初めてのモンゴルへの旅
  ――ウランバートルのオペラ座で

 

●モンゴル浸け

 5月2日から丸1週間、「モンゴル・オペラを観る」といういささか奇異な目的で、友人たちと連れだってウランバートルを訪れた。

 向こうでたくさんの人たちと知り合って、いろいろビックリするような体験をし、「面白かったねえ」「こんなに楽しい旅は滅多にないよ」などと言いながら9日(土)の直行便で帰国すると、その2日後にモンゴルのバガバンディ大統領一行が経済界代表団も引き連れて専用機で来日。さっそく月曜日に日蒙関係諸団体の主催で開かれた歓迎パーティに駆けつければ、そこにはつい数日前にウランバートルで知り合ったばかりのモンゴル人や日本人の新しい友人が何人もいて「やあ、やあ」ということになり、大統領に随行してきた企業トップや閣僚クラスの要人たちを2晩も夜の六本木に連れ出して飲み歩いたりして、結局、2週連続の“モンゴル漬け”という有様となった。

 パーティには、すっかり大人っぽくなった名古屋在住の歌手オユンナや、旭のつく3人のモンゴル出身力士も来ていた。力士の1人に「かつてあなたの彼女だった人と一昨日までウランバートルで一緒だった」と囁くと、驚愕して青ざめていた。

 モンゴル史の大家である岡田英弘=東京外語大名誉教授と、夫人でやはりモンゴル史の宮脇淳子さんにも、そのパーティで初めてお会いすることが出来た。古いインサイダー読者はご記憶かと思うが、旧ソ連崩壊期の92年夏にモスクワからエストニアの ターリンを経てウクライナのキエフへと旅したときに、岡田教授の『世界史の誕生』(筑摩書房)を携えて行って「我々が植え付けられてきた世界史のイメージが根底から覆されて、思わず目眩がし」(No.278本欄)て、それがきっかけで以後約1年間にわたって「ユーラシアの歴史を見直す」と題した断続連載を本誌で展開した(このシリーズもいずれここで公開予定)。

 いつかモンゴルから中央アジアを経てトルコまで、出来れば馬に乗って1年がかりで旅をして、そういう趣旨の本を1冊書いてみたいというのが私の夢で、実はそのために、狂ったような忙しさの中で時間を見つけて野外乗馬の練習をしたり、岡田先生の本を読んだり、密かに準備をしていて、今度の私にとって初めてのモンゴル行きもその作業の一環という意味もあったのである。

 それでモンゴルから帰ったとたんに岡田先生に出逢えて、「『世界史の誕生』についてのコメントは君が一番的確だった」とおっしゃって頂いて、感動するというより何か神のお導きを信じたくなるような気持ちだった。宮脇さんにはすぐにご著書『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』(講談社選書)を送って頂いた。

 私はなぜか子供の頃から、モンゴルを懐かしい父祖の地だと思いこんでいるようなところがあった。今もってどうしてそうなのかは謎で、かつての遊牧帝国への旅に憧れるのは、その謎を解きたいという衝動が自分の中にあるからかもしれない。

 まあいろいろなことに興味を抱いて、その時々に人並み以上の集中力を発揮して,ある程度見極めがついて自分なりに納得すると、もう次の興味に転じているという、こだわりが強いのか移り気なのかよく分からないのが私のスタイルだが、ユーラシアの草原だけは、もう50も半ばに達してそう多くのことをやるつもりもなくなった私にとって、最後まで変わらぬこだわりの地になるような気がする……。  

●オペラ座の客席で

 モンゴルの首都ウランバートルのオペラ座の暗い客席に座って、「ラマ僧の涙」と題した民族オペラの舞台を観ながら、私は、時間と空間の両軸が共に捻れてしまって、自分がなぜ今ここにいるのかが分からなくなってしまうような、奇妙な感覚に囚われていた。

 何しろすべてが不思議の連続である。我々のうち1人を除く4人はつい先日まで、モンゴルにオペラがあるということ自体を知らなかった。話を聞いて面白がって、好奇心に任せて「よし、行って観てみようじゃないか」と決めてからも、正直なところ、一体どんなものを見せられるのやらと半信半疑のままだった。

 ところが実際に来てみれば、市の中心部に立派なオペラハウスがあって、専属の歌手とコーラス、オーケストラ、それにバレー団など250人の団員を抱え、92年に市場経済に転換したことで国家の補助が大幅に削減された後も何とか頑張ってそれを維持し、外国訪問を含め年に100回からの公演を続けているのだという。しかも、特にソリストたちの歌唱の技量は驚くほど高く、十分に国際的に通用するレベルである。

 どんなものかもよく分からないのに、安いとは言えない旅費に自腹を切って来てしまう我々も我々だが、それを大歓迎してくれて,オフシーズンであるにもかかわらず、4つの別々の出し物を4夜連続、我々のためだけに(と言っても,新聞に予告したので他の一般客もちらほら入ってはいたが)演ってくれた劇場側の心意気も凄い。たぶん、こんな贅沢なオペラの観方をした人は世界にそういないのではあるまいか。

 そのオペラハウスは、1947年に焼失した前の劇場に代わって51年に建設されたもので、当時まだこの地に抑留されていた旧日本軍の捕虜たちが使役に駆り出されたという。外観はスターリン様式とも言うべき権威主義がちらつく造りだが,内装は小ぢんまりした中にも丁寧に仕上がっていて、音の響きもいい。50年近く経ってだいぶ傷んできて、今年わずかながら予算が付いたので初めての補修工事に着手したところである。

 逆に言えば、50年間一度も補修しないでこの程度を保っているのは、日本人の手仕事だからだろうか。シンプルではあるがきれいな曲線を出している丸天井や、細かい金色の細工を施した2階席の欄干を見上げると、囚虜の身でありながらついつい与えられた目の前の仕事に熱を入れてしまう痩せた抑留者たちの作業服姿が亡霊のように浮いて見えた。

 そんなわけで、我々は不思議の国に迷い込んだ少年少女のごとく、きょとんとしたりわくわくしたりしながらオペラ尽くしの4日間を過ごしたのだった。

●民族オペラが面白い

 演目は、洋ものが「トスカ」「蝶々夫人」、民族ものが「ラマ僧の涙」「悲しみの3つの丘」の計4つだった。初日に観た「トスカ」は、歌手の巧さには驚いたが、オケが半分寝ぼけていて、劇場が補修中で休めると思ったのに日本人たった5人のために駆り出されて、まったく……とでも思っていそうな演奏ぶりにはがっかりした。

 ところが4日目の「蝶々夫人」はすばらしくて、特に第1幕でジャフサンドゥラム(ソプラノ)とダムディンスレン(テノール)が歌う「愛の二重唱」は、この旅の旗振り役の作曲家=三枝成彰が思わず1人立ち上がって拍手を送り、後で「僕が今までの生涯に聴いた中で一番すばらしい『愛の二重唱』だった」とまで絶賛したほどで、私のような素人が聴いても2人が表現する愛の深さに引きずり込まれていくような迫力があった。

 蝶々夫人が団扇をバタバタさせながら草履のまま座敷に上がってしまうとか、山鳥侯爵が幡随院長兵衛風の黄色いドテラを来て出てきたり、最後には蝶々さんが切腹して果てたり、おかしなところは多々あったが、それはよくありがちなご愛敬というものである。オケもこの日はよく鳴っていた(写真をクリック!)

 私がより興味を抱いたのはモンゴル独自の題材でモンゴルの作曲家が作った民族ものだった。「悲しみの3つの丘」は、ここからモンゴルのオペラ文化が始まったと言われる最初にして今なお最も人気のある民族オペラで、何とその日が2504回目の公演に当たるという。

 ソ連で学んだ作曲家ダムディンスレンが1942年に作曲し、43年に初上演された。47年に前のオペラ劇場が焼けた時にこの譜面も焼失したので、56年にダムディンスレンが再作曲し、その後も76年と97年にリニューアルした。計算上、年に50回近く上演して、1回の観客が500人としても、モンゴルの人口の半分にあたる125万人が観ているということになる。

 内容的には、文部省唱歌風ないしは軍歌調の単純で分かりやすい歌を1番から3番までテノールが歌うと、今度はソプラノが似たような曲をまた1番から3番まで歌うという感じで延々と続く歌謡劇で、今日のオペラとは比ぶべくもないが、こういうものが1940年代に作られて今に受け継がれていることに感動した。モンゴル人は誰もが劇中の歌を覚えていて、宴会が盛り上がるとお互いに役を割り振って歌い合うのだという。宴会でオペラの歌曲を歌う国民が世界に存在するだろうか。

 ストーリーは、村の若者ユンデンが娘ナンサルマーと結婚の約束をしその準備のために町に向かうが、その隙に、ユンデンに片思いする別の女ホロルマーが、2人のあいだを引き裂くため、族長バルガンがナンサルマーを略奪するよう仕向ける。しかしユンデンはバルガンと戦って婚約者を取り戻し幸せになる、というもの。モンゴルの代表的作家ナツァグドルジの悲劇的な戯曲を元に、ダムディンスレンがハッピーエンドのオペラにした。

 もう1つの「ラマ僧の涙」は作品も演奏もすばらしく、このまま日本であろうとどこであろうと持っていけば大好評を得るだろうと思われる傑作である。上と同じくナツァグドルジの短編小説を元に、ビレグジャルガルが作曲し、86年に初演した。「モンゴル音楽とオペラ芸術を新次元で調和させ、歌手たちの歌唱技術に変革をもたらした作品」と同国音楽界では評価されているという。

 きびしい戒律の下で修行しているラマ僧ロドンが、街で出逢ったずるがしこい娘ツェレンルハムに誘われて恋に陥り、苦悩の果てに僧籍を捨てて彼女と共に暮らそうとするが、娘はもう金持ちの息子ナムマンと懇ろになっていて、ラマ僧はすべてを失って追い出される。

 モンゴル版の「高野聖」といった趣だが、僧と娘が出逢う市場のにぎわいの場面でたくさんの人が出ていながら1人として無駄な動きをしている者がいない生き生きとしたきめ細かい演出、僧が仏罰を恐れて苦悶しつつ夢を見るときの化け物たちの乱舞の幻想怪奇性の表現、ソロと二重唱・三重唱とコーラスが巧みに配置されてリズミカルにストーリーが展開する緩みのない構成、布地に荒い筆致で描いた絵を多用した一見素朴ながら実は相当にモダンな舞台美術――など、どれ1つをとっても文句のつけようがないという感じがした。

 ただ照明はこの日も含めてちょっとひどくて、左右斜め上方から手動のスポットライトがよたよたしながら主役たちを追うだけの学芸会並みのレベルで、これは大いに改善の余地がある。

●日本のオペラ・ブーム?

 お金持ち日本はいまオペラ・ブームで、メトロポリタン劇場やミラノのスカラ座をはじめ世界の超一流が年に船一杯分ほどの大部隊で何組もやってきて、5万円や6万5000円もするチケットが飛ぶように売れる。向こうはオフシーズンの半分遊び気分で、メンバーも演奏も適当に手抜きするが、それでも欧米ブランド志向の日本人は結構喜んで通い詰める。

 ところが一方、日本の自前のオペラ文化となると、モンゴルより約70年も遅れて先日ようやく国立オペラハウスとして第2国立劇場が出来て、建物や装置は豪華だけれども、専属の歌手もコーラスもオケもいない。今から21世紀初頭にかけて各地に10ほどものオペラハウスがオープンするというが、多くは自前ソフトのコストなど考えてもいないハコモノ公共事業の域を出ないのではあるまいか。

 だから、例えば三枝が昨年上演して好評を博し、今年間もなくソニークラシックから日本人としては異例のビデオ・CDの全世界発売に乗ることになった自作のオペラ「忠臣蔵」の場合、作者である彼が全く自力で5億円分のスポンサーを集めることなしには舞台を実現させることが出来なかった。

 三枝がそのような日本事情を説明すると、モンゴルのオペラ座の幹部は「その金額は、当劇場の11年間分の総運営費に相当する」と言った。三枝は「金をかけることじゃないんだよね。我々もやり方を考え直さなければ……」と述懐していた。作者が自分で金集めをしなければ自前のオペラが出来ないというのは、日本の豊かさでなく貧しさの証明である。

 モンゴルの古びたオペラ座は、舞台の広さや奥行きがブロードウェイの小劇場ほどしかなく、ましてコンピュータ制御の油圧装置で舞台を回転させるようなハイテクは何もない。しかしそこには、50年も歌い継がれ人々に愛されて宴会でも歌われるような「自分たちのオペラ」があり、またそのようにオペラを人々の生活の中に根付かせようとする関係者の熱意と心意気がある。何が豊かで何が貧しいのか、改めて考え込んでしまうようなオペラ体験だった。

●体育館のディスコ

 ウランバートルの人口は63万人で、その約半分ほどが市の周辺部にゲルと呼ばれる伝統的な天幕を張って住んでいることを除けば、旧ソ連の殺風景な地方都市の雰囲気そのままである。中心にはお定まりの大きな広場があって、そこは90年に初めて、誰に動員されたのでもない市民たちの民主化要求デモによって埋め尽くされた。

 正面には、今では複数政党制の下で合従連衡著しい連立政治の舞台となっている国会があり、右手に我々がお世話になった国立オペラ座が構えている.その右隣にはかつて権威の象徴だったウランバートル・ホテルがあり、その前の樹木の公園には“世界遺産”と呼ぶにふさわしいレーニンの立像がある。偉大な革命家の銅像はロシアにはなく、こことハノイとハバナにしか残っていないらしい。

 何の面白みもないその街にも、しかし自由市場経済は確実に根を張り始めていて、かつては社会主義の宣伝映画ばかりやっていた「アルト映画館」には、ほとんど全裸に近い金髪女が笑いかけている絵を配した米国映画の看板が掛かっている。中に入ると、たぶん前はメインの映画館だった1階の大きなホールは恐いお兄さんたちが警備する「ビンゴ」のギャンブル場に占領されていて、映画のスペースはどこか裏のほうに追いやられていた。2階のロビーは、なぜか外貨の両替商たちのカウンターがいくつもあって、ここなら日曜日でもドルをトゥグルグに換えることが出来る。

 我々が泊まった最新のジンギスハーン・ホテルの1階には、24時間営業の立派なカジノがあって、壁際の数十台のスロットマシンに囲まれたフロアでは昼間からルーレットやカードで遊んでいる人たちがいる。右側においしいドイツ風料理のレストランがあり、奥の一段高いところにはしゃれたバーもある。聞くと、このカジノだけで、料理人や掃除のおばさんまで含めると240人もの人が働いているという。それが成り立つだけのお客がいるということである。

 現地の人に連れられて夜の街を徘徊すると、ネオンはもちろん看板ひとつ出ているわけではない貧弱なビルの中に豪華なディスコがあったりする。ちょっと高級なディスコ「エモン」は、入場料が5ドルなので,ビジネスマンやOLたちがやってくる。我々が行った夜には、モンゴル航空の国際線スチュワーデスの10人ほどの美女たちが、そのうち1人の誕生パーティの流れとかでワインやシャンパンをポンポン抜いて、黒のセクシーなドレスをひらめかせて、そのまま六本木にいてもおかしくない華麗なステップで踊り狂っていた。当たり前と言えばそうだが、全員が英語を流ちょうに話し、1人は日本語も出来た。夜中にはヌードショーもある大人のディスコである。

「トップテン」は倉庫風の大きな空間で、ライブのバンドが入る。我々が行くと、「ザ・ハード」という人気ロックバンドが「日本からお客さんが来たので、おまけでもう2〜3曲演奏しよう」と言ってステージに上がり、“モンゴ ル人の心のふるさと”とかいう曲をやってくれた。モンゴルのロックは結構レベルが高く、どのグループも単なる欧米のモノ真似でなく、民話を題材にしたり民謡のメロディや民族楽器の音色を取り入れたりして、人々に親しまれるオリジナルな音づくりを追求しているようで、それがシンガポールなどアジア音楽市場でも評価され始めている。オペラの人たちと共通するマインドがあるのが面白い。

 最近の若者は衛星を通じて香港から届くミュージックTVの「アジアトップ10」やディスコダンスの番組を見るのが当たり前だから、流行に敏感だし、聞く耳も肥えている。モンゴル風を加味しながらも洗練されたサウンドにしないと売れないと、そのミュージシャンは言っていた。

 驚いたのは、昼間は公共の体育館で、夜になるとディスコに変身するという「ノンストップ」。ステージの上では、タモリかはたまた宇崎竜童かというおじさんが濃いサングラスに派手なジャケットで絶妙軽快なステップで踊って場を盛り立てるが、フロアで踊っている500人もいようかという男女は中学生か高校生。金曜日の夜だとはいえ、12時過ぎて少年少女がコーラやスプライトを飲みながら跳ね回っている様子には唖然とした。

 アムロ・シューズを履いてヘソ出しルックでステップを踏む少女に歳を聞くと、きれいな英語で「16歳よ」と答える。ここの入場料は2500トゥルグルというから約3ドル。エモンよりは安いが、しかし普通の人は(家賃を別にして)1カ月50ドルで暮らしているこの街で、子供たちがどうやってここで遊ぶ費用を捻出しているのだろうか。

 こうして我々は、こんな短期間に4つもオペラを観たことがなかったのと同様,同じ期間に4つのディスコに5回も行く羽目になったが、総じてどこも恐ろしく健康で明るく、あっけらかんとしていた。幼い頃から自分の力で生きていくことを迫られる遊牧民の文化には、子供の“非行”を心配して親がオロオロするという風潮はないのかもしれない。

●民主主義の実験国家

 さて、我々がモンゴルを訪れたとき、同国の政治は変動のさなかにあった。複数政党制に移行してから2回目の総選挙が96年6月に行われ、それまで野党だった民族民主党と社会民主党が合わせて76議席中50議席を占めて連立政権を作り、1921年以来政権にあった人民革命党(共産党)は25議席しか取れずに初めて野に下った(残りは伝統統一党の1議席)。日本の細川護熙元首相のような立場に立ったエンフサイハン首相は、13あった省庁を9つに再編し、怠惰な銀行2つを潰し、年金の自己負担を増し、土地と国営企業の私有化を促すなど、一連の改革を断行し、また自由化によって一時猛威を振るったインフレを抑え込んだ。

 そのようにそれなりの成果をあげつつあったにも関わらず、エンフサイハンは主として連立内部の事情から退陣させられ、4月23日の国会本会議で与党連合代表のエクベルドルジ前国会副議長が新首相に選ばれた。新首相はさっそく9人の閣僚名簿を上程したが、モンゴルの92年新憲法では閣僚は1人ずつ国会で承認を受けなければならず、しかも各党は党議拘束で所属議員を縛ることがないので、1週間たった5月初でまだ5人の閣僚が決まっただけだった。

 この政変の背景には、「国会議員が閣僚になるのは違憲かどうか」をめぐって長く続いている論争がある。当初は「閣僚の3分の1は国会議員でなければならない」との決まりになっていたが、他方で立法府の議員が行政府の閣僚を兼任すべきでないという主張があり、96年に憲法裁判所がそれを認めたために、エンフサイハン内閣は全員非議員の内閣で出発しなければならなかった。当然、内閣と国会の連絡は悪くなった。

 加えて97年の第2回大統領選挙では、野党=人民革命党の党首バガバンディが当選し、統領と国会と内閣がそれぞれにしっくり行かない状態が生まれた。そこで与党は今年1月、憲法解釈で争うことをやめて、国会議員権限法に修正を加えて議員が閣僚を兼任できることにした。そうなると、党内で首相や大臣になりたい議員が黙っておらず、エンフサイハンとその閣僚たちは特に辞任させられる理由がないのにポストを追われることになった。

 議員が閣僚を兼ねるべきか否かといった基本的な制度上の問題をめぐって,、与野党入り乱れて議論が続いていること自体、我々の目から見れば新鮮に映る。この国の民主主義はまだ始まったばかりであり、日々の政治がそのまま実験なのである。

 旧ソ連のペレストロイカの影響で89年末から90年にかけて民主化要求が高まったとき、それ以前からすでにモンゴル版ペレストロイカ=「変革・刷新」路線を掲げていた唯一政党=人民革命党は、機敏かつ巧みに対応した。自ら人民革命党の「指導性」(つまり独裁性)の規定を廃止して複数政党制と大統領制を採用、野党の自由な参加による総選挙を実施した。与野党大連合政権が出来て、民主化と市場化を推進した。92年2月には新憲法が施行されたが、そこでは「社会主義」という言葉は姿を消し、国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に改められた。

 その年6月の新憲法下で最初の総選挙で人民革命党が圧勝しジャスライ内閣が出来たのは、人民革命党が自ら進んで社会主義を解体して自由への道を拓いたことへの国民の評価を示すものだった。しかし経済は大変で、旧ソ連・東欧が崩壊し、しかもそれらの国々とコメコン内部のバーター方式による貿易が成り立たなくなって、石油をはじめ機械、部品、食糧、医薬品などの輸入が途絶し、激しいインフレの中でマイナス成長が続いた。

 しかし、経済構造の改革のため次々に制度を改変し、IMFや日本はじめ各国からの援助もあって94年を境に次第に落ち着き、プラス成長に転じた。そういう中で、上述のように96年総選挙では人民革命党が敗北し、野党連合に政権を譲ったが、しかし翌年の大統領選は人民革命党が制し、同党が決して信頼を失っているわけではないことを示した。

 35議席を持つ第1党の民族民主党は、15議席の社会民主党と連立を組んでいて、党内にはいっそ両党を合同させて閣僚ポストなどをめぐるぎくしゃくを解消しようという動きがある反面、社会民主党がそれに応じないならば、連立を解消して25議席の人民革命党と連立を組み直そうかという考えの人たちもいる。人民革命党の側からすれば、民族民主党と社会民主党のどちらと組んでも政権に復帰できる。

 少なくとも日本よりもよほどまともな、選挙を通じての政権交代や自由な連立組み合わせが可能な、分かりやすい政治が発展しつつあると言える。次の総選挙は2000年で、この時モンゴルはどのような政治選択をして21世紀を迎えるのだろうか。

●進む市場経済化

 モンゴルのGDPは97年で約7000億トゥグルグ(Tg)、現在のレートで1ドル=815Tg,1円=6.3Tgだから、約8.6億ドル=1116億円にすぎない。1l当たりでは29万1400Tg=約360ドル。慎ましさを通り越して、アジアでも最貧国グループに入る。しかしそれは数字で計算できる経済の話で、総人口235万人の半分近くに当たる43%が日本の4倍の広さの大草原で農牧林業に従事して、極めて自給性の高い、完全リサイクル型のゆったりとした暮らしをしている。

 旧ソ連・東欧のどこでも起きたように、対外ビジネスや外国人観光客に接する機会を持つ人々がドル経済を享受し、そうでない人はゼロが1つか2つは少ない旧来通りのトゥグルグ経済の中にいるという乖離は、モンゴルにも確実に現れていて、上述の華やかなディスコなどはまさに前者の象徴なのだろう。

 しかし、少なくとも崩壊期の旧ソ連・東欧をさんざん歩いて、目を血走らせたドル経済人と打ちひしがれた現地通貨人とのコントラストの無惨を観察してきた私の印象では、その乖離はモンゴルが他のどこよりも小さく、むしろこの国の人々は先祖伝来のゆったりとした暮らしぶりの中にあわてずさわがず、マイペースを崩すことなくドル経済を受け入れているように見えた。

 主な産業は牧畜と鉱物資源である。モンゴルには約3100万頭の家畜が放牧されていて、食肉・乳・乳製品・皮革・毛などに活用されている。そのうち290万頭は馬で、これは中国の1000万頭に次いで世界第2位。人口1人当たりではモンゴルは1.2頭で、人よりも馬のほうが多い。1人当たりの第2位はカザフスタンで、10人に1頭だから、モンゴルはダントツのトップである。

 皮革製品は、羊・山羊580万頭分、馬・牛69万頭分、ラクダ3万頭分、タルバガン42万5000頭分を生産し、また山羊の毛皮2600トン(世界の26%)、羊毛2万トンも生産している。しかし資本の不足や技術の未熟のため、それらの豊富な資源を活用して付加価値の高い製品を作り出して輸出を強化することが大きな課題である。

 鉱業では銅、モリブデン、金、銀、ウラン、蛍石、コークス、鉄鉱石、錫、鉛、亜鉛、石炭などの採掘が行われ、それらの輸出が全輸出の56%を占めている。中でも大きい企業は国営の銅開発公社エルデネトで、同社は世界でも10指に入る銅鉱山を採掘して日本その他に輸出し、この国の法人税収入の38%を1社で払っている。

 その総裁はITI銀行の会長も兼ねる経済界の最高実力者で、彼と首相が折り合いが悪くなるとモンゴル全体がおかしくなるとまで言われている。そのオトゥゴンビレク総裁も、今回大統領と共に来日し、経済界首脳や民主党の菅直人代表らと会談した。

 最近力を入れているのは金の生産で、97年には8.4万トンで、3年前の5倍に増えた。また石油の探査も米国・カナダ・イギリス・豪州など外資が入って大がかりに進められており、今年に入ってタムサグ第19油田から中国への原油輸出が始まった。この分野でも同じく付加価値を高めることが課題である。

●北東アジア経済圏

 モンゴルが特に期待しているのは、元々親近感があり、モンゴル支援国会議を世界銀行と共同で毎年東京で開催している日本である。オトゥゴンビレク総裁は菅代表との会談の席で「我が国は、ロシア式の社会主義という一番左から、米国式の自由経済という右の極端に振れて、国営企業の民営化などもあまり急激にやりすぎた。それで今、ちょうどその真ん中の日本に関心を向けている」と説明した。

 モンゴルの姿勢は、そのように対日関係を重視しながら、しかしそれを2国間関係としてパイプを太くしようとするだけでなく、ロシア・中国・南北朝鮮を含めた北東アジア地域の多国間協力の中でモンゴルが発展する道を拓こうというものである。来日して経団連で講演したバガバンディ大統領は次のように述べた。

「両国の協力関係は、単なる2国間関係よりもより広く、ロシア連邦・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国を含めた、北東アジア圏全体にわたる協力関係の構築に力を添えるものでなければなりません。地域ブロックの結びつきは,各国間関係の様々な側面をよりいっそう自由にし,協力関係をすべての面で発展させる条件や可能性を満たすことを、他の地域ブロックの経験は示しています。北東アジアには、天然資源が豊かな国があり、また他方では高度の科学技術を持つ国もあります。従って21世紀に向かってきわめて有益な協力関係を構築することが出来るはずです」

 そのような多国間協力の象徴的な例としてモンゴルが期待しているのは、シベリアの天然ガスをモンゴル・朝鮮半島経由で日本に運ぶためのパイプライン計画である。大統領は言う。

「北東アジア地域の発展という理想を現実にするには、トゥムン川プロジェクトやアジア・ハイウェー、天然ガス・パイプラインと高圧電線のロシア発・モンゴル経由・中国までの敷設などの各プロジェクトが大きな役目を担ってい ます。特に、シベリア地方コビクタクより我が国を経由して中国、さらには関心を寄せる第三国まで天然ガスのパイプラインを敷設する問題が研究されています。アジア大陸でも有数のこの大規模プロジェクト実現のため日本が積極的に参加することを期待します」

●ゲルでの一泊

 旅の終わり近く、我々はウランバートルから幹線道路と言っても舗装が穴だらけの道を片道4時間半疾走して、古都カラコルムに近いブルド村のツーリスト・ゲルに一泊旅行を試みた。せっかくモンゴルに来て、大草原での乗馬を体験しない手はないだろうということで、一同思い思いのブーツまで買って行った。ツーリスト・ゲルというのは、観光会社などが経営するゲルのキャンプ場で、そこに泊まって馬や釣りやカヌーなど自然を満喫する。首都から1時間ほどのところにもいくつもあるが、我々はどうせなら地方の様子も見てみたかったので、その場所を選んだ。

 7〜8月の旅行シーズンには、日本からの観光客が1万人ほども訪れて、多くはゲルを体験する。本格的な乗馬ツアーも結構盛んで、それが売り物のところではちゃんと騎兵隊用に調教された馬を揃えて、初心者向けの乗馬教室から本格的な野外トレッキングまでメニューを用意しているようだ。

 我々が行った「バヤンゴビ」はそれほどの用意はなく、馬に乗りたいというと係員が近所の遊牧民に声をかけて必要な頭数だけ集め、鞍をつけて乗せてくれる。決して乗りやすい馬ではなかったが、それでも私以外は全く初めてという我々が、翌朝には2時間かけて砂丘と草原を自由に(駆け回ったとは言わないが)歩き回って遊牧民気分に浸ることが出来た。

 ウランバートルに帰る途中、トゥール川の畔で、水に入って脚を冷やしているたくさんの牛や馬を眺めながら昼食を広げていると、向こうから3頭の牛を追って水を飲ませに来た2人の牧夫が、もの珍しそうに寄ってきたので弁当をお裾分けした。聞けば、昨日村を出て、あと何日かかけて野営しながら首都にその3頭の牛を売りに行くのだという。

 年に一度もそうやって売りに行けば、あとは草原の自然の恵みに頼ってなかなかの暮らしが出来るようだ。馬に乗るときも、野原で鞍を枕に寝るときも着たきりであるらしいデル(民族衣装)をまとった日焼けしたその牧夫の顔を見ていると、ああ、この人たちはきっと何千年もこんなふうにして暮らしてき たんだなあと思って胸が詰まった。

 モンゴルにはこれから何度も行くことになりそうである.[INSIDER No.406 98年5月15日号より]◆