んだ。他方、タタール人の手先となることで地位を確立しつつあったモスクワ公国は、次第に勢力を広げてポーランド・リトアニア連合王国とウクライナの支配権を争った。

■複雑な支配関係

 こういう状況の中で、ポーランド・リトアニアもロシアも、共に農民の農奴化を進めたが、それから逃れて自由を求めようとする農民たちが、ウクライナではドニエプル下流に、ロシアではドン・ヴォルガ下流に落ち延びて集団を作った。ところがそこには先住のタタール・コサックがいて、逃亡農民たちはその先輩たちの軍団組織の仕方から騎馬戦闘技術、言葉、風習に至るまでそっくり真似をする。しかしウクライナ人たちはプライドが高いので、憎むべきタタール人から多くを学んだとは口が裂けても言わない。むしろコサックは初めからウクライナ人のカルチャーであったかのような言い方をする。前出の中井はもうちょっと踏み込んで、

「先住コサックとも言うべき……トルコ系タタール・コサックとの抗争は、ウクライナ・コサックのタタール化という現象となってあらわれた。騎兵戦にたけ、ステップでの戦闘にたけたタタール・コサックと対等に闘っていくためには彼らから多くを学ぶ必要があった。『人は自分の敵に似てくるものである』と言われるが……」

 と書いている。しかし実際に起こったことは、これは全くの推測だが、命からがらバラバラに逃亡してきた農民たちは、当初は彼ら自身では何ら組織化の契機を持たず、広域強盗団として陣地を張っていたタタール・コサックの中に言わば難民として流れ込んで、それに同化しつつ次第に乗っ取ってしまったのではあるまいか。

 そうでなければ、今日現在「コサック復活運動」に携わるウクライナ人青年が自慢げに剃頭弁髪のファッションをするまでに、習俗が一体化するとは考えにくい。ウクライナ・コサックは、すべての青年男子が参加する「ラーダ」と呼ばれる全員集会を最高の意思決定機関として、「アタマン」と呼ばれる指導者を毎年選出した。ウクライナ人に言わせれば、それは古代ルーシ農民の伝統に根ざす独特の民主的方法だというのだが、アタマンはトルコ語であり、私にはむしろ、全部族の代表者が一堂に会して自分たちの最高指導者を選出するモンゴル系遊牧国家の伝統に従っただけのように見える。

■ザポロージエの本営

 ウクライナ・コサックの歴史上、重要な人物が3人いる。

 1人は、リトアニアの貴族出身のドミトロ・ヴィシネヴェツキーで、彼は1550年頃、ドニエプル川の中洲にコサック軍団の本営を築いた。早瀬の向こうにあるという意味でそれはザポロージエの本営(シーチ)と呼ばれ、その急流を泳ぎ切って辿り着ける勇気と体力が、コサックの一員になるための何よりの資格となった。彼らは以後ここを本拠として、南のクリミア・ハーンの領地を騎馬で襲撃し、あるいはチャイカと呼ぶ8門の砲を備えた船で艦隊を仕立てて、黒海沿岸で略奪を行なった。本営内にいたコサックの数は、17世紀までは多くて3000人だった。

 次に重要なアタマンはペトロ・サハイダーチヌイで、彼はガリツィア(西ウクライナ)のウクライナ人小貴族の出身。1620年から始まったポーランドとトルコの戦争でポーランド軍の主力を率いて戦い、その後ザポロージエの指導者になった。彼は半ば廃墟だったキエフの街に自ら移り住んでそれを都として再建し、教会を再興し、聖職者を保護してここを再び東ヨーロッパの一大文化センターにした。1634年には最初の大学「キエフ・モヒラ・アカデミー」も創設され、その守護者であるコサックの子弟がそこでエリート教育を受けた。

 ポーランド・リトアニア連合王国は、一面においてコサックを重用しその一部を軍事集団として雇い入れて貴族と同じ身分を与えた。しかし全部のザポロージエのコサックが雇われたわけではなく、1630年頃で全コサック6万人に対して雇用登録されたのは8000人だった。ポーランドと同化するコサック上層に対して下から不満が噴き上がるのは当然で、それがウクライナ・コサックの民族意識を育てるのである。

■ロシア支配の始まり

 第3の人物フリメニツキーは、そのような中でアタマンになる。すでにコサックの対ポーランド反乱は何度も試みられていたが、1648年にフリメニツキーは、南方の宿敵=クリミア・ハーンや東方のドン・コサックとも同盟して大がかりな反乱に出て勝利、キエフの南のチヒリンに初めてウクライナ人による自治政府を樹立した。この戦争を通じて、コサックは30〜40万人に膨れ上がり、つまりウクライナの農民は全員コサックになったと言っていい状況になった。その意味で、ウクライナ人がコサックを民族精神の証しとして誇るのはもっともなことである。

 しかしポーランドは態勢を建て直してコサックを攻撃、しかも今回はクリミア・ハーンがポーランドと裏取り引きして引き揚げてしまったため、フリメニツキーは劣勢に立った。そこで彼はやむなく、新興のロシアの宗主権を認めることで後ろ楯を得ようとする。この1654年のペレヤスラフ協定が、実はロシアによるウクライナ併合の始まりとなる。

 ロシアは、コサック上層と結んでコサックの統制を図る一方、自由農民の農奴制度への組み込みを進め、約1世紀後のエカチェリーナ2世の時にアタマンを廃止し、さらにザオロージエの本営も破壊した。ドニエプル下流のザポロージエ跡の少し上流寄りに、今もエカチェリノスラフという町があるが、これはロシア女帝によるコサック本営破壊の記念物である。コサック復活運動の幹部の1人は語った。

「今回の[ソ連邦崩壊に伴う]ウクライナの独立とは、1654年のペレヤスラフ協定以後340年ぶりの“ロシアの軛”からの解放を意味していたとも言える」

 もっとも今日のその運動そのものは、文化的な懐古趣味の域を出るものではなく、今年8月には「コサック民族運動500年」を記念するイベントを開き、40人の騎馬隊で黒海を半周する旅を行なうとともに、チャイカ艦隊で遠くバルセロナまで航海する。

「10月には、ウクライナ・コサック世界大会を開催したい。コサック精神こそヨーロッパの騎士道の原点であり、また日本の武士道とも共通する。そのような精神の再興を願う世界中の人々に集まって貰おうと考えている。さらに将来は新たにコサック連隊を創設したい」と、その運動の幹部は語った。

■虚構の帝国

 キエフの古寺院の庭で、歴史の闇の底から湧き上がってくるようなその人たちの言葉を聞きながら、私は改めて、ロシア=ソ連帝国の歴史を彩る二重の虚構性のことを想った。まず第1に、この帝国の中心はロシアであって当たり前であり、しかもそのロシアと言う場合に、かつて狭義のロシアを大ロシア、ウクライナを小ロシア、ベラルーシを白ロシアと呼んでいたように、ウクライナやベラルーシはロシアの弟分であって、その東スラプ3兄弟が共通のアイデンティティの上に立っているのは自明のことだ——とする我々の常識は、ロシアが自分に都合よく作り上げたまったくの虚構だった。

 すでに述べてきたように、キエフ・ルーシはモスクワ・ルーシより遥かに古い歴史を持っており、しかも後者は民族的にも純粋の東スラブ人とは言えない。ところが17世紀半ばに両者の力関係が逆転し、ロシアはモンゴル譲りの激しい拡張志向をもって周辺を呑み込んで苛烈な支配を築いてきたのである。その数百年分の恨みを背景に、91年秋、ウクライナが新連邦条約への署名を拒否したことによって、帝国は一挙に瓦解した。ソ連邦崩壊の意味をそこまで遡ってとらえることなしには、ClSの今後の展開を占うことも出来ないのではないか。

 第2に、しかし、そのウクライナとロシアの歴史的な確執も、実は驚くほど最近まで、モンゴル=タタール人の強烈な支配・影響の下で起こったことであった。ロシア人もウクライナ人も、タタール人がもたらしたのはただ破壊と野蛮であり、自分たちはその支配に屈するどころか影響さえも受けずに、しかも比較的早い段階で彼らをはね返して民族の誇りを守った——という具合に歴史を描きたがる。その気持ちは分からないではないが、それは真実とはほど遠い。そしてそこのところを突き詰めていくと、ロシア帝国の本質は一体何だったのかという、一層深刻な問題が出て来てしまう。

■モンゴルの継承者

 ロシアは「モンゴル帝国の継承国家」だと、前出の岡田『世界史の誕生』は断言している。

 チンギス・ハーンの後継者オゴデイ・ハーンは、カザフスタンを支配していたチンギス・ハーンの長男=ジョチの次男であるバトゥを総司令官にして、1234年にウラル以西の征服を開始した。モンゴル軍は、ヴォルガ中流のブルガル人の国、キプチャク人の諸部族、ルーシの諸都市、北コーカサスの諸部族を次々と征服し、さらにポーランド、ハンガリーを破ってオーストリアとクロアチアにまで達した。1241年オゴデイ・ハーンの死去が伝えられると、バトゥはそこで西進を中止、ヴォルガ河畔に留まって北コーカサスとルーシを支配した。その豪勢な天幕の宮廷が「黄金のオルド」と呼ばれたのである。その下にも幾人かのハーンがおり、またヴォルガ以東カザフスタンにかけてはバトゥの兄弟たちが遊牧した。今のタタール自治共和国のタタール人、カザフスタン共和国のカザフ人、ウズベキスタン共和国のウズベク人はいずれもこのジョチ家のハーンたちと一緒に移り住んだモンゴル人の子孫である。

 ルーシの諸都市は結束を持たず、バラバラにハーンたちに服属したが、その中でモスクワが13世紀末から大きくなり、14世紀初め、モスクワ公イヴァン1世の時に黄金のオルドの庇護下に「大公」に任ぜられ、他のルーシに対する徴税を一手に代行した。つまり、モスクワという街自体がモンゴルの支配の産物だということである。

 1449年にジョチ家の皇子ハーッジー・ギライは、ポーランド・リトアニアの力を借りてクリミアのハーンとなる。その息子のメングリ・ギライ・ハーンは1502年、黄金のオルドのハーン位を奪い、その結果、黄金のオルドはヴォルガ流域を離れてクリミアと合体した。ロシアの歴史家はこの事件を「黄金のオルドの滅亡」と呼んで、モスクワの伸張とともにモンゴルの勢力が弱まったかのような印象を作ろうとしているが、事実は逆で、この合体によってむしろ黄金のオルドの力はかつてなく強大になったのである。確かにイヴァン4世がモスクワ大公の時、1552年、ヴォルガ中流のカザン(今のタタール自治共和国の首都)のハーンに内紛が起き、その1派から援軍を求められたのに乗じてモスクワがカザンを奪った。ロシアの歴史家はこれを「イヴァン雷帝がタタールの軛からロシアを解放した」と記述するが、これは一種の詐取にすぎなかった。

 また続いて1556年に雷帝はヴォルガ下流のアストラハン・ハーン国を滅ぼしたことになっているが、これも事実は、同ハーン家が自分の都合でブハラ(今のウズベキスタン共和国)に移動しただけのことである。

■ツァーリの称号

 ともかくもイヴァン雷帝は、「全ルーシの大公」の称号に加え「カザンおよびアストラハンのハーン(ツァーリ)」を名乗る。ところが強大なクリミアの黄金のオルドは1571年にモスクワを攻め、改めて雷帝にモンゴルヘの服属を誓わせる。これ以後モスクワは17世紀末までクリミアに貢税を続けなければならなかった。

 雷帝は、黄金のオルドの容認の下でルーシの統合を進める方便として、1571年、ジョチ家の皇子サイン・ブラト(ロシア名=シメオン・ベクブラトヴィチ)をクレムリンに迎えて玉座に着け、全ルーシのツァーリ=ハーンとして戴いた上で、翌年改めて自分に譲位して貰うという手続きを踏んだ。これは、モンゴルのルールでは、チンギス・ハーンの血統の男子でなければハーンにはなれないので、モンゴルの皇子から禅譲される形を採ってモンゴルの力と権威を借りることによって「ツァーリ」の称号にハクを付けなければならなかったからである。

 イヴァン4世の死後、ノルマン系リューリュク家の血統は絶え、モンゴル人の貴族ボリス・ゴドゥノフがツァーリとなる。彼が1605年に死んで、1613年にようやくミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれ、ロマノフ朝が始まった。しかしその宮廷には依然としてモンゴル系の貴族がたくさん居て、その意味ではロシア帝国はロシア人とモンゴル人の合作物として歩み始めたのだった。クリミアの黄金のオルドから完全に独立を果たしたのは、ミハイル・ロマノフの孫のピョートル1世の時で、彼は1721年、ハーンと同義のツァーリという称号を捨てて、初めてインペラトゥール(皇帝)を名乗った。それでもクリミア・ハーンは存続し、それがエカチェリーナ2世によって最終的に併合されたのは1783年、フランス大革命よりも後のことである。中央アジアのジョチ家の子孫たちの諸国を併合するには、もっと多くの時間が必要で、ようやく19世紀後半になって征服が完了した。

 このように説明した後、岡田は書いている。「そういうわけで、ロシアはモンゴル帝国の継承国家でしかなく、18世紀のピョートル1世の時代までモンゴル文明の一環であり、地中海世界とも、西ヨーロッパ世界とも、ほぼ完全に隔絶していたのである」

■歪んだ世界史像

 イヴァン雷帝の後になってもまだモンゴル人をツァーリに選んでいたなどということは、ロシア人にとって触れられたくない過去である。当然彼らは、モンゴル帝国にいかに多くを負ってきたかを出来るだけ隠して、ロシアが大昔からヨーロッパ文明の一部であったかのように歴史を描こうとする。ところがそのヨーロッパもまた、フン人やモンゴル人の長駆来襲の衝撃によって歴史の再編成のきっかけを掴み、あるいは遥かな先進文明の創造者だったイスラム圏に余りに多くを学びながら自分らの文明を形成してきたことについて、つまりヨーロッパ史の中のアジア的要素について、可能な限り低く評価することで自らを飾りたてようとする。

 歴史を自分の都合のいいように書くのは、誰もが持つ性癖というよりもむしろ権利であり、そのこと自体を非難しても仕方がない。問題は、そのように「進んだヨーロッパ、遅れたアジア」という基本的な視点から描かれたヨーロッパ製の世界史像を、明治以降の日本がほとんど何の疑念も抱くことなく翻案・受容して、日本史ともアジア史とも接合しない「世界史」なるものを奉ってきたことである。

 それは、だからこそ遅れたアジアから脱して欧米に追いつき追い越さなければならないという方向に自らを駆り立てて行くための方便だったと言えないこともないが、それにしても、それがまた、世界とアジアと日本のダイナミックな歴史的連関を見失ったまま猪突猛進する国際社会のドン・キホーテになり果てて行く上での重大な落とし穴になったのではないか。

■東洋史と西洋史


 そこで思い出すのは、飯塚浩二博士の名著『東洋史と西洋史とのあいだ』(岩波書店)である。ここで彼が提起したのは、「後世における〔ヨーロッパの〕優勢の故に、地中海地域、或いはもっと広く、オリエント=地中海世界の歴史が、世界史の取扱いにおいて、ヨーロッパ史へ“横流し”されているのではないか」ということである。「東洋史からは疎外され、かといって西洋史ではどうやら継子扱いにされているビザンチン帝国、西洋史においてはあからさまに闖入者扱いにされ、東洋史でもまともに扱われていないイスラムの勢力圏、これを世界史においてどのように位置づけるか」

 いわゆる西洋史では、ギリシャ・ローマの地中海文明の繁栄の後に、“蛮族”の侵入に始まる暗黒の中世があり、やがてルネッサンスを通じて地中海の遺産が蘇ってヨーロッパの近代の夜明けが訪れたことになっている。しかし蛮族とは何よりもまずローマ帝国を崩壊に導いたゲルマン人、つまり近代ヨーロッパ人の血のつながった先祖であるということが、ヨーロッパ人にとって1つの自己矛盾である。実際には、古典古代においても中世においても、今のドイツ、フランス、イギリスなどのヨーロッパ中心部は(地中海から見れば)一貫して蛮族たちの暗黒の地だったのであり、その間にもギリシャ・ローマの地中海文明を継承しつつ発展させたのは、サザン朝ペルシャからサラセン帝国へと向かったオリエントのイスラム世界にほかならなかった。そして近代ヨーロッパ人が古典を学んだのは、主としてイスラム世界を通じてであり、その意味で彼らは地中海世界の正統の継承者ではなかった。だから、飯塚は言う。

「地中海地域はヨーロッパの付属物ではない」「オクシデントの白人優越論者の大きな引け目は、遅くみれば17世紀、大いにひいき目にみても13世紀ごろまで、ヨーロッパの優越をヨーロッパ自身の実績で示しかねるということである。近代ヨーロッパの代弁者たちは、このギャップを、古代ギリシャ文化の継承者はオクシデントのヨーロッパだと信じることによって帳消しにしている」

 近代になってからのヨーロッパ列強の海外発展と、19世紀後半を頂点とする「世界のヨーロッパ化」は疑いようのない事実だが、だからといって、その地点から遡って自分本意で独善的に描かれたヨーロッパ中心の世界史が本当に起こったことを記録していると考えるのは幻覚である。

■アラブ商人とモンゴル帝国

 ヨーロッパがいわゆる暗黒の中世に沈んでいた間にも、オリエント=地中海世界はその外で(というよりヨーロッパが“外”だったのだが)イスラム系の商業民族を担い手として一大通商文化圏を発展させた。7世紀に成立したサラセン帝国は、西はイベリア半島から北アフリカ、地中海、中東、ペルシャ、北インド、そしてトルキスタンまで、ほとんど世界的と言っていい広がりを持った。その頃、キリスト教世界は地中海の北岸のエ一ゲ海からトルコ半島にかけての東ローマ帝国の領域に細々と生き続け、ようやくスラブ人という新しい参入者を得て多少北東に向かって勢力を伸ばすことが出来た程度だった。この時代についてヨーロッパ人が、サラセンの海賊が出没して困った、というような書き方をするのはお笑い草と言える。

 そのイスラムの隊商商業とモンゴル遊牧帝国の出会いと結合は、運命的なものだった。モンゴル人やアラブ人にとってはアジアとヨーロッパの間に広がる乾燥した草原地帯は自由な連絡を可能にする“海”であり、モンゴルの騎馬戦闘部隊が機動艦隊であるとすれば、アラブのキャラヴァンは商船隊であった。

 チンギス・ハーンが西進しながら、その広大な帝国を維持するために作った基本的なシステムの1つは駅逓制度である。それを実地に体験したマルコ・ポーロが、ハーンの領土全体で少なくとも20万頭の馬が駅逓制度のために使役され、しかるべき装備を整えた宿場が1万カ所も設置されていると、その効率的な運用ぶりに驚嘆しながら報告したことはよく知られている。

 そのトランス・ユーラシア交通路は、しかも彼らの強力な武力によって完全に治安が維持されており、さらにそのすべては1つの帝国の版図の中にあるがゆえに、国境ごとの関税などの手続きやそれをスムーズにするための賄賂なども一切必要ない。またモンゴルの支配者は、前にも触れたように、他の宗教に対しては極めて寛容で、積極的に保護しただけでなく、各地の文化を取り入れることにもどん欲だった。

 ロシア人やヨーロッパ人がモンゴルをただの殺識者・破壊者に描こうとするのは、これもまた白人優越主義的な偏見と、それに簡単にやられてしまった自分らの祖先のふがいなさに対する悔しさのためであり、実際にモンゴル軍は確かに厳しい戦闘で多くを殺したけれども、飯塚によれば、相手が牧畜民族である場合と農耕民族である場合の対応を区別し、都市を占領したときは工芸職人だけは尊重して本拠地へ連れ帰ったり、男女を問わず年少者は奴隷として生命を全うするよう考慮したり、要するに「対象の生産手段としての利用価値如何」について「モンゴルの指揮者たちが戦陣にあってもつねに冷徹な判断力を失わず、目標を見誤ることがなかったのは注目すべき」である。

 そのようなモンゴルの帝国建設を征服地において真っ先に歓迎したのがイスラム商人たちであったのも当然だった。ヨーロッパ辺境が中世の暗黒に眠っていた1000年近い期間にも、オリエント=地中海世界から中央アジアを経てモンゴル高原・中国に至るユーラシア大陸の全体で、多種多様な文化的創造とその自由な交流が進んだのだが、それはまさにイスラム商業資本とモンゴルの独特の支配力の提携によってもたらされたものである。ところが、ヨーロッパ中心の西洋史でも、漢民族の王朝変遷史を軸とした東洋史でも、この本当の世界史の中心舞台の出来事は正当な位置を占めることがない。

■次々に湧く疑問


 ヨーロッパのイスラムに対する不当な扱いは、ロシアのモンゴルに対するそれと同じ質のものである。飯塚は指摘している。

「モンゴルを“蛮族”あつかいにすることは……ひろく学界をも支配してきた先入観念のいたすところであって……ロシア古代史の解説を試みられた某氏の論文中にも『モンゴルはただ掠奪し、蹂躙するのみであった。モンゴルの政権が長く続き得たのはテロルの力であり…』というような断定が、なんら疑いの余地がないかのごとくに下されている」

 しかし実際には「征服者としてのモンゴル政権がロシアの諸侯を徴税請負人的な役割につけて、まことに器用な間接統治政策の先例をひらいている一方、ロシアの諸侯はタタールの勢力と抗争するよりはまずお互い同士の勢力争いに没頭し、この方向にそって外来支配者の恩寵を競った。……タタールヘの叛乱を指導するどころか、統一をみだし、タタールのためにロシアの民衆を売る反動的な役割をさえ果たしたのである」

 キエフの古寺院の庭で、ウクライナとロシアの関係に疑問を抱いたのをきっかけに、その両者を含めた広義のロシアとモンゴルとの関係、さらにはヨーロッパとイスラム世界をはじめアジアとの関係まで、想念は広がるばかりである。しかしそれは単に趣味的なことではなく、たとえば、少しミクロで言えば、スラブ世界とイスラム世界の2つの接点である旧ソ連とユーゴスラビアで起きている血腫い崩壊現象をどう捉えたらいいかという問題に直結していそうだし、もっとマクロで言えば、冷戦という擬制的な“東西”関係の枠組みが壊れた後に、世界史における本当の東と西の関わりに新しい光を当てることなしに次の世紀の展望を持つことは難しいという問題にも連動しているように思える。

 さて、モンゴルはじめ遊牧騎馬民族との関係でもう1つの疑問の種は中国史である。◆