毛沢東とは誰か?

——岩波/哲学・思想事典より

毛沢東(もうたくとう Mao Ze-dong) 1893-1976 中国の革命家、マルクス主義哲学者、詩人、字は潤之、湖南省湘潭県韶山冲の人。

【革命の実践】

 1913年、湖南省立第一師範学校に入学、倫理学教師の楊昌済(後北京大教授)に出会い、彼を通じて当時の新思潮に接した。初め無政府主義に共鳴していたが、五四運動の中でマルクス主義に触れ、1920年夏までにはマルクス主義の立場を確立、1921年、中国共産党創立の大会に湖南省代表として参加した。1925年から革命の原動力としての農民の力に注目、農民運動を組織した。1926年の「中国社会各階級の分析」と1927年「湖南農民運動視察報告」は、中国革命における農民問題の重要性を指摘している。1927年、蒋介石の反共クーデターで国民革命が挫折すると、江西・湖南省境の井岡山に上って<革命根拠地>を築き、朱徳とともに赤軍(労農紅軍第四軍)を創設、土地改革を行いながら武装勢力を拡大、<農村で都市を包囲し、最後に都市と全国の政権を奪取する>という独自の革命コースを切り開いた。

 だが都市工作重点主義をとる当時の党中央は毛沢東を認めなかった。その後、朱徳らとともに江西・福建省境を転戦しながら根拠地を拡大、1931年には中華ソビエト共和国臨時政府を樹立、主席になったが党の指導権は彼の手にはなかった。ソビエトは1934年、蒋介石の包囲攻撃によって壊滅、党と赤軍はここを放棄して逃走を開始した。その途中1935年、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で指導権を確立、敗走を<北上抗日>のための<長征>に変え党を危機から救った。1937年、延安に移り、7月から始まった抗日戦争を指導、遊撃戦を展開しつつ勢力圏を拡げ、広大な抗日根拠地を築いた。代表的哲学著作『実践論』『矛盾論』は1937年7、8月に書かれた。

 1938年、「持久戦論」で抗日戦争の展開を予測し、広範な大衆が参加する人民戦争の中で、日本が必ず敗北すると予言した。1940年、「新民主主義論」でブルジョア階級の指導する旧民主主義革命にかわる共産党指導の新民主主義革命の理論を提出した。1941年、日本軍の侵攻と国民党の経済封鎖で抗日根拠地に危機が迫ると、生産運動と<整風運動>(革命運動における主観主義=教条主義、セクト主義の克服をめざすマルクス主義の教育学習と自己改造運動)を展開してこれを乗り切った。運動の一環として文学者・芸術家に行なった1942年の「延安文芸座談会での講話」は、文学・芸術が政治に従属することを明確にし、これが建国後の文芸活動の指針となった。1945年、中国共産党第7回大会で<毛沢東思想>を中国共産党の指導忠想とすることが確定、同時に中央委員会で党主席に選ばれ、以後終身この地位にあった。延安時代は思想の成熟期で、党内の権威もこの時に確立した。

【解放後の経歴】

 1945年、抗日戦争勝利後、国民党との国内戦争に勝ち、!949年10月、中華人民共和国を樹立した。建国後は政府主席(1953年からは国家主席)を兼ね、党と国家の最高責任者となった。1953年、<過渡期の総路線>を提起し、<生産手段所有制の社会主義的改造>に着手、1956年までにそれを基本的に達成した。これを受けて中国は社会主義建設の時代に入る。1957年、「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」を講演、社会主義社会には<人民内部の矛盾>と<敵味方の矛盾>という性質の異なる2種類の矛盾があり、それを正しく処理しなければならないと指摘した。だが同年発動した整風運動で特に知識人層から中国共産党に対する批判が続出するや、<反右派闘争>を展開、知識人を中心に55万人以上の人々をその部署から追放し、学術・文化の後退と自由にものの言えない硬直した社会心理を生み出した。

 1958年、経済の<大躍進>運動と農村の<人民公社>化運動を発動したが失敗、国民経済は大きな打撃を受けた。晩年はソ連に資本主義が復活し、ソ連共産党が修正主義に変わったと判断、その総括の上に「社会主義段階にも階級と階級矛盾、階級闘争が存続し、資本主義復活の可能性がある。それを防ぐためにはプロレタリア独裁の下で革命を続けねばならない」とする<継続革命論>を打ち出した。彼はこの理論に基づいて1966年<プロレタリア文化大革命>を起こし大衆を動員。<走資派>の握る上部構造諸領域の権力を奪取することを目指した。しかし文革は毛沢東の予測を越え、全国に動乱に近い混乱と巨大な被害をもたらした。毛沢東はその結末を知ることなく、1976年9月世を去った。死後中国共産党中央委員会中央は晩年の理論と実践を誤りとして否定したが、その問題提起は課題として残るだろう。

【毛沢東の思想】

 毛沢東の思想は、マルクス主義の諸原理を中国の実情に適用する彼の思想的営為や革命の実践と、初期共産党指導部の教条主義との闘いの中から生まれた土着的民族的マルクス主義=<中国化されたマルクス主義>といえる。その特色は、@実事求是(実際から出発し、理論と実践を結び付け、現実の状況を調査研究して問題を解決する)の作風、A人間の「主観能動性」(積極性、やる気)の重視、B事物の観察、分析、実践における唯物弁証法(対立物統一の法則)の徹底的適用、C人民への奉仕を中心とする共産主義の道徳主義、D歴史の原動力、革命の主体としての人民大衆への絶対的信頼、等である。

 共産党には毛個人の思想とは区別される<毛沢東思想>があり、党の指導思想・行動指針として1945年提起された。1981年の「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」は、その核心を「共産党の集団的な英知の結晶」で@実事求是、A大衆路線、B独立自主・自力更生の3つだとする。→『実践論』、『矛盾論』。

【毛沢東の影響】

 1960年代各国の共産党が中国派・ソ連派に分裂、毛沢東思想は中国派を通じて世界に広まり、アジア・南米の民族革命運動の指導理念となり、欧米では新左翼の<毛沢東主義>潮流を生んだ。国内では政治、思想界での毛個人の威信は文革後低下したが大衆的人気は依然高い。

〔文献〕『毛沢東選集』全5巻、外文出版社、1968-78;西順蔵編『原典中国近代思想史』第5冊、岩波書店、1976;野村浩一『毛沢東』人類の知的遺産76、講談社、1978。〔岩佐昌瞳〕