高野孟の「ジャーナリストの情報術・文章術」入門講座

第2部・ジャーナリストの情報収集術

(9)新聞の読み方・その1――素材としての新聞

 発想と方法についてあれこれ述べてきたこれまで8回分のまとめを書いて「第1部」を締めくくろうと思ったのだが、それをやるとまた抽象論の海へとさまよい出て行ってなかなか戻って来れなくなりそうなので、ひとまずここは投げ出したままにしておいて、少し先へ進むことにしよう。

 第1回で述べたように、インフォメーションの量の中からインテリジェンスの質を煮詰め上げていくことがジャーナリストの情報術の基本である。インフォメーションの素材は新聞・雑誌・書籍・テレビ・ラジオ、それに最近はパソコン通信やインターネットのウェブサイト、ニュースグループ、各種データベースなどまで含めて、何らかの格好ですでに公開された情報として、これでもかとばかり世に溢れ返っている。その情報の洪水の中をいかに溺れずに泳ぎ渡りながら、自分なりのテーマを発見し、問題意識を磨き上げ、必要な素材を収集していくかということになるが、その基本になるのは、何と言っても「新聞の読み方」である。

 われわれは新聞をインフォメーションとして扱って、それを素材としてインテリジェンスを導き出そうとするわけだが、インフォメーションとインテリジェンスというのは、前に言ったようにもともと相対的なもので、新聞というのもそれなりのインテリジェンスの成果である。

(1)まず、現場の記者はたくさんの人に会ったり事件に出くわしたりしながら、彼・彼女の判断でこれは書こう、これは今は書かないで溜めておこう、これは捨てようと決めるわけだし、さてこの出来事は書こうと決めた場合に、例えばそれが殺人事件であれば、当局の発表した事実だけでなく、自分で現場を踏んだ感触、加害者・被害者の周辺の証言インタビューなど手持ちの材料を並べて、自分なりに組み立てを考えて書くわけだから、その段階ですでに二重三重に取捨選択が働いている。

(2)そうやって、大新聞であれば何千人もの記者が原稿を書いて本社に送るが、それらが全部紙面に載るわけではもちろんなくて、政治部とか経済部とか社会部とか各部のデスクの段階で、これは大事な問題だから解説を付けたり、識者の談話を加えたりして大きく扱いたいとか、これは短く刈り込んでベタ記事でもいいから載せておきたいとか、これはボツだとかいう具合にスクリーニングされて、送り出される。

(3)各部から送り出された原稿が全部記事になるかと言えばそうではない。例えば、政治部が「鳩山新党」の内幕について、これはスクープだから当然一面トップを飾ってしかるべきだと自信をもって送り出しても、たまたまその日にオウム裁判で重大な進展があって大騒ぎになり、社会部から大量の出稿があったとすると、紙面での扱いを決める整理部はそちらを優先して、せっかくの政治部のスクープも一面の下の方か政治面のトップに追いやられてしまう。全体としてスペースが限られた中で、どの記事をどこにどのように配置して、どんな見出しをつけて紙面化するかは、かなりの程度まで整理部の判断による。

(4)さらに論説委員室や解説部は、そういった記事の流れや配置を見渡しながら、社説や解説記事を書く。あるいは各部の部長クラスや編集委員などが、ニュースの裏側を突っ込んで抉る企画を立てて特別取材班を編成してじっくりと取材して、連載コラムにしたりもする。また最近では、実力があって人気が高い記者が、コラムニストとして個人名で必ずしも社論に囚われずに定期的なコラムを執筆するケースも増えてきた。これらは、単に起こったことを右から左に伝えるのでないという意味で、よりインテリジェンス的な要素が強い。

 こうして、普段は何気なく読んでいる新聞も、何重ものフィルターに濾過された上でいろいろな工夫や加工が施された、1つのインテリジェンス作品なのである。われわれが単なる読者であれば、それをそういうものとして受け入れて、感心したり批判したりしながら読んでいればいいのだが、ジャーナリストという立場ではそうはいかない。その新聞紙面の全体をインフォメーションの塊として突き放して眺めて、それを素材として自分なりのインテリジェンスを組み立てていくきっかけにするのである。それにはまず、それぞれの新聞が毎日毎日、「読者のみなさん、今日は何と言ってもこれが一番大事なニュースです よ、その次はこれですよ、あ、これは一応そういうこともあったのかと目の片隅に入れておいてくれれば結構です……」という具合に、まことに親切に組み立ててくれている“紙面秩序”を一旦解体することが必要になる。(96-07-08)

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(10)新聞の読み方・その2――下から読む

 インフォメーションとインテリジェンスの区別は相対的なもので、前回述べたように、それ自体は何らかの程度でインテリジェンスの成果である新聞も、われわれにとっては、そこからわれわれ自身のインテリジェンスを始めるべきインフォメーションの塊でしかない。そこでまず、新聞が親切ごかして記事の軽重を判断し、苦心して見出しをつけ、さあどうだと言わんばかりに読者に押しつけてくる紙面秩序を一旦解体することが必要になるが、そのための最も手っ取り早い方法は「新聞を下から読む」ことである。

 日本語の新聞というのは、右上から左下に向かって読んで行くように作られている。英字紙は左上から右下である。当然、第1面の右上に、その日のニュースの中でその新聞社がいちばん大事だと考えたいわゆる「1面トップ」の記事が来て、左肩にはその次に大事なニュースや力を入れている連載囲み記事が来て、あとはだんだん左下へ向かって流れていって、最下段には広告がある。

 1面トップは、その社独自のスクープがあれば大見出しが躍ることになるが、そんなことはしょっちゅうあることではなく、たいていは「まあこのへんなら多くの読者に関心があるだろう」くらいの無難で月並みな判断で決められるので、大体は面白くない。それに日本の場合は記者クラブ制度の弊害もあって、各社とも横並びに同じニュースをトップで扱っていることも少なくない。

 例えば7月26日付各紙を見ると、どこも政府の行革委員会・規制緩和小委員会が38項目の検討項目をまとめた報告書を公表したというニュースをトップに持ってきている。「公立小・中の選択弾力化」(読売)、「学校選択の弾力化盛る」(朝日)、「小中校選択弾力化も」(毎日)、「小中学校入学に選択制」(日経)……と、メインの見出しまで各紙ともほとんど同じ。38項目あるのだから、1社くらいは別の項目に着目して見出しを立てるところがあってもよさそうだが、たぶん事前に事務方の役人から「今日の発表の目玉は学校のところだと思いますよ」とか囁かれていたりするのでこういうことが起きる。

 日経はサブの見出しで「航空運賃見直し」「適格年金を弾力化」を採り上げているが、朝日と読売はサブで「再販制度の検討継続」「著作物再販、両論併記、11月メド報告書」と、再販制度の部分を際だたせようとしている。さらに朝日は第3面で報告書の再販の賛否両論の部分を4段抜きで詳しく報じ、読売は第3面で「(再販廃止は)言論の自由侵す恐れ」という6段の反論記事でフォローしている。新聞を含めた著作物の再販制度は、新聞各社が経営の根幹に関わるとして、その維持のために躍起になっている問題で、読売が先頭に立って政府や行革委員会に対して激しい巻き返し工作を展開してきた。今回の報告書でそれが決着がつかず両論併記に終わったことは、新聞社としてみれば重大な成果で、これを1面トップに持ってきた真意は実はそこにあるということが分かる。何も国民の皆様のことだけを考えて1面トップを決めているわけではないということだ。

 少なくとも、新聞が大きく扱っているからといって、それが自分にとって大事なニュースとは限らないことは確かである。そこで下の方から読むことになるが、例えば政治をウォッチしようという場合には、政治面の最下段にある前日の総理の行動記録は必ずチェックする必要がある。「首相日々」(毎日)、「首相動静」(朝日)、「橋本首相の一日」(読売)と、タイトルは違っても中身はほぼ同じだが、それでも25日付の各紙をよく見ると、橋本が官邸に入った時間を他は9時38分としているのに読売だけは9時42分と書いているなど、細かいところが違っていることもある(どうでもいいことだが)。この日で言うと、「0時、清水司東京家政大学長らと教育問題懇談会」という日程があり、他はどれもその程度の記述にとどめているのに、朝日だけはやや詳しく、出席した7人の顔ぶれ全員の名前と肩書きを挙げている。こういうことが案外バカにならなくて、例えばこの7人の誰かが後に新聞か雑誌で教育問題について論じているのに接した場合に、その人がこの懇談会のメンバーであり、そこでの議論を何らかの程度で踏まえて発言しているのだということを知っているのと知らないのでは、それに対する評価も当然違ってくる。

 そこで、もし私がいま教育問題に関心を抱いていて、何か企画を進めている最中だとすると、朝日のその欄の7人の顔ぶれは切り抜いて取材ノートに貼り付けておくことになるだろう。そして、それを貼り付けながら多分私は、「ん、待てよ。首相がこういう懇談会を召集して何かを打ち出そうとしていることと、先ほどの1面トップの記事にあるように、政府の行革委員会が教育の規制緩和を打ち出したこととは、内容的に、あるいはまた人脈的に、何か関連があるのだろうか」と考えをめぐらせるに違いない。

 そのようにして、新聞を読みながら「あれ、待てよ、はてな?」と、いくつもの“?”を頭に浮かべることが大事で、その“?”がインテリジェンスの素になるのである。そのためには、各紙のこの日の1面トップの記事と、朝日の政治面の下の方の「首相動静」のその部分とを、予めどちらが大事な記事だという先入観を持たずにフラットな位置に置いて見る必要がある。

 私は自宅で4〜5つの日刊紙を取っていて、生来早起きなので朝食前にそれらにサッと目を通す。同じテーマの記事は、最初のを詳しく読んで、他紙ではそれとの違いだけを確認すればいいので、そう時間はかからない。20〜30分ほど眺めていると、5つや6つの“?”はすぐ浮かんでくる。その中で「あ、これは東京万華鏡の次の原稿のテーマに使えそうだな」と思えば、関連の記事を切り取っておくことになる。そうでなければその“?”を頭のどこか片隅に放り込んでおけばいいのである。(96-07-26)

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(11)新聞の読み方――下から読む・続

 誰だったか記憶がないのだが、本を読むときには「あとがき」から読め、そうすると文章が逆立って見える、と言った人がいる。「逆立って見える」というのがなかなか巧みな表現で、あとがきにはたいてい(まえがきの場合もある)、「この本で私がいちばん言いたかったのは要するにこのことである」というような著者のこの1冊にかけた思いが述べられているので、そこをまず押さえておくと、かなりのスピードで読んでいっても「あ、ここがポイントだな」という具合に目に飛び込んできやすくなるという、これは速読術の技法のひとつでもある。

 本を書く人・つくる人は、買ってくれた読者は必ず表紙、扉、まえがき、目次そして本文という順序でひもといてくれるはずだという想定に立って、徐々に、かつできるだけドラマティックに読者を著者の世界に引き込んでいこうとして、その本を設計する。映画でもそうで、タイトルバックに流れるさりげない駅の雑踏の光景を目にした時から、観客は「お、これはローマの駅みたいだな」「人々の表情が暗いな。戦時中だから当たり前か」とあれこれ想像力を膨らませていって、次第にその映画の波長とこちらの感性がシンクロナイズし始めると、もうその世界へと引っぱり込まれてしまう。本の場合も、文豪の大作をゆっくり楽しもうという時には、素直にその設計秩序に身をゆだねて、進んでその世界に没入していくのが常道だが、ここではジャーナリストのあわただしい仕事ぶりをテーマにしているので、著者にはまことに申し訳ないけれども、あえて後ろから読むことで文章が逆立って見えるようにして、こちらの感性に引っかかりやすくなったところを手早く刈りこむという読み方を身につけなければならない。

 新聞を下から読むというのもそれと同じことで、前回に述べたように、編集部や整理部が苦心してつくってくれた紙面構成をいったん壊して全部の記事を等価値の断片にしてしまうことで、こちらの問題意識に沿ってまったく別の紙面構成を仮想的につくりながら読むことができるようになる。

 ところで、新聞は第1面の右上から左下へと読み流すようにできているが、日本経済新聞の朝刊をそのようにして読んでいった場合、最後に行き着くのは第36面の文化欄のいちばん下の連載小説である。今は渡辺淳一の「失楽園」という、延々と男女の睦ごとが続く日経にあるまじき(?)小説が300回を超えて続いていて、どうもこの頃オジさんたちが早起きして家族に気取られないように急いで昨日の続きを読む習慣がついてしまったとか、なかなか評判になっているらしい。

 が、小説はこの際おいて、そのすぐ上の左下は「交遊抄」という短い随想欄である。タイトルのとおり、月〜金の毎日筆者が変わって、自分の青春時代や仕事の上の忘れられない人との出会いや付き合いについて書く。7月7日付の場合は、キャッツ社長の大友裕隆という人が、政治評論家の細川隆一郎に引きずり込まれて小唄を習うようになって、三井不動産の江戸英男相談役や故・坪井東前会長などそうそうたる経済人と親しく交遊したという話を書いている。だいたいこういうパターンの話で、その大友さんを知らない読者にとってはどうということもない話なのだが、それぞれに人生の味とでもいうようなものが滲み出ていて、電車の中などで時間があるとつい読んでしまう。

 ところが面白い人がいて、長年続いているこの欄を縮刷版で全部集めて、そこに出てくる人名をコンピュータに入力してデータベースにした。そんなことをして何になるのかと尋ねると、「ひとつひとつは確かに趣味の世界の付き合いだとか同窓生にこんな奴もいたとかいう、さしさわりのないような話だが、実はここで誰かの名前を挙げている場合、その両者は『頼まれたらいやとはいえない関係』なんだ」と彼は言った。そこまで言われて私もハッと気が付いた。なるほど、例えば中曽根康弘が(もちろん架空の話だが)筆者として登場して「旧制静岡高校では何々君や誰それ君とこんなバカをやって青春を謳歌した」という話を書いたことがあり、また誰か元外交官が中曽根の首相時代にサミットで一緒に苦労したと書き、地元群馬の経済人が中曽根後援会の顔ぶれについて書いたとしよう。「中曽根」で検索すると、そうやって彼とのっぴきならない関係にある人たち5人や10人のリストが出てくる。仮に私が中曽根に頼みにくいことを頼まなくてはならないことがあるけれども直接面識がないという場合、あるいはまた彼の裏表を探る取材をしたいがどこから取りかかっていいかわからないという場合、そのリストが大いに役に立つことになる。

 読み流していればただの気楽なエッセイだが、「頼まれたらいやとはいえない関係」という別の視角で捉えてそれをデータとして集積すると、同じ素材が仕事の武器になる。繰り返しいっているインフォメーションをインテリジェンスに昇華させるとはどういうことかを理解する好例といえる。日経の究極の「左下」の記事をそんなふうに読み変えている プロの情報マンがいるということを知ってほしい。実際、この人は、ある大企業の会長の情報顧問をしている時に、このリストを駆使して人脈を辿ってライバル企業の腕利き役員に接近して、彼に寝返りを打たせてこちらに引っこ抜くという離れ業をやってのけ、巨額の成功報酬を得た。

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(12)新聞の読み方・その3――広告も情報のうち

 新聞を下のほうから読むという場合には、一番下の広告も含む。普通は第1面の下には3段の高さを6つないし8つのコマに区切った雑誌・単行本・通信講座などの広告が並び、2面以下は5〜8段の大きい広告が増え、さらに中のほうに行くと1ページを丸々使った全面広告も出てくる。

 ある日の『朝日新聞』を例に計算すると、全部で40ページの朝刊のうち丸1ページの全面広告が14ページもあり、それを含めた広告の総段数は341段で、40ページ×15段=600段の57%を占める。このほかに題字の下や記事中に入る小さな囲み広告もあるので、紙面面積のほぼ6割が広告ということである。この比率はだいたい一定していて、どういうわけか、新聞の収入の6割が広告、4割が購読料であると言われるのと照応している。ということは、紙面の6割を占める広告も情報的に利用しなければ賢い新聞購読者とは言えないことになる。

 広告の効用の1つは、雑誌がどんな記事を掲載しているか一目でチェックできることである。たまたま10月10日付の各紙には、『文芸春秋』『中央公論』『世界』という3つの総合誌の11月号の広告がある。選挙の関連では、文春の鳩山由紀夫「民主党・私の政権構想」が面白そうだ。中公には椎名素夫と岡崎久彦の「どこが勝っても単独政権を」という対談があるが、この2人の論調は読まなくても分かるから無視しておこう。それよりも中公では現代アジア論の第一人者=渡辺利夫の「虚妄なり中国経済大国論」がタイトルからして論争的で注目に値する。世界では、高嶺朝一と小川和久の「沖縄基地縮小の道」を読みたい。沖縄問題は、鳩山の文春論文でも触れているらしいし(昨日の新聞にそのような予告記事が出ていた)、また2〜3日前に買った『THIS IS 読売』11月号でも、宝珠山昇=前防衛施設庁長官が「沖縄海兵隊本土移転のススメ」を書いていたので、それらをまとめて読んでおかなければなるまい……というようなことを考えながらそれらの広告を眺めて、今月の月刊誌の買い方と読み方を決めるのに、馴れれば1分間もかからない。

 手に取ったこともない雑誌の存在を知り、中身に興味をひかれることもある。やはり10日付各紙を見ていると、「仏教の大衆雑誌」と銘打った『大法輪』という雑誌があって、11月号の特集は「安らぎの世界《マンダラ》への旅立ち」で、副題には「今こそ智慧と地合のメッセージを」とある。それを見て、先日、曹洞宗の高僧と民主党の基本理念の中に書いてある「東洋的な友愛の精神」について話し合ったとき、そのお坊さんが「仏教の慈愛の概念こそ西欧的な友愛の観念を超えるものだ」と語っていたのを思い出した。うーん、この雑誌を買ってマンダラに秘められた智慧と慈愛のメッセージを感得することにしよう。その隣には農文協の発行する月刊誌『現代農業』の増刊「食べものクライシス」の広告があり、その特集の1つに「持続可能な食生活とは」がある。なるほど「持続可能な食生活」というのは今まで自分の辞書の中になかった言葉だ。これも要チェックだな……という具合に、脳髄のどこかに引っかかるままに眺めて行くわけである。

 商品広告もけっこう面白い。10日付の朝日には、「韓国高級焼酎・鏡月」の5段抜きと宝酒造の本格米焼酎「よかいち」の7段抜きと、焼酎の広告が2つも出ている。また焼酎ブームが訪れているのかな、この鏡月というのは良さそうだな……と思ったりする。今日の日本経済新聞には、「アルパインのカーナビ」の1ページ広告がある。カーナビはいま最も激しい競争が展開されている分野で、その中でもアルパインのこの新製品は、32ビットのCPUを搭載し、メモリーカードで最新地図情報などを参照できる、パソコン並みの機能を持っているということで話題になっている。なるほど、こんな画面になるのかと感心しながらページをめくると、そこは産業面で、「アルパイン、携帯電話で交通情報/カーナビ向け、来秋から」という記事が載っている。同社が独自の情報通信センターを作ってそこと携帯電話を通じて結ぶことで、最新の地図情報や行楽情報など必要なものだけを呼び込めばいいことになり、カーナビ本体のCD-ROMに盛り込む情報を少なくすることが出来るし、したがって価格も下げることができるのだという。まあ、この日にアルパインの全面広告が載ることを承知で書いた“連動パブ記事”に違いないが、広告で今の最新製品の情報を提供し、記事でそれがさらに1年後にはどこまで発展していくかをさりげなく書くというのは、なかなか巧みな仕掛けではある。たぶん広告部のほうから「明日、アルパインの1面広告が入るからさ、ちょっとこれ記事にしてよ」と編集サイドに持ち込んだのだろうが、日経というのは日本資本主義の“偉大なる業界紙”だから、このくらいのことは平気でやる。

 あるいは、私の知り合いのエコノミストは、新聞の求人広告欄を見ていると経済の実相がかいま見えるとか言って、毎日それを熱心に読んでいる。確かに、どんな業界のどんな職種が賑わっているかを継続的・定点観測的にウォッチすれば、数ヶ月遅れの経済統計では見えない先行きが読めるのもかもしれない。人によって関心の置きどころは様々であっても、新聞の読み方の巧い人ほど広告のスペースも無駄なく活用しているのである。(96-10-10)

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(13)新聞の読み方・その5――水平思考の勧め

 新聞を読みながら、1つ1つの記事をただ「なるほど」と感心して読んでいても仕方がない。新聞の紙面は、政治、経済、国際、文化、地方、社会など、新聞社の縦割りの組織をそのまま反映して、ページもしくは見開きごとに縦割りに作られているので、ぼんやり読んでいるとわれわれの思考もそうなってしまう。それを意識的に打破して、水平方向に頭を働かせることで、今まで見えなかったものが見えてきたり 、問題を立体的に組み立てることが出来るようになる。それがテーマの発見に繋がるのである。

 例えば今日(11月24日)の各紙を私がいつものようにサーッと眺めると「ん、これは?」と引っかかる言葉やフレーズや問題が10ほども浮かび上がる。一例を挙げると、毎日新聞の書評欄を開くとその右肩に杉田聡『クルマが優しくなるために』(ちくま新書)の書評が載っていて、「歩行者優先へのパラダイム転換を説く」と見出しがある。「クルマが優しくなる」という言葉遣いがちょっと新鮮なのと、評者が私も知り合いの技術評論家=森谷正規さんだということもあって、その長い書評を読んでみようかという気になる。

 自動車事故はいまでは日常茶飯で、毎年1万人を超える死者が出ているというのに誰も気に止めない。飛行機が落ちて数百人の死者が出れば、マスコミは天地がひっくりかえるほど大騒ぎするのに、1万人のほうはどうなっているのか。しかもそれで最大の犠牲者は子供と老人である。(なるほど私の感覚も麻痺していると言われても仕方がない。)

 ところが、クルマの安全対策はもっぱら、歩行者でなく乗員の安全に向けられている。エアバッグの装備が進んでいるが、それでかえって、ドライバーの安全性が増したからとスピードを上げてしまうことにもなりかねない。(うーん、私も運転者と歩行者という両方の立場を持っているが、エアバッグが歩行者の危険を増すかもしれないという相関関係に思い至ったことはなかった。)

 カーナビも確かに便利で、渋滞を避ける裏道情報まで与えてくれるが、そうなると全国いたるところの路地までがクルマで効率的に利用されて、歩行者の安全はますます脅かされる。それを防ぐには、クルマが生活道路には入らないように制限し、 どうしても入らなければならない場合はスピードを20キロほどに落とすべきである。(この頃は「裏道情報」なんて地図帳まで出版さているしなあ。これは大事な提案かもしれない……。)そんなことを頭に浮かべながらさらにページをめくると、同紙の「横浜版」の ページに、鎌倉市の市街地の混雑緩和や歩行者の安全、そして排ガスの減少のために、市当局と民間の「鎌倉地域交通計画研究会」が国道沿いの5カ所に480台分の駐車 場を用意して、休日に鎌倉にクルマで遊びに来る人たちをストップして、そこにクルマを置いて電車やバスで市内観光を楽しむよう協力を求めるという実験を開始した、という記事がある。(歩行者優先をこうやってすでに具体化しようとしている人たちがいるのだ。)

 そこで次に読売新聞を開くと、社会面に「米でエアバッグ対策/急速に膨らむ衝撃、かえって危険」という記事があり、日本経済新聞の産業面にも同様の記事があることに気付く。エアバッグの膨張の速度が強すぎて、とくに子供が圧迫されて死亡するケースが続出しているため、メーカー側はバッグの膨張速度を弱めたり乗員の体型に応じて膨らみ具合を変化させる新型を採用するとともに、必要に応じてドライバ ーがエアバッグの使用を一時中止することを可能にする方策をとるという。(エアバッグが子供を圧死させるなんて……。)

 という具合に毎日の書評欄と横浜版、読売の社会面と日経の産業面を横に連動的に読むことによって、仮に私が週刊誌の編集長ならば、4ページでも8ページでもこの問題について特集を組むだけのきっかけと材料を掴んだことになる。編集長でなくても、どこかでクルマやカーナビやエアバッグの話が出たときに、「私はこう思うんですけどね」と、ちょっとした蘊蓄を傾けて相手を感心させるくらいのことは出来 るはずである。(96-11-24)

                                   《未完》

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