小さな世界へ——団塊世代の人生二毛作

——『増刊現代農業』への寄稿


 昭和19年生まれの私も、気が付けば来年は還暦で、昔なら引退の年頃である。これを記念して来年に何としても実現しようと思っているのは、この6〜7年のあいだ月に一度、二度と通い詰めて農林作業のまねごとをさせて貰ってきた千葉県鴨川市の農事組合法人・鴨川自然王国の近所に、ささやかな土地を求めて小屋を建て、そこに暮らしの本拠を移すことである。「帰農」と言えるほど本格的な田園暮らしには、少なくとも当分のあいだは、なりそうにもないが、もともと、昨年亡くなった自然王国の“国王”=故藤本敏夫が常々言っていたのは、家庭菜園や市民農園、有機野菜の共同購入や家族連れでの農業体験、棚田オーナー会員や農林業ボランティア、別荘での週末農業、田園移住による自給生活探求、農村・農業関係の企業・団体への就職、プロの農業者への転職等々、その人の志向や条件に応じてどんな形でもいいから「人すべからく農と関わって農的生活を送るべし」ということだったから、その意味では私の農的生活も、月に一度か二度の“通い”の形から、基本的に田園をベースにして必要な限りで東京に出て行くという“半農半X”生活へと、少し進化を遂げることになるのだろう。私なりの「人生二毛作」目の始まりである。

●800万人の塊

「帰農」という言葉をそのようにゆるやかに定義し、さらに農だけでなく林や漁への志向も包摂するものとして捉えると、私の同年代にはそういうことに関心を持ち、あるいはすでに実行していたり具体的な計画を進めつつある人が、驚くほどたくさんいる。しかも、これから数年もすると昭和22〜23年生まれを中心とする「団塊の世代」が一挙に還暦を迎え、それを見越して、例えば連合労組が中心になって昨年創設したNPO「ふるさと回帰支援センター」など、おおがかりなインフラづくりの動きも始まっているので、藤本がそういうことを言い出してから30年近くを経て、ようやく今これが誰の目にも映る大きな社会的潮流となって、バブル崩壊のトラウマからなかなか立ち直れないでいる日本の閉塞状況を打破するブレークスルーの1つになるのではないかと、期待が膨らむのである。団塊の世代を昭和22年遅生まれから3年間とすると、その数は約800万人、労働力人口の12%にも当たり、受け手の側の農村の農業従事者860万人に匹敵するほどの巨大な塊であるから、仮にその1割が帰農に関心を持ったとしても80万人。世の中を震わせないはずはない。

 団塊の世代はしばしば「全共闘世代」と同義のように扱われるが、厳密に言えばもちろん違う。当時でもまだ大学進学率は20%そこそこだったから、大学に入って全共闘運動などやっていられるのは贅沢の部類だった。と言っても学生がみな裕福な家庭の子弟だったわけではなく、出が貧しいから余計に、何としても中央官庁や大企業に就職してエリートになろう、あるいは弁護士や医師などの資格を得て「先生」と呼ばれる身分になろうと、目をギラギラさせている奴がいたし、親の支援を得られずに学費も生活費も自分で稼ぎながら学問やサークル活動にいそしんでいる奴もいて、そういう中には全共闘に全く関わらなかったり敵対したりした学生もいた。その一方、同世代の7割以上は中学や高校を卒業してすでに社会に出て多くはブルーカラーとして働いていて、全共闘運動に関心を持ち実際に市民としてそのような活動に携わった者もあっただろうが、直接それに参加したわけではなく、むしろ彼らの方が全共闘世代と呼ばれることを迷惑に思っているに違いない。

 しかし時代は、世界的には科学技術文明の巨大さの象徴であるアメリカが、竹槍しか持たなかったベトナムの農民を殺し尽くし焼き尽くしてもどうにもすることが出来ずに泥沼にはまって行き、国内的には高度経済成長下の大量生産・大量消費社会が花盛りを迎えようとしていながら、それを支える価値観やシステムの破綻を隠しおおせなくなりつつあった頃であり、感受性豊かな若者であれば誰でも、何らかの程度、アメリカのニューレフト運動のカリスマ的指導者だったトッド・ギトリンの言葉を借りれば「裏切られた愛の怒り」——この国の隆盛のシステムに憧れて近づけば近づくほどそれに裏切られるという理不尽への反乱の衝動——があちこちからトゲトゲと突き出していた時代の空気を吸いながら青春を過ごしたのは事実である。そのような団塊の世代の突端にいて、ある意味で最も鋭敏かつ誠実に悩み、行動したのが全共闘だったと言ってよい。

●自分探しの旅

 他方、全共闘というのも定義は簡単でなく、60年代後半から70年代初頭にかけての学生運動の高揚を「全共闘の時代」と呼ぶのは、本当は大雑把すぎる。(1)1960年安保闘争から生まれ、主に4つの党派に分かれた新左翼各派が旧左翼とも競いつつ各大学各学部の自治会執行部を争奪し、65年日韓条約反対からベトナム戦争反対、70年日米安保条約延長反対へと向かう政治闘争にようやく一般学生をも動員するだけの力を持ち始めた段階、(2)66年早稲田大学の学費値上げ反対闘争を端緒として、68年日本大学、69年東京大学など学園闘争で、各学部自治会(とそれを握る各党派)の壁を越えた「全学共闘会議」という組織が生まれ、それが多数の一般学生を巻き込んで未曾有の爆発に導いた段階、(3)やがて新左翼もまた旧左翼と同じと見なされて、無党派のいわゆるノンセクトラジカルが思い思いに組織を作って「ゼンキョートー」(全学共闘会議の略称ではない独自ブランドとしての全共闘)を名乗った段階、(4)70年を過ぎて指導力を失った各党派が自暴自棄的な「武装蜂起」や「内ゲバ」に転がり込んで行く段階——があって、藤本や私などは(1)から(2)にかけての年代に属する。

 しかし、まあ、そんなことはどうでもいいのであって、この時期全体を通じて学生たちは、世界的には「ポツダム体制」、国内的には「戦後体制」とか「大学管理体制」とかの現存の近代的な体制の耐え難さに対する怒りを外に向かってぶつけるだけでは済まないことを思い知り、そのような体制を口では批判しながら実はその中で上昇軌道に乗って安住したがっている「自分」を内に向かって見つめ直し、自分が変わらなければ世の中も変わらないという心情に駆り立てられながら、それぞれに居場所を求めて「自分探しの旅」に出る。

 その行き先は様々で、行方不明者も数知れないが、反近代の自分探しの行き着く先の有力な1つが「農」であったのはしごく当然で、藤本は出獄後、75年に「大地を守る会」を作り、やがてそれに飽きたらずに自ら「エセ百姓」になると称して鴨川に居を定めた。日大全共闘の生き残りの数家族は北海道の標津に「興農塾」を開いて有畜農業を営み、日大全共闘書記長だった田村正敏は単独でやはり北海道で牧場を営んだ(私は後に、その始末に奔走する彼に私としては巨額の資金を提供し、やがて彼が急死してその金は返ってこなかったが、彼の営みもまた私自身の青春の一部だと思っているから、それで満足している)。
あるいは、三里塚裁判のまだ被告である最中に山形県長井市の実家を継いで養鶏農家となった菅野芳秀は、市や商工会議所や婦人会まで巻き込んだ10年がかりの運動を組織して、町の住民5000世帯が全員参加する生ゴミ資源のリサイクルシステム「レインボープラン」を実現し、全国に名を轟かせた。早稲田で私の仲間だった新島淳良教授は、70年代早々に教授を辞めて、早大全共闘のメンバーを連れて「山岸会」に家族ぐるみ参加し、そして挫折した……等々。

●脱発展途上国

 あの当時、反近代、反体制、反管理など、専ら「反」を付けて語られていたテーマは、それぞれに多様な意味合いと発展方向を含んではいたが、それらはみな、今にして私流に言わせて貰えば、反あるいは脱・発展途上国型の価値観とシステムということだったと思う。明治以来100年間、ひたすら欧米に追いつき追い越せと、経済の量的拡大を通じて貧しさから脱却して欧米並みの近代産業社会を実現することを求めて走り続けてきて、そのためにこの国は、旧大蔵省によるマネーの統制管理を中枢とする中央集権=官僚主導の総動員体制を採った。発展途上国とは、経済の量的拡大を最優先の全国民的課題としなければ、国家財政も企業経営も個人家計も成り立たない段階のことであり、日本の場合は、明治から大正、昭和の初めにかけての農業社会から産業社会への強行的な移行(1929年昭和農村恐慌を通じて歴史上始めて農村人口が5割を割って一応、産業社会へ)、その産業力の戦争への費消と破滅(1945年)、産業社会の再建と高度成長を通じて世界有数の成熟経済国への発展(1975年に第3次産業就業者が5割を突破し情報・サービス社会へ移行)という経緯を辿った。

 学生運動華やかなりし60年代末と言えば、ずいぶん貧しかったような気もするが、それでも国内総生産は90年基準の実質値で190兆円、やがて200兆円、今の5分の3程度の「豊かな(アフルーエント=溢れかえるように豊かな)社会」の入り口に立って、だからこそまた鋭敏な知性にはそのことのまやかしや虚構もやたら目に付くようになって、若者たちは、親の世代の後を追ってそのまま、偽りにも見える豊かさを求めて生きるのか、それを拒んで別の生き方を探るのかの選択を迫られたのだろう。

 しかし政治的党派としての新旧の左翼は、自分らが直面しているのは「100年目の大転換」、すなわち発展途上国100年の体制=システムとそれを支えた価値観の転倒であるというふうに問題を設定し、それを成熟経済と市民社会に相応しいシステムと価値観に置き換えるトータルな構想を提示することが出来ずに、徒な機動隊との衝突かもしくは選挙を通じての勢力拡大を通じていつの日か自分らが“権力”を取れば何とかなるという程度の展望しか語ることが出来なかった。だから全共闘世代は、“大政治”を通じて世の中を丸ごと変えるというアイデアを捨てて、むしろ散らばって、農の復権や反公害・反原発の住民運動や環境保護の実践やミニコミの実験等々、どこか小さな場所を確保してそこで自分の納得の行くような脱発展途上国の試みを始めるという“小政治”にこだわることになったのである。

 実を言うと、それから30年以上も経って、今では「不況」だ何だと言っても500兆円のGDPを基本的に維持する、アメリカに次ぐ、全世界GDPの6分の1を常時占める、超成熟先進経済大国となったにもかかわらず、あの当時と問題状況は一向に変わっていない。“大政治”は依然として、100年目の大転換への構想力を欠いていて、国民の側からはこれをどうすることも出来はしない。それが時代の奥底からの要請であるから、小泉首相も「改革」を口にはするけれども、それは有り体に言って、角福戦争の焼き直し、すなわち憎き田中派=橋本派を解体するために、同派の金城湯池である郵政族と道路族を叩くという党内抗争次元を出るものでなく、ところが国民は、彼が郵政民営化と道路公団の改革を通じて日本の官僚主導=政官業癒着の発展途上国システムの全体を変革しようとしているのかもしれないと勝手に幻想を抱いて、いつまでも彼を支持する。他方、野党も、せっかくの民主・自由両党の合併で政権交代の可能性が生まれてきたことに淡い期待を抱かせつつも、そこで出てきた政権奪取のための「マニフェスト」はと言えば、「高速道路の無料化」といった愚にもつかない話であって、とうてい小泉改革の疑似性を暴き立てて本当の国家改造に人々を導くには程遠い。となると、間もなく還暦を迎えて人生のありようを一考するに当たって、団塊の世代は相変わらず“大政治”への期待や関与を留保して、自分で場所を確保して“小政治”を営まざるを得ない。

 例えば田舎暮らしを始めることがどうして“小政治”なのかと思う向きもあるかもしれないが、政治とは自分や周りの仲間を含めた自分たちの「生きる条件」を自分たちで創造しようとする継続的な意思と行動のことである。何年かに一度、投票所に足を運んで市会議員や国会議員に投票するという代議制民主主義の儀式は、無意味とは言わないが政治のすべてではなくほんの一部であり、それによる“大政治”が「生きる条件」を創り出すことに必ずしも繋がらないのであれば、自分たちで構想し、議論し、組織し、参画し、宣伝し、出資するなどして、“小政治”を展開する以外によりよく生きる術はない。

●江戸との連続性

 さて、われわれが未だに抱えている問題が、近代化のための発展途上国100年の発想の逆転であるとすると、関心の向く1つの方面は、江戸時代以前の日本人の伝統的な暮らしぶりである。昨今の「江戸時代ブーム」も、だから、脱発展途上国という課題のたぶんに無自覚な反映の1つだと言えるだろう。

 動物の一種であったヒトは、約1万年前に森から出て野との境に定住して土を耕すようになって、初めて人間になった。この森と野の接点が、日本で言えば「里山」であり、そこで自然と巧みに付き合いつつその力を共同利用して楽しく生きる知恵を培ってきたのがわれわれの祖先である。もちろん網野善彦が強調するように、日本人のすべてが業としての農に携わったわけではなく、海の民、山の民、工人、商人、漂白民など多様な人々が多様な暮らしを営んだのであるけれども、漁師や猟師や鍛冶屋や木工師、それに武士もが兼業農家だったりするのは珍しいことではなかったし、そうでなくとも農とは何の関わりなく生きた人はむしろ少なかったに違いない。

 明治国家は、そのような無限に多様で自在でありながらその根幹に“農”が座っていた暮らしぶりを「遅れている」ものとして否定し、すべてを天皇とその僕である中央官僚を中心に統合して人々を都市へ、工業へ、産業へと駆り立てることを通じてしか、日本の生き残りを図ることが出来なかったわけで、それ自体は非難すべき筋合いのものではなくて、そのおかげでこの国はここまで来たことをむしろ感謝すべきだと思うけれども、しかし日本列島の住人の5000年〜1万年という歴史を考えれば、この100年間はやむにやまれぬ方便として無理無茶なことをせざるを得なかった、極めて異質な期間だったと捉えなければならないだろう。そうすると、脱近代化、脱発展途上国という時に、その先にイメージするのは、欧米流の市民社会を参考にはするけれどもそれそのものではなくて、江戸時代の当時として世界超一流のプレ市民社会の新たな次元での復興であり、この100年を「なかったもの」と仮想して江戸時代からの連続性で今日を捉えるほうが、物事が分かりやすくなる。それはちょうど、最近のバブルとその崩壊の「失われた10年」をなかったものとして、70年代からの連続で90年代を計ると、GDPが5兆ドルもあり消費も3兆ドルもあるのに「伸びない、伸びない」と嘆き合って不安に陥っている全国民的トラウマ状態を脱することが出来るのと同様である。

●半農半Xが主流

 業としての農についての旧農基法農政の失敗を考える場合も、農業に工業の効率化の論理を持ち込んで、大規模産地に専業農家を育てて農民に都会のサラリーマンと同等の現金収入を与えようとした政策がどこでどう間違えたのかを問うのはほとんど意味のないことで、要するに、多くは兼業という形で誰もが農に基盤を置いて暮らしを立て、各戸の自給はもちろんのこと、余り物をおすそ分けしたり町の市場に持ち込んで塩を買うだけの現金を得たりすることを含めた地産地消など当たり前であった数千年の伝統を壊そうとしたから行き詰まったのだ。案に相違して今では兼業農家が80%になっていることを、農政の失敗で専業では食えないからやむを得ず自治体職員や土木作業員やパート労働で収入を補わざるを得ない農家が増えたと捉えれば、農業の将来は暗いけれども、そうではなくて、もともとたいていの日本人は何千年もそうやって「半農半X」で暮らしていたのであって、途上国官僚が浅知恵でバタバタしてもその伝統は岩盤のように揺らぐことはなかったと考えれば、それは将来への希望とさえも言える。

 そういうわけで、これから団塊の世代の人々の1割か2割か分からないが、かなり多くの人々が農に関心を振り向けて人生二毛作目に踏み出していくことだろう。元が農村出身であれば、この機会に実家に帰って、もう動けなくなりつつある親から知恵を授かって、真似事でも農業を始めるのがいい。実家がなくていきなり農業を始める自信のない人でも、例えば高学歴のビジネスマン経験者が「森林管理センター」の事務長になって、大人や子供を集めて森遊びのリーダーになっているケースや、あるいは広告マンだった若者が見知らぬ土地で農業を始めて、それだけではなかなか食えないけれども、元の職業を活かしてパソコンを駆使して自治体や地域活動の広報活動を請け負って何とか暮らしているケースもある。「半農半x」こそかえって主流なのだと思えば、誰にでも「農的生活」への道は広大な可能性を秘めて開かれているのである。

 そのようにして団塊前後の世代が滔々として農に向かう社会的な流れが太くなれば、若い人たちが始めからそういう生活を人生の選択肢の1つとして考えるということにもなるだろう。鴨川自然王国も、昨年までは中高年の田舎暮らし願望者が中心だったが、最近はサラリーマンを辞めた20代の若者がフラリとやって来たまま定着して、野菜畑を担当して近所の直売所にささやかながら恒常的に出荷できるようになったり、彼らが主催して子供たちのための農業体験キャンプを開いたりしている。あるいは私が大学のゼミで教えている学生20人ほどを合宿と称して鴨川に連れて行って手刈りで稲刈りをさせたが、少なくとも何人かは初めての体験に深い感動を覚えたようだった。

 結城登美雄さんもよく言うように、いま400万人だかに膨れあがったフリーターは、中にはただだらしなく甘えているだけの奴もいるけれども、基本的には、発展途上国=産業社会で会社の奴隷のように働いて報われることのなかった親と同じ生き方はしたくないが、ではどう生きたらいいのか分からないという、模索の状態にあるに違いない。考えてみれば、それは30年前にわれわれの世代がぶつかっていたのと同じ問題であり、この世代が、個々の試みはともかく、全体としては脱発展途上国の課題にきちんとした解答を見いだせなかったことが、彼らにツケとなって回っているのである。今の親父やおふくろたちにフリーター現象をなじる資格などありはしない。一毛作目は確かにイマイチだったかもしれないが、これで終わってたまるか、俺たちの二毛作目の人生から背中を見て学べ、と言えるのかどうかである。▲