昨年5月に訪れた時には改修工事中だったモンゴル国立オペラ・バレエ劇場は、ところどころ欠け落ちたライトサーモンの外壁も、灰色にくすんでいたホールの白壁も、すっかりきれいに塗り上げられて、ギシギシと音を立てる木製の扉はまだそのままだったとはいえ、見違えるような端然とした姿で、ウランバートル市の中心にあるスフバートル広場に向かって立っていた。

 席数600程度の小劇場と言うべきその建物は、1947年に焼失した前の劇場に代わって51年に建てられたもので、当時はまだウランバートル近郊に抑留されていた約1万4000人の旧日本軍捕虜たちが順番に使役に駆り出されたという。この街に多い旧ソ連様式の大雑把な建物とはひと味違う、1つ1つの曲線に優しさのようなものを感じさせる丁寧な造りは、たぶんロシア人だったろう設計者やモンゴル人の監督の手柄ではなくて、どんな境遇にあっても目の前に与えられた仕事に思わず精魂込めて取り組んでしまう日本人の生真面目さの結果だったに違いない。

 昨年初めてここに足を踏み入れて、われわれ5人以外にほとんど人のいない客席でオペラを観た時には、そんな過去の経緯を聞かされていたせいもあって、建物全体から何か霊気のようなものを感じたが、新装成った今はそれもすっかり薄らいで、Tシャツ姿の外国人観光客や着飾ったモンゴル人女性の団体などたくさんの観客が押しかけて、明るい気分に包まれていた。

 今年はノモンハン事件60周年。関東軍が謀略を仕掛けてモンゴル領内に侵入してソ連・モンゴル連合軍に大敗を喫した、その愚かしい行動がなければ、終戦間際にモンゴルがソ連と共に対日参戦することもなく、従ってまた抑留者の一部がここに連れてこられることもなかったかもしれない。市場経済の中に投げ出されて財政が逼迫している中で、敢えて劇場側が48年ぶりの改修に取り組んだのは、次の世紀には良い思い出だけを残そうとする一種の鎮魂の儀式だったのではないか。

■民族歌劇の楽しみ

 今年の演目は、洋ものがビゼーの「カルメン」とヴェルディの「トゥラヴァトーレ」、民話や小説から題材を取ったオリジナルの民族ものがナツァグドルジ作曲の「ウーレンザヤー(雲の運命)」と、ダムディンスレン作曲の「悲しみの3つの丘」
だった。

 ソロ歌手たちの多くは、旧ソ連圏の一流の音楽院に学び、モスクワだけでなくミラノやロンドンなどの舞台にも立ったことがある人たちで、歌唱力のレベルは高い。昨年は、とくに「蝶々夫人」を観て、舞台装置や衣装の粗末さや照明の下手さとは余りに対照的な歌の巧さに大驚愕・大感動したのだったが、今回は2度目でもあり、また演目や配役の加減もあるのかどうか、それほど新鮮な感動はなかった。

 しかし、何と言っても面白いのは民族ものである。「ウーレンザヤー」は、モンゴルを代表する作曲家で、元国立オペラ劇場長、現モンゴル作曲家連盟会長のナツァグドルジの最近の作品で、時代は清朝支配下にあった19世紀、地方の1王公が旅の途上で病に倒れ、まだ力不足の自分の息子でなく女婿を後継者に指名したことからお定まりのお家騒動となり、

 その間を立ち回って漁夫の利を得ようとする女中頭が後継王を毒殺し、さらに王妃をも殺そうとするが誤ってその息子を殺してしまい、さすがに罪の意識に苛まれたその女中頭も自ら毒をあおって死んでしまうという、人生が雲の如くはかないものであることを描いた作品。ストーリーはともかく(大体オペラにろくなストーリーはない)、曲も構成・演出も悪くないし、何より舞台デザインが、100年以上前の宮廷生活の味わいを生かしたままかなり大胆に減り張りをつけたダイナミックなもので素晴らしい。

■2500回以上も公演

 もう1つの、昨年も観た「悲しみの3つの丘」は、1943年の初演以来同国で2500回以上も上演されて人気の国民的オペラで、モンゴル文学の父と呼ばれ、ウランバートル市内にその名を冠した博物館もある作家=ナツァグドルジ(上の作曲家とは同姓別人)が戯曲を書き、これも著名な作曲家であるダムディンスレンが曲を付けた。47年の劇場の火事で譜面が失われたため、56年に本人が再作曲して復活させ、その後76年と97年にもリニューアルされた。

 ユンデンという名の伝説の勇者が恋仲のナンサルマーと結婚しようとするが、彼に横恋慕する別の女性の策謀で恋人が金持ち男にさらわれてしまう。ユンデンは村人たちの協力を得てその男の屋敷に乗り込んで恋人を奪い返し、めでたく結婚する。曲は、日本の文部省唱歌風の単純で分かりやすい歌をテノールが1番から3番まで歌うと、次にソプラノが同じ歌を歌詞を変えて1番から3番まで歌うという具合に連綿と続く、歌謡劇とも言うべきもの。

 それだけに、モンゴルの人々はみなこの歌を覚えていて、宴会で興に乗ると車座に手拍子でこの曲を歌う。それはそうで、2500回以上も公演していれば1回に500人として延べ125万人、同国の人口の半分が観ている計算になる。その内容よりも何よりも、モンゴルの国民がこのような誰でも口ずさむことの出来るオペラを持っていて、それを50年以上も歌い継いでくることを通じて、専属のソリスト、コーラス、オーケストラ、バレエ団を合わせて200人以上を抱えるこのオペラ劇場を支えてきたという事実が感動的である。

 日本では、確かにモンゴルと同じく1930年代に山田耕筰の日本楽劇協会や藤原歌劇団などプロのオペラ団が生まれたが、国立にせよ私営にせよ専用の劇場を持ったことはない。先年、ようやく初めての国立オペラ座として第2国立劇場が完成し、それ以外に各地に十指に及ぶ超豪華なオペラ上演可能な劇場がオープンしつつあるが、そのどれ1つにも専属の歌手や楽団はいない。さらに、団伊玖磨の「夕鶴」はじめオリジナルオペラの名作もあるけれども、その曲を宴会で歌うほど人々の心に焼き付いているわけではない。

 1人当たりGNPで比べれば、日本4万ドルに対してモンゴルは360ドル。それでいて一体どちらが本当に豊かで幸せなのか……ダッシュペルジェイ劇場長が自ら主役のテノールを歌うその楽劇を観ながら、つい考え込んでしまうのである。

■いろいろな交流の芽

 今回の旅に参加した中には、日本のテノールの第一人者=小林一男はじめ音楽のプロやオペラ愛好家、学者、弁護士、出版人、ニューヨークから馳せ参じた人も含めてたくさんのビジネスマン、奨学基金や文化財団の関係者など多彩な顔ぶれが含まれていた。4晩連続のオペラ鑑賞を終えて、とくにプロの音楽家たちの印象はどうだったろうか。

 マエストロ・コバヤシは、演出、照明、オーケストラの演奏など問題山積みであることを指摘しながらも、

「しかし何十年か前の日本のオペラだってこんなものだった。歌手の力は確かにかなりレベルが高いから、まず日本からオペラを連れてきて観てもらい、モンゴル側のスタッフに技術指導をして機材を置いていくということをするだけで、ずいぶん良くなるだろう。それから、民族ものの演目はすぐに日本に持ってきても十分に成り立つから、モンゴル単独になるか、『アジア・オペラ祭』という組み方が出来るのか分からないが、是非早く日本公演を実現したいものだ」

 と語っていた。実際、今回の旅をきっかけに「日蒙オペラ芸術交流協会」を設立して、オペラはじめ舞台芸術を中心として文化交流を盛んにしようという機運が高まり、すでにモンゴル側では同国随一の作曲家ジャンツァンノロブを会長に、国立オペラ劇場長のダシュペルジェイ、国立民族歌舞団長のドルジ、馬頭琴楽団総監督のバトチョロン、それに文化支援に熱心な経済人たちも加わって新組織が設立された。

 日本側も近々、三枝を会長に、われわれ今回のツァー参加者も出来るだけみな加わって、対応する組織を正式に立ち上げることになった。小林の言うように、民族ものの演目を中心にモンゴルのオペラを日本に呼びたいというのがわれわれの何よりの希望で、三枝や第二国立劇場の公式サポーターである矢内を中心に検討を始めているところである。

 また、音楽の分野以外でもいくつかの交流の芽が生まれた。参加者のうちビジネスマンやベンチャー・キャピタリストたち十数名は、モンゴルの若い新興実業家たち数名と意見交換の機会を持った。さらにたまたまメンバーの中に3人含まれていた奨学基金関係者の方々は、久保田駐蒙大使と会食した際に、在日モンゴル人留学生への支援を強める方策について話し合った。それやこれやで、年に1度のモンゴルオペラ・ツァーは定番になりそうであり、それを含めて私のモンゴル狂いはずっと続くことになるだろう。

■混迷続く経済と政治

 われわれが会談したモンゴルの新興経済人たちやその他事情通の話を総合すると、経済状態は依然として厳しい。

 70年間にわたって一党独裁を続けてきた人民革命党(共産党)は、自ら独裁制を放棄して複数政党制による自由な選挙による大統領制と議会制民主主義に転換し、その下で経済の市場化にも踏み出した。92年2月に社会主義を完全に否定する新憲法を採択し、同年6月には新憲法下で最初の総選挙が行われて、人民革命党が圧勝した。しかし、それまでコメコン内部の分業体制に組み込まれて、旧ソ連からの援助や、旧ソ連・東欧から石油・機械・食料・医薬品などを輸入してその代金をモンゴルの銅・モリブデン・金など鉱物資源やカシミアはじめ羊毛・皮革などの現物で支払うというバーター方式の貿易に頼ってきた同国の経済は、激しいインフレと物不足の中でマイナス成長に陥った。それでも人民革命党政権は、IMFや各国の援助も得ながら健闘し、94年を境に若干ながらプラス成長に転じた。

 このような市場化の初期の段階で、旧共産党勢力による「コントロールされた緩やかな市場化」に飽き足らない人々が台頭してくるのは、どこの旧社会主義国でも同じである。モンゴルの場合も、96年6月の新憲法下で2回目の総選挙で人民革命党は25議席しか取れずに敗退し、民族民主党と社会民主党が50議席を得て民主連合政権を発足させた。

 これもまた旧ソ連・東欧のどこでも共通して見られた現象だが、「より徹底した民主化・市場化を!」と叫んで躍り出てくるいわゆる民主派は、総じて旧体制下で抑えられ疎んじられていたインテリで、西側世界の事情にも通じているし、立派な市民感覚を持っている人が少なくない反面、口数が多い割には経済や経営の実務に疎く、そこをIMFや欧米の経済顧問などにつけ込まれて、西欧モデル万能の過激な市場化・自由化に突き進み、またそれに乗じて内外の一攫千金を求める人たちが群がって利権話を持ちかけたりして政権の腐敗に陥ることになりがちである。

 実際、民主連合の最初の首相エンフサイハンは、13省庁を9に縮減する行革、国有地の売却と国営企業の民営化、怠惰な銀行2つの取りつぶし、年金の個人負担を増大させる改革、石油価格や公共料金の値上げなどを次々に断行し、IMF的基準から見れば大きな成果を挙げたが、その陰では新しい経済の波に乗ることの出来たごく少数の金持ちと、そうではなく生活水準の悪化に苦しむ圧倒的多数の人々との階級分化が激しくなった。

 民主連合内部のゴタゴタから同首相が昨年4月に辞任して、エクベルドルが首相の座に就いたものの、その前年5月の大統領選挙で人民革命党のバガバンディが当選して大統領と議会が捻れ状態になったこともあって、数ヶ月も内閣の編成が出来ない状態が続き、結局12月にナランツァツラルトが民主連合3代目の首相になった。そのように政治が混乱を極める間に、3人の与党議員がカジノ開設をめぐって新興実業家から賄賂を受け取った咎で逮捕されたりして、停滞する経済と広まる格差の一方での政権の腐敗に人々の批判が再び高まりつつある。

 街で聞くと、「民主党は12億米ドルもの借金を将来に残しながら、年金や学校の先生の給料の支払いも思うに任せない状態で、もうダメだ」「外国資本を引き入れて、この国の自然や文化遺産をめちゃめちゃにするような開発をやろうとしている」と、政権批判の声ばかり聞こえてくる。

 そうした中で、ちょうどわれわれがモンゴルを訪れている頃、また新たな問題が持ち上がった。従業員数7400人、年間売上げ1億ドル、法人税と外貨収入への貢献度でダントツトップの同国最大の企業「エルデネット」銅鉱山会社の民営化をめぐって、49%の株主であるロシア側に対して、首相が担当閣僚にも誰にも相談せずに個人的な手紙を送り、勝手に条件交渉をしようとしていたことが判明し、「国益を弄んで私的な利益を得ようとしたのではないか」との疑惑が指摘され、議会は紛糾した。われわれが帰国した翌週の7月22日、野党議員21人が提出した首相辞任要求の評決が行われ、76人中41人の賛成でナランツァツラルトは追放された。1年3カ月の間に3度目の首相辞任という事態で、取りあえず外相のトゥヤ女史が首相代行に就いたものの、またまた次の首相候補選出の手続をめぐって議会と大統領の対立が始まっている。

 このような有様では、来年6月に予定された総選挙では、再び人民革命党が勝利して、緩やかな改革路線が復活する公算が大きい。人民革命党を支持する経済人の説明によれば「われわれはかつてモスクワ一辺倒だった。民主連合政権になって、今度はアメリカ一辺倒の極端に振れて混乱がひどくなった。われわれにとっては、その両者の中間の日本をモデルにして、緩やかな、もっと犠牲の少ない改革に取り組むのが一番いいのではないか」ということになる。

 日本はこの体たらくで、モデルになどなりそうにないが、官僚社会主義と自由市場主義の狭間で改革に苦しんでいるのは事実で、同病相哀れむという意味では参考になるところがあるのかもしれない。

■ディスコと乗馬

 ところで、われわれの旅の主目的はオペラだったが、楽しみはそれだけではなかった。7月11日の革命記念日は年に1度の国を挙げてのお祭り「ナーダム」の開幕の日で、ウランバートルだけでなく全国各地で、競馬・相撲・射弓の3種競技が行われる。われわれも11日の中央スタジアムでの開会式とそれに続く各競技を1日がかりで観戦した。

 とくにモンゴル相撲は珍しいもので、中央では全国から選ばれた512人の選手が、土俵も何もない草原で相手を倒すまで、場合によっては1試合で何時間もかかる過酷な勝負をして、2日間かけて勝ち残っていく。土俵なしで相手の背中を地面につけるまで闘うというのは、朝鮮の相撲と似ているのだそうで、やはりモンゴル〜朝鮮〜日本という文化的脈絡があるのだろうか。

 そう言えば、言葉でも、主語・目的語・述語という文法構成はこの3カ国にのみ共通していて、中国にはないものである。

 オペラ鑑賞の合間には、市内のお寺や博物館めぐり、カシミアなどのショッピング、民族歌舞団とサーカス団の鑑賞、夜な夜なのディスコ進出、そして最後は車で1時間ほどの郊外にある大草原の景勝地=テレルジのゲル村一泊と草原乗馬・ラフティング(ゴムボートでの川下り)など、濃密すぎるほどのメニューを、最高齢85歳の渡辺俊男博士(余暇開発センター専務理事)まで含めてみなさん元気にこなして、多くの方々が別れ際に私たち幹事の手を握って「今までこんなに楽しい旅はなかった。来年また是非誘って下さい」と言って下さるような、まことに思い出深い旅となった。[INSIDER No.433/99年8月1日号より]◆