武谷三段階論・論文抄


《引用者注》
(1)文献1の初出は「自然科学」1946年7月号、『武谷三男著作集1』(勁草書房、1968年)P.32〜35所収。文献2の初出は「科学」1942年8月号、『武谷三男著作集1』P.88〜95所収。
(2)仮名遣い・段落・句読点は引用者が補正した。


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 〈文献1〉現代物理学と認識論(抄)
 〈文献2〉ニュートンカ学の形成について(抄)
   [参考キーワード]物理学発展の三段階
            湯川中間子論
            ティコ〜ケプレル
            ガリレイ
            ニュートン
            自然認識の三段階
            本質論への移行の三形態


〈文献1〉

  現代物理学と認識論(抄)               武谷三男


 ……原子核宇宙線などの現在の物理学がおちいっている困難を打開し、これをおし進めるための方法をうる事が問題である。この為にはそれまでの科学論はただ過去を解釈するだけであり、何らの力ももたないものであった。この方法を私は前に述べた実体論的方法において見出した。これは核物理学の研究に使用される事によって試され、またニュートン力学の発展の分析、その他の科学史においてもっとはっきりしたものにする事ができた。この方法に坂田昌一博士の協同は大きなものがある。

 すなわち物理学の発展は、第一に即自的な現象を記述する段階たる現象論的段階、第二に向自的な、何がいかなる構造にあるかという実体論的段階、第三にそれが相互作用の下でいかなる運動原理に従って運動しているかという即自かつ向自的な本質論的段階の三つの段階において行なわれる事を示した。そしてこの三つの段階は宿命的に相次いで現われるものではなく、自然がこのような立体的な構造をもっており、それを人間の認識がつぎつぎと皮をはいで行くのでこのような発展が得られる。すなわち歴史的発展と論理的構造の一致である。自然自身は根本的にこのような構成をもっているが、これは本質的な論理構造を示すものであって、具体的な自然はその局面においてさまざまな配置においてこの結合をもっており、また科学の発展は一方社会の発展に、すなわち生産技術の要求並に結果の側から、またイデオロギーの側から規定されるのであって、これらは一応自然自身の構造にとって偶然的なものである。

 それ故に現実の物理学の発展ははなはだ錯綜した現象形態をとる事になるが、しかし前述の三つの段階は物理学の発展を分析するための基本的な指標である。ある場合にはこの二つの段階は錯綜しまたある揚合には三つの段階が錯綜する事がある。この錯綜の具体的形態を分析し出す事が問題なのである。そしてこれは弁証法の論理によってのみ行ないうる事である。ちょうど各国の封建制や資本制の発展を分析するのと同じである。純粋の封建制社会と言われるものから純粋の資本制社会と言われるものが何の錯綜もなしに続いて現われる事などはないと言ってよい。とくに日本などでは農村の封建体制を破壊する事なく、むしろそれを基礎として工業の資本主義が発展する事ができたのであって、すなわち半封建制と言われるものである。このような分析こそが弁証法的分析というものであって、実践の指針となりうるものである。

 物理学においても、当面の物理学の諸矛盾を上述の方法によって分析し、現在を正しく位置づけ、その発展の方向を知り、いかなる方向に努力がなされるべきであるかを知る事ができる。これは無意味なる混乱を顕著に防止し、すべての努力を有効なるものにする事ができるのである。すなわちボーアやベックのベーター崩壊のために取った無駄な努力、その他1930年以後の素粒子の発見のたぴごとにこのような無駄が行なわれた。その著しい例は、湯川粒子の主張が1935年に発表されていながら、世界の学会は2年間もこれを相手にせず、1937年に日本を訪れたボーアも当時この理論をきいて頭から否定した事である。某教授のような固定した形式的思惟の持主はこのような分析方法は全然理解できず、この三つの段階をいつも同じように相ついであらわれるまじないのように曲解し、自然認識の発展にこのような段階が次ぎ次ぎと現われるものではないと言って反対する。自分の水準で理解した事に反対するのは勝手である。また科学者たちの間にはこれまでの科学論の無能に対する反感から「そういう事を言っても何にも役に立たない」という言葉が口ぐせになり、何に対してでも形式的にこの言葉を言いさえすればよいという風潮がある。物理学は方法の問題の反省なしには原理的な重要な点の打開は常に不可能であった事はすでに科学史の示す所である。原理的にどうでもよいような問題をやっている人間は何らこのような問題になやむ必要はない。至極平穏無事で、何も「言わなく」ても事はすむのである。物理学の第一義的な問題ととっ組んでいる人は常にこのような点で頭をなやましているのである。物理学は現在、中間子問題を中心とし、中間子場の型や相互作用の形、その他の実体論的諸問題を整理しつつ、他方また量子力学の枠内であるが摂動方法の検討を行ない、量子力学そのものを改善するという本質論的段階にむかって進みつつある。しかしもちろんまだ現象の知識が十分であるというわけではない。

 現在問題になりつつあるのは素粒子の構造についてである。そしてこれは実体と機能の最高の統一を意味するものである。この秘密はこれまでの物理学が否ギリシャ以来の自然哲学がふれようとしてますますその途が遠い事を思わせられたものである。現在の物理学者はその玄関先まで来ていると言える。この牙城の攻撃は困難を極めている。そして事態は混沌としており、また発展の契機となる根本的矛盾にまで迫っていないようである。すなわち量子力学の場合の波動と粒子というような根木的な対立のところにまで追つめていない。私は現在のこの矛盾を分析し、追つめて、これを物質と場という対立に求めた。この観点は昭和18年春発表したものである。これについていずれ他の機会に詳細に記し一般の御批評をあおぎたい。

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〈文献2〉

ニュートンカ学の形成について(抄)                          武谷三男

             
 ……諸遊星の運行に関してエヂプト、バビロニアにおいてすでに相当に詳細な観測が行われた。そしてこの結果から何らか法則を得、将来の遊星の運行を予知するということが行われて、すでに天体運動の周期性が発見されていた。ギリシヤ時代に至ってこれが数学者たちに取上げられ、地球を中心とした離心円や周転円、さらに進んで太陽を中心とした地動説のモデルすら考えられた。これによって諸遊星の運行を予知しようとした。しかしこの場合のモデルは単に数学的なモデル、または数が本質であるとするピタゴラス的な性質を具えていたものが多く、実体的な意味をあまり持っているものではなかった。ルネサンスに至って暦の問題その他に関して、天文の観測が次第に詳細に行われるようになった。この最も詳細をきわめたのがティコ・ブラーエ(1546-1601)の観測である。

 この観測結果はその弟子ケプレル(1571-1630)によってコッペルニックス(1473-1543)の地動説を採用することによって整理された。コッペルニックスはルネサンス精神をもって、中世を風靡していたプトレマイオスのアルマゲストの日常的直観的な天動説に反対して地動説をとなえ、実体的な太陽系を導入した。ケプレルは詳細な観測結果をこのモデルによって整理して「ケプレルの3法則」を得ることができた。すなわち実体的な要素の導入によってティコの現象論的な記述が法則性を得たわけである。しかしケプレルにおいて物理学の方法が確立されたのではない。すなわちケプレルにおいては自然を力学的に解明するというよりも、まだピタゴラス的な見方の残渣が多分にあって、それから実体的なモデルということにおいてぬけ出している。そしてその方法は帰納的であって、太陽系の諸遊星は一定の条件の下で一定の運動をなしたというだけの、すなわちpost hoc(それに続いて)としての意味しか持たない。それはかかる運動を起せしめる原因すなわち相互作用からその現象が媒介されていないからである。法則が実体の属性として導入されただけであって、それが実体の相互作用の下における運動として現象にまで媒介されはしないのである。実体はDaseinとしての性格を有し、それ故に空間的直観的である。かくしてガリレイ(1564-1642)によって木星の衛星が望遠鏡の中に認められたことはコッペルニックス説の比類なき支柱となったのである。

 ティコまでの現象論的段階に対して、ケプレルは実体論的段階と特徴づけることができる。この時代に、一方において生産技術が著しく発展していたイタリーにおいて、ガリレイが技術から力学を汲みだし、中世的思惟への反撃の武器としてそれを鍛えていた。静力学として力の間の関係がギリシヤ時代から明かになって来ていたけれども、動力学はガリレイにおいて創められたのである。ガリレイにおいてはじめて運動の法則が知られ、また一方では力の概念が得られた。それまでは力は単に圧としてのみ知られていた。ガリレイにおいては、力から運動を媒介することは、しかしいまだ十分になされなかった。すなわち落下運動の原因の顧慮より先に、実験的に運動の法則を知ることが第一義的であり、その原因たる力よりの媒介は、それからあとのむしろ第二義的な問題となっていた。すなわちこれを異なる斜面、斜面と鉛直における加速度の間の媒介において、それらに働く重力の比較から論じているけれども、未だ不十分であり、むしろこれは同一の高さよりの落下による速さは面に無関係であるというエネルギー的な実験法則によって本質的には媒介しているというべきであろう。すなわちガリレイにおいては未だ地上における物体の運動は一つの実体の属性として与えられていて、十分に本質的なものから媒介されていない。その限りにおいてはガリレイも実体論的段階としての性格を有するというべきであろう。しかし彼においても物質の属性としての運動法則からの脱却はさまざまな条件に物体を置くこと、各条件の現象の間の媒介、すなわち実験と諸実験の間の論理的関連の追求によって得られる。ガリレイが実体論的段階から明かに前進しているのは、力が他のものでなしにまさに加速度に関しているものであることを述べることによって、以前の見解をぶちこわしたことにある。具体的な媒介の姿は解明しなかったけれども、媒介の方向を与えたことである。

 ガリレイの力学の制約の一つは、それが本質的に単体問題にのみ関していたことにある。ガリレイの力学を押しすすめ、力と運動の媒介にハイゲンスは重大な前進をなさしめた。デカルトもまた寄与するところがあった。

 このガリレイとケプレルの各特殊的制約をもてる二つのもの、地上の法則と天上の法則と、これらの実体的認識が媒介され普遍的な本質的な認識へともたらされる。すなわちニュートン(1642-1727)は、実体の相互作用における本質的な力の概念を具体化し、物質の実体的な量としての質量と、実体の相互作用たる力の関係を実体の運動において、また運動に媒介して加速度として掴み、また一方において諸物質の相互作用の最も一般的な万有引力を質量に関する法則として樹立した。かくしていかなる物質がいかなる関係に置かれてあっても、その現象たる運動にまで媒介することができるようになった。すなわち現象が完全に諸実体の相互作用から運動において媒介されることとなったのである。ここにおいて物理学は特殊的の制約を脱して、普遍的な認識にもたらされることとなった。すなわち演繹的なpropter hoc(それの故に)としての意味をもつこととなったのである。ここにおいて摂動の理論が可能となり、月の細かい運動、潮汐、諸遊星運動のケプレル則からのはずれ等を出して来ることができるようになった。この理論的段階を特徴づけるものは、天王星の運動から海王星の位置を正確に予知して海王星を発見することができたことである。ケプレルの段階の考え方においては、天王星の運動がケプレルの法則より複雑な法則に従うものであるという以外には何の意味も持ち得ないのである。しかしニュートン力学は海王星の発見以上のすばらしいことをつぎつぎと果たしていった。すなわち近代における技術の発達である。かくしてわれわれの実践によってためされ、実践を保証することとなった。

 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行われる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、へ一ゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当るものであって、すなわちDaseinの肯定的判断として、個別的な事実の記述の段階であり、an sichである。これを現象論的段階と名づける。ティコの段階。第二に、現象が起こるべき実体的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれはpost hocという言葉で特徴づけられるもので、これは概念論の言葉でいえば、特殊的判断と言えるものである。特殊的な構造は特殊的な事情において特殊的な現象をもつことを述べるものである。fur sichの段階でその法則は実体との対応の形において実体の属性としての意味をもつのである。これを実体論的段階と名づける。ケプレルの段階であり、論理はスピノザ的である。

 第三の段階においては、認識はこの実体的段階を媒介として本質に深まる。これはさきにニュートンの例において示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。すなわちこの段階においてはpropter hocという言葉で特徴づけられる。an und fur sichの段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である。すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明かにするものである。これを本質論的段階と名づける。

 実体論的段階から本質論的段階へ進むのは、このように実体的契機によって実体を含みながら、実体的なる法則の見方を否定して高まるのであって、本質論的段階において、その認識に固有なる論理的性格があらわれるのである。たとえばニュートンカ学における微分方程式の如きである。これをこのように立体的に見ない時にカッシラーの様に実体的なものの単なる否定、そしてその反対物たる機能へと解消するという考えになるのである。実際は実体の論理がより本質的な論理へと高められるのである。

 このように物理学的認識は「ますますどうなる」というように一律に進むのではなく、この三つの段階の環をくりかえして進むのである。すなわち一つの環の本質論は次の環から見れば一つの現象論として次の環が進むという工合である。遠隔作用としてのニュートンの万有引力はそれ自身一つの現象論的なものであった。天体の引力に関してはその原因をデカルトやハイゲンス等がたとえばエ一テルの渦動から説明しようとし、実りある結果に到達しなかった。これに反しニュートンは先ず現象論的にいかなる力が働くかをしらべることによって成果をおさめた。しかしこの記述の段階はそれを固定する時は形而上学に陥るのである。科学はあくまでその原因へと進む、すなわちより本質的な認識へと進むのである。これは場の理論によって行われた。ところが現象的な知識が十分でなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである。一足とぴに本質的認識には行かないのである。ところが逆にこれを見誤る時は、単に現象の記述を科学と考えるのである。

 この三つの段階は論理的にこのように示したのであって、現実においては、この論理がその現実に応じてさまざまなる形態をとってあらわれるのであって、各対象及ぴ認識実践の他の側からの制約によってさまざまなる形をとるから、われわれはただ機械的にこの三段階を考えることはできない。実体論から本質論への移行において三つの形態が存在する。第一は実体の導入が直ちに本質論に導く場合であって、それははその実体が新たなる性質のものでない揚合、すなわち海王星の導入、立体化学、物質構造論などである。

 第二に、実体が全く機能的なものに解消される場合、それは逆に言えば機能を実体として捉えていた場合であって、これはフロギストンやエーテルなどがよい例である。

 第三に、全く新たなる実体であって、新たなる論理を要求しているものである。ニュートン力学の運動方程式や、原子における量子力学等である。後に述べるように原子核物理学の新たなる諸素粒子もまたそうであろう。

 かくして自然認識の論理的な順序が明かになった。これは他の要因と複雑にからみ合ってあらわれるものである。特に興味ある場合として慎重な分析を要するのは一時代の科学が誤って認識したものである。たとえばフロギストンはマヌファクチュア期の原子論的思惟の下にあらわれ、ラボアジエの慎重な化合の研究の下に機能へと解消したのであるが、これを単にマヌファクチュア的思惟の罪のみのせいに断定してしまうごときである。さきに述べたように、人間の認識の論理的な発展は、先ず対象を実体として掴むものであるからである。その証拠にこのフロギストンが否定された同じ時代に、エーテルという誤れる実体が導入されたことを考えねばならない。そしてこのエーテルが解消されたまさにその時に当って、原子、分子の存在が確証されたのである。

 原子核物理学は先に述ぺた様に諸実体の導入によって実体論的段階にあったけれど、中間子理論の進展により、現在の困難は、実体論から本質論への移行に当って先づ実体論的な整理を行いつつ本質論への路をさがしているということができる。すなわち中間子場や重粒子の実体的な性質、その従う方程式の問題、量子力学の輻射理論の近似の方法の良否、最後に量子力学そのものの正否についての問題がからみあっているのであって、慎重な分析を必要とするわけである。かくてニュートンカ学の形成過程は、今日の問題に対して論理を与えるということができる。

 以上,典拠や史料をあげずに述べたが、いずれ詳細な展開は別の機会に試みるつもりで、先ずその試論をここに簡単に記し、一般の御批評をあおぐこととした次第である。

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