最新情報の旧いファイル1(97年2月〜00年2月)

「インサイダー」創始者の大ジャーナリスト・山田昭さんが亡くなった!

 インサイダーの創始者であり、第1期(75〜79年)の発行人兼編集長で、私の生涯を通じて唯一「師匠」と呼べる人だった山田昭さんが2月12日朝、自宅で亡くなりました。73歳でした。

 学生運動に明け暮れていた私が1968年、ようやく2年遅れで大学を卒業できることになって、ジャーナリストの道を志してはいたものの、我々如きがマスコミ大企業に就職できる訳もないご時世で、伝を辿って門を叩いたの
が左翼系の国際通信社「ジャパン・プレス・サービス(JPS)」でした。JPSは1950年代に共同通信社をレッドパージされた大記者たちが中心になって創った梁山泊のようなところで、共産党中央に直属する組織でありながらも、
旧き良き時代の自立自尊の記者精神を大事にしている30人ほどの集団でした。山田さんはその内信部長として国内のニュースを英語で諸外国(といってもベトナム,北朝鮮,キューバ,東欧など社会主義圏の通信社が主な契約
先でしたが)に配信する仕事を統括する一方、外では「川端治」の筆名で共産党系メディアに毎月のように登場し鋭利な情勢分析を繰り出していて、とりわけ若い活動家の間では「上田耕一郎よりずっとシャープだよね」と人気
の的となっていました。その山田さんの下で私の記者修業が始まったのでした。

 山田さんはとても厳しいデスクで、最初の頃は私が苦心惨憺して書いた原稿を一目見るなりゴミ箱に捨てて自分
で書き始める。後になって恐る恐る訊ねると「ニュースなんだからWhat's newをいつも考えなくては。君の原稿は『昨日ベトナム戦争に反対するこれこれの集会が開かれた。最初に主催者代表のAさんが挨拶し、次に来賓のBさんがこう言い、さらに市民活動家のCさんがこう述べた……』という調子で、これじゃあ小学生の作文だ。集会なんか毎日どこかで開かれている。AさんやBさんの挨拶は決まり文句ばっかりだ。Cさんの発言だけが新しい問題提起を含んでいた。それだったら『昨日の集会で一市民活動家がこういう問題提起をして参会者の間に波紋を呼び起こした』というところから書き出さなくては誰も読んでくれないよ」と諭されて、そんなことを繰り返す中で“文章を書くとはどういうことか”の基本を身体で覚えていったのです。

 69年ともなると、師匠のご指導宜しきを得て私もいっぱしの政治・軍事ジャーナリストで、「香月徹」の筆名で『赤旗』や『前衛』その他の共産党系メディアで書きまくるようになりました。「川端論文」や「香月論文」は若
い活動家にもてはやされ、その2人が主に執筆するJPSの週刊ニュースレターの日本語版は引っ張りだことなりました。もちろん私たちは慎重に言葉や表現を選んでいましたが,ベトナム戦後に向かう世界構造の分析や沖縄返還問題の捉え方で党中央とかなり違いがあるのは半ば公然の事実でしたし、また運動論をめぐっても、当時、不破哲三の“人民的議会主義”路線による選挙重視に傾斜していく党中央に対して、私たちは労働・学生運動など大衆運動重視の立場をとり、私的な場ではそのようなことを談論風発していました。やがて代々木は、川端治は上田・不破兄弟と学生時代からの仲間であり、すでに“偉すぎる”存在であったのでおいそれと手を出せないと考えたのでし
ょう、直弟子の私の論文を『赤旗』の論壇時評などで執拗に批判し始めます。それは危険な兆候でした。果たして72年、党中央のひからびた文書よりも川端・香月論文のほうが若手に人気があるという状況に我慢できなくなった
代々木は「川端・香月らを理論的指導者として、民青・全学連の内部に親北朝鮮の左翼日和見主義的反党分子の一大グループが密かに結成されている」との珍妙な想定のもと、私らを含む全国約600人の活動家・知識人を連行・
拉致し監禁して査問にかけるという愚挙に出ます。その全体像は当時民青の大指導者だった川上徹さんの『査問』(筑摩書房)に譲りますが、そんなことで山田さんと私はJPSから叩き出されて路頭に迷うことになるのです。

 私は取り敢えず友人の伝で広告・編集企画会社に入り、修羅場の中で鍛えた文章力をコピーライター稼業に生かすという安易な避難策を選びますが、山田さんはフリーの評論家として「山川暁夫」の筆名で論文を書き始め、「何だか凄い人が現れた」という感じで、彼の周りに週刊誌の編集者や大新聞の記者などが集まるようになります。そして75年夏、私がもう稼業に飽き飽きしていた頃、山田さんから「かつてのJPSニュースレターを発展させたも
のを創刊したい」というお話があり、私は一も二もなく賛成し、すぐに退社の手続きをして失業保険を貰いながら創刊準備に取り組みました。当時、赤坂の裏通りにあった畳の事務所で山田さんと2人で本誌第1号を200部ほど
封筒に詰めてホッチキスで封をして郵便局に持っていったら、「これでは読み取り機を通らないので糊付けしてくれ」と言われて、2人でブツブツ言いながらホッチキスを1つ1つ外して糊を付けていると、見かねた局員が「糊
はこうやってまとめて塗れば早いですよ」と手伝ってくれました。今は懐かしい思い出です。

 インサイダーはそんなふうにして始まりました。その頃は私らも食うや食わずの貧乏フリー記者。編集・執筆はもちろん金繰りまで山田さんが背負い込んで大変な苦労を重ねます。79年の暮れ近く、彼が「もう疲れた。廃刊しよう」と言い出して、熱心な協力者の方々に集まって頂いて議論しました。山田さんはやはり生粋の左翼で、「こういうレターを商売的に成り立たせるために苦労するよりも、労働運動を再建しようとする若い人たちと一緒にやっていきたい」と言い、私については、すでに文芸春秋などで執筆もしていたので、フリージャーナリストとして独り立ちしていけばいいじゃないかという考えでした。しかし私は、1つの自立的メディアの実験として本誌に執着があり、協力者の方々も「無理にとは言わないが、お前がやる気があるなら続けたほうがいい」という意見が多数であったことから、その方々に出資して頂き、無一文の私も銀行から200万円を借金して最大株主となって、80年2月に(株)インサイダーを設立、第2期インサイダーがスタートしたのです。

 親から谷に突き落とされた獅子の子のような心境になった私は、それから余り師匠のほうを振り返らないようにして生きてきたので、お会いする機会も少なくなってしまいましたが、時折人伝に「高野にもうちょっとしっかり
するように言っておいてくれ」とメッセージが届くのが嬉しかったです。奥様の言葉のように「好きなことだけやって、70歳を過ぎたらアッサリと死ぬ」というのは私にとっても理想です。山田さんの天寿に達するまで残り18年。私も師匠に見習って、ますます好きなことだけやりたいと思います.←2000年2月15日

「六本木男声合唱団」を結成した!

 9月に行われた「エイズ支援コンサート」で「元美少年男声合唱団」と称して浅葉克己(アートディレクター)、奥田瑛二(俳優)、柿沢弘治(元外相)、ケント・ギルバード(弁護士)、三枝成彰(作曲家)、ダニエル・カール(山形弁研究家)、鳩山由起夫(民主党代表)といった方々約30人と共に、日本のテノールの第一人者=小林一男さんの指導を得て2曲を演奏しました。参加者全員、男声合唱の魅力にけっこう填って、「六本木男声合唱団」として存続させ時々六本木の飲み屋にでも集まって練習しようということになったのはよかったのですが、何と!その話を聞きつけた横浜の某一流ホテルが「12月20日のクリスマス・ディナーショーに出演してほしい」と持ちかけてきて話がトントンと決まってしまい、一同呆然。みな忙しい人ばかりなので、10月末から本番直前まで30回近くも練習日を組んで、来られる人が入れ替わり来て10曲ほどを歌っています。しかし、9月もそうでしたが、結局、全員が顔を揃えるのは当日だけという恐ろしい計画で、それでお客さんから1人3万5000円もとるなんて……と不安が高まるばかりのこの頃です。←99年11月30日

新著『最新・世界地図の読み方』(講談社新書)をようやく脱稿、8月20日発売予定!

 17年前に日本実業出版社から出した『入門・世界地図の読み方』は、その後10年ほどにわたって版を重ねるロングセラーとなったが、冷戦崩壊による世界構造の大転換でさすがに内容が追いつかなくなり、自ずと絶版となった。これを改訂して出し直そうという話は何度もあったが、私の怠惰で実現に至らず、しかし今回は講談社新書編集部の熱心な勧めがあって、今年初めから企画に着手、ほぼすべてを書き下ろし、初校ゲラを抱えてモンゴルに行って、帰国後すぐに戻したので、8月20日には予定通り店頭に出る。私としては、この世紀末、何が終わり何が始まろうとしているのか、そのダイナミックな世界地図の変転を描きたいと思った。成功しているかどうかは分からないが、久々の書き下ろしを一冊終えて、ちょっとホッとして、それで本ページの更新をするゆとりも出てきたというわけです。←99年7月19日

モンゴルで4日連続でオペラを観て、乗馬と川下りをした!

 昨年5月の第1回モンゴル・オペラを観る旅は、わずか5人だったが、今回は50人近くになり、しかも日本のテノールの第一人者である小林一男さんはじめ、専門家も混じって賑やかな旅となった。着いた翌日曜日は、年に一度のお祭り「ナーダム」の開会式とそれに続くモンゴル相撲、弓矢競技、35キロ競馬を見てから、夜は国立オペラ劇場で観劇。月〜水曜日も、昼間はウランバートル市内観光や経済人との懇談、夜はオペラ、さらに深夜はディスコやライブハウスという濃密な日程をこなした。木曜日はバスで1時間ほどのテレルジという観光ゲル村に移動し、緑の丘陵のあちこちから突出する巨大な奇岩のあいだを馬で駆け回る乗馬トレッキングを堪能した。そこで一泊して、翌日は引き続きそこで乗馬やマウンテンバイクを楽しむ組と、近くのトゥール川をウランバートル近くまでゴムボートで下るラフティング組に分かれて、夕方に国立サーカス劇場で合流した。土曜日は、郊外の巨大な闇市ザハを見学するなど自由に過ごし夕方の便で帰国。関空からわずか4時間で、このような異次元世界を味わえるというのがすごい。←99年7月10〜17日

共同通信出身の大ジャーナリスト・斎藤茂男さんが亡くなった!

 インサイダーの創刊以来の支援者であった斎藤茂男さんが亡くなり、青山の日本青年館で偲ぶ会が行われた。夜の懇親会でマイクの番が回ってきたので、若い頃に斎藤さんからジャーナリストの心得を授けられた話をした。←99年7月4日

「プロジェクト猪」5周年で講演した!

 5年前に結成され、後に『全共闘白書』などを出版して話題になった、その世代の元気なオジサン・オバサンたちの会である「プロジェクト猪」の総会で講演した。中高年もリストラで大変といった辛気くさい話が多かったので、「ウダウダ言っているより、みんな東京を捨てて農業でもやったらどうか」というようなことを言った。←99年6月26日

湯田中温泉で竹篭編みに挑戦し、筍鍋を味わった!

 今年1月に長野県の志賀高原の麓にある湯田中温泉一帯の商工会の新春講演会に呼ばれていった時に、須賀川地区の竹細工組合のリーダーである田中久夫さんと知り合い、「一度、仲間と一緒に竹篭編みを習いに来たい」と言ったら、「それなら根曲竹の筍が出る5月末か6月初めに来なさい」というありがたいお話。鴨川に行っている仲間や、事務所の近所の居酒屋の亭主など10人ほどで出かけた。長野駅から旅館差し回しのバスでまず小布施に行って、葛飾北斎の足跡を訪ね、須賀川で「予約を受けてから粉を引き始める」というこだわりの蕎麦を堪能したあと、1時半に師匠の田中さん宅に到着。「竹とは何か」という講義から始まって、竹ひごを作るときの鉈使いもちょっとだけ体験して(難しいということだけ分かった!)、夕方までかかって各自、六つ目編みの小品を作った。夜は温泉と宴会。翌朝は車で1000メートルほど上まで行って筍を狩り、渓流の水で鍋を湧かして、どういうわけかこの地方で伝統となっている鯖の水煮の缶詰と一緒に煮る。う、うまい!←99年5月29〜30日

鴨川の千枚田で一反歩を田植えした!

 鴨川市の山中の大田代集落で、地元の方から一反歩の田んぼを借りて(今時珍しく)手植えで田植えをした。20人ほどで横一列に並んで、自分の前の3メートルほどを責任範囲として進んでいくのだが、最初のうちはなかなかテンポが合わず、しかも、横に目印の糸を張っているのに列がきれいに揃わない。ようやく少し慣れてきた頃には、今度は腰が痛くて、重い粘土質の床に足を取られて泥濘に転ぶ奴が出てきたりして、まあ、なかなか大変。土曜日の昼過ぎから3時間あまりやって、約4分の1を残してその日は作業を終了した。翌日は朝から1時間ほどで残りを仕上げ、それから森の中の畑に行って、さつまいも畑作りに取り組んだ。どちらも9月には収穫できる。←99年5月8〜9日

帯広の牧場にログハウスを共有するための会員募集を始めた!

 帯広の牧場内に自分たちのログハウスを共有して、好きなときに遊びに行けるようにしようということで、まず第1期として1口=10万円を30口募集して、既存の小屋の買い取り、改築、その他の経費を捻出することになった。「十勝自然王国」ホームページを高野が手作りして、インターネットのない人にはそのコピーを郵送し始めたところ、たちまち集まって、もうじき第1期は満員になる。←99年4月3日

久しぶりにトロンの坂村健=東大教授の話を聞いて面白かった!

 3月26日に開かれたCSKの大川功会長主催のフォーラムで、久しぶりにトロンの提唱者である坂村健=東大教授のコンピューターの未来についての話を聞いて面白かった。米国では「PC(すなわちMicroSoft)の終わり」が盛んに論じられていて、MS社が何でもかんでもPCに吸収してしまおうとしているのとは反対に、世の中の流れは、従来のPCの機能が家電はじめいろいろな物の中に入ってしまって、多くの人々はそれがPCの機能であると気がつかずにごく簡単に使うことが出来るようになる方向に向かっているとのこと。トロンPCの最新のヴァージョンの紹介もあり、今度PCを持って坂村研究室に行って、WindowsとTronの2つのOSを切り替えて使えるようインストールしてもらう約束をした。おみやげに、坂村さんが1980年以来、未来のコンピューターを目指して実験的にデザインしたPCはじめ機器や建築物や展示会場などすべての作品の写真集「TRON DESIGN 1980-1999」を貰った。←99年3月28日

福井県知事選の全候補の政策討論会の司会をやった!

 東京以外で唯一マトモな選挙となっている福井県知事選で、市民たちが仕掛けた全候補が一堂に会しての政策討論会が3月20日開かれ、高野が司会役として呼ばれて加わった。参加者たちの感想アンケートでは、圧倒的多数がこの内容を「投票の判断材料にしたい」「こういう討論をもっと積極的にやってほしい」という意見だった。当初は、この模様を地元テレビがノーカットで録画し放送する予定だったが、現職知事サイドの圧力で突然中止になった。現職は自民・民主・社民の相乗りで、それに対して前自由党代議士、元外務官僚の若手無党派2人と共産党が挑戦して、原発問題はじめ開発か環境かを主な論点としてなかなかまじめな論争が展開されている。現職は、それより前に地元新聞で行われた4候補座談会で「ヤミ出張」問題の責任を他候補から追及されたのに腹を立てて、テレビ放送を妨害するなど権力乱用している。←99年3月28日

厳寒の北海道で1週間過ごしてたくさんのことを学んだ!

 仕事半分、遊び半分で2月8日から15日まで丸1週間を玄関の北海道で過ごした。士別市、旭川市、そして帯広市でたくさんの方々と出会って、とても面白かったので、『インサイダー』2月15日号で2ページを割いてその要点を紹介した。←99年2月18日

防衛論議の基本が定まっていないことにイライラした!

 29日の「朝まで生TV」の「北朝鮮脅威論」に久々出演し、また翌々日の「サンデー・プロジェクト」では自由党=小沢一郎vs民主党=菅直人の防衛論争に加わった。両方を通じて、まだ日本の防衛論議はベースがしっかりと定まっていないところでいきなり些末なディテールに入り込んで行方を見失っているという印象を持った。それで『東京万華鏡』および『インサイダー』で、日本の防衛論議は倒錯しているという趣旨の論評を書いた。←99年2月1日

渋谷パルコのカルチャーセンターで「情報術」を語った!

 渋谷パルコのカルチャーセンターで1月30日、1回だけの「情報術」講座を開いた。遠く地方から聞きに来てくれた人たちがいたり、思いもかけぬ旧友が顔を出してくれたりして楽しかったが、全体で30数名で、主催者が考えたほどは集まらなかった。責任者のお話では、何といってもカルチャー族の主力は若いOLで、フラメンコ、ベリーダンス、サルサなどの踊り系が人気なのだそうで、“知的”な講座はいつも苦戦だという。←99年1月30日

東京事務所を移転した!

 (株)インサイダーと(株)ウェブキャスターはこれまで、麻布十番に分不相応の大きな事務所を構えていたが、1月下旬にその4軒隣のスペースで2分の1「、家賃で4分の1のエレベーターのないビルに移転した。これは「東京事務所」で、本社は登記上、房総半島=安房鴨川に近々移転する。←99年1月25日

後楽園ドームで「3大テノール」を聴いた!

 1月9日に後楽園ドームで行われた「3大テノール」2回目の日本公演を聴いた。3人の中ではやっぱりパヴァロッティが迫力があった――tp感想を述べたら、オペラに詳しい玉木正之からは、「声は衰えなくても、リズム感と体力の衰え は否めない、といった感じに思われました。 「カルーソー」という歌の時に、6小節ほど出遅れて、 バックが合わせるのに四苦八苦したのを、ごまかしたり、 舌の回らなくなったところを(入れ歯か差し歯が、 ダイエットの生で合わなくなったのでしょうか?) 笑顔でごまかすところなど、さすがといえば、さすが」とメールが届いた。世界的な巨匠とされるピアニストが来日してモーツァルトのコンチェルトを弾いているときに、途中からベートーベンになってしまって、しかし指揮者もオーケストラも本人も動ずることなく、またモーツァルトに戻って平然と弾き終えたので、よほど詳しい人以外はまるで気が付かなかったという話もありますからね。←99年1月10日

Jリーグ“危機”問題で川淵擁護キャンペーンを展開した!

 横浜フリューゲルスの経営破綻や川崎ベルディからの読売新聞社撤退などで「Jリーグ危機説」が喧伝される中、そうじゃない!川淵三郎チェアマンの「地域に根ざした市民主体のスポーツ」という理念が正しくて、読売=ナベツネの「利益目当ての企業スポーツ」という無理念が間違っているというキャンペーンを展開した。『インサイダー』11月15日号に、「川淵でなくナベツネの危機」という論評を掲げる一方、『東京万華鏡』でも、全く意見を同じくするスポーツ評論家・作家の玉木正之さんにお願いして「今こそJリーグの理念を発展させよう」を執筆して貰った。これには、大半は「賛成だ」「初めてJリーグの意味を認識した」といった賛同意見がものすごい勢いで寄せられ、また川淵チェアマンご自身からも「この『インサイダー』の号を100部送ってほしいとの要請が飛び込んできた。川淵さんはそれを講演などの際に配布して「このようにJリーグ理念の理解者もいるのだ」と説いて歩いているという。←98年12月1日

「鴨川移住計画」を発表した!

 藤本敏夫さん(加藤登紀子の夫)に誘われて、彼の住居がある千葉県安房鴨川の里山に何度か行ってすっかり気に入ってしまい、六本木のオフィスをそこに移転することを決意し、その旨を個人ホームページおよびINSIDER誌上で発表した。詳しくは「鴨川自然王国」公式ホームページを。←98年11月1日

在ロサンゼルスの『Bridge USA』に寄稿した!

 ロサンゼルスで女性編集者の集団が発行している『Bridge USA』という日本語月刊誌があって、なかなか面白くて私は前々から支援しているのですが、その10月号の「本」の特集に原稿を書くよう頼まれたので、海外旅行の際の書店巡り体験について短いエッセイを書きました。←98年10月15日

■めぐり合いの喜び(Bridge USA 11月号)

 世界のあちこちを旅することの多い私にとって、時間を見つけては街をブラブラしてセンスのいい本屋さんを探すのは、大きな楽しみのひとつである。私自身に『世界地図の読み方』(日本実業出版社、1982年)という名著(?)があることもあって、各国の複雑な事情や長い歴史の流れを上手に図化した地図帳、事典、図鑑のたぐいを見ると、すぐに手を出してしまう。

 ついこの6月にはロサンゼルスのダウンタウンで大きな新刊本屋とひなびた古本屋を回って、帰りがけにホテルの近くで小さな法律書の専門店を発見してウィンドウを覗くと『マフィア・エンサイクロペディア』という本があったので、思わず買ってしまった。フランク・シナトラがいかにマフィアと親密かというようなことが綿々と書いてあって面白かった。

 その前、5月の連休にモンゴルの首都ウランバートルに行った時には、博物館のショップで『モンゴルの建築』『モンゴルの美術』という英語版の豪華写真集を見つけたのが収穫だった。しかし写真の出来も解説のていねいさも、2年前にワシントンDCのナショナル・ジオグラフィー協会で見た「モンゴリア/チンギス・ハーンの遺産」展覧会の分厚い目録のほうが優れていた。この展覧会と目録はサンフランシスコのアジア美術館が企画・制作したもので、私はこれだけ充実したモンゴル文化の紹介を他で見たことがない。この8月から11月まで、大阪の国立民族学博物館が大がかりな「大モンゴル展」を開催していて、これがどのくらいの中身のものか、行くのを楽しみにしている。

 ニューヨークやワシントンDCに行くと、ランド・マクナリーという地図出版社のショップやその他にも地図専門店があり、いろいろ珍しい地図や地図帳がある。ウィートクロフトの『革命の世界地図』、L・フリードマンの『世界戦略アトラス』、M・ドクリルの『20世紀の世界史アトラス』、M・ギルバートの『ロシア史アトラス』などはふだんの仕事でも多いに役立っている。

 パリの本屋で手に入れたR・ブースターニ他の『アラブ世界アトラス』、F・ロビンソンの『イスラムのアトラス』は、フランス語に強くない私でも図版を見ているだけでいろいろイメージが湧いてくる。ベルリンの壁の崩壊を取材しに東ベルリンに行ったときには、大きな本屋の片隅に『中南欧の社会主義諸国地図帳』が1冊だけ、打ち捨てられたように置いてあるのを買った。旧東欧8カ国の地図と国旗を表紙にデザインしたその本は、そのほとんどがすでに崩壊に向かっている中で、ただひとり過去の栄光にしがみつこうとしているかのようで悲しかった。

 私は、旅の主要な目的のひとつは本に出逢うことだと思っている。インターネット上でAmazon.comのような巨大ヴァーチャル書店も現れて、何か目的がはっきりしている場合に本を検索するにはずいぶん便利になったが、だからと言って、ほこり臭いような本屋の棚のあいだをうろうろ歩き回って思いもしなかったタイトルやデザインの本に出逢う楽しみは消えることはないのではないか。

三重県志摩町の若手経営者たちを挑発した!

 年に100回ほども地方の講演に歩く私ですが、各地で頑張っている中小企業の経営者や地域振興を模索している若い人たちに出会うのが大きな楽しみです。先日は三重県志摩町およびその周辺のいくつかの町の商工会婦人部の集まりに行った折に、同地で「志摩地域高度情報化推進協議会」を組織している青年経営者の方々と交流する機会があり、私は、月尾嘉男東大教授が推進し私も参加している「四万十僻村塾」「釧路湿原塾」、私自身がやっている「十勝渓流塾」「鴨川自然王国」などの事例を紹介しつつ、「志摩海賊塾」や「黒潮ネットワーク」といった展開をしたらどうかと大いに挑発したのでした。←98年10月8日

モンゴル人留学生のための「塾」を始めた!

 茶道具商が本業でありながらモンゴルに入れ込んで、現地にパン工場を建てたり、在日モンゴル人留学生の支援をしたり、両国の交流に尽くしている本田泰士さんという篤志家がいて、その方の呼びかけで駐日モンゴル大使館も協力して、日本で勉強しているモンゴル人学生のための「高野塾」が開かれることになり、9月19日にその第1回を行いました。初回は、「ユーラシア史の中での日本とモンゴル」と題して私のモンゴルへの関心の所在についてお話をし、特に岡田英弘さんの『世界史の誕生』(筑摩書房)の、ジンギスハーンによって始めて“世界史”というものが誕生したのだという視点の重要性を強調しました。その話は彼らにとってなかなか刺激的だったようで、それもそのはず、彼らは旧ソ連の支配下でジンギスハーンをタブー視する歴史教科書で学校教育された世代なのです。独立と民主化を果たした今も、まだモンゴル自身の立場に立ったまともな歴史教科書は作られていないらしく、私は「君たちが日本の専門家の力も借りて、本当の歴史を語る教科書を作ったらどうか」と提案しました。←98年9月19日

40歳以上の「敬老ラグビー大会」に出場した!

 我が草ラグビーチーム「ピンク・エレファンツ」は、今年15周年を迎えて、今や若い人たちが中心のチームですが、初代キャプテンの鬼木真人(現月刊プレイボーイ編集長)、2代目キャプテンの私、その他、何代目だったか忘れましたが、坂本隆(週刊ポスト編集長)、竹内明彦(SAPIO編集長)といった年寄りクラスを大事にしてくれて、年1回「敬老の日」に某銀行のフカフカ芝生のグランドを借りて、他のチームを招待して「オーバー40ラグビー大会」を開催します。今年も15日に埼玉の富士銀行グランドで100人近くが参加して盛大に行われ、私もヨタヨタと1試合に出場しました。←98年9月15日

エイズ支援のコンサートでシベリウスの「フィンランディア」を指揮してしまった!

 9月11日に行われた今年で6回目になるエイズ支援のチャリティー・イベ ント「ファッション交響楽」でオーケストラを指揮してシベリウスの「フィン ランディア」を演奏するという無謀に挑みました.

 この曲は19世紀末のフィンランドでロシアの圧政に抵抗する運動が広がる中 で,シベリウスが愛国的な歴史劇に音楽を付け,その中の「フィンランドの目 覚め」という部分が後に独立して演奏されるようになったもの.自然をこよな く愛するフィンランドの人々が,大地や海や森から湧き上がる“気”の力を束 ねながら民族的覚醒へと向かう姿を表した(と私が勝手に理解している)名曲 です.

 この曲が子どもの時から好きで,特に冒頭のブラスの響きは,中学3年の時 に独学でトランペットを吹き始め,やがて高校に入って吹奏楽部に加わるきっ かけの1つとなりました.高校2年ではサックスを吹き,3年になってキャプ テン兼指揮者をやったので,このファッション交響楽の第2回でサックスを吹 いたのが34年ぶり,今回の指揮が37年ぶりという,まあ,いずれ劣らぬ冷や汗 ものでした.竹村健一さんはピアノ演奏とタンゴの踊り,羽田孜さんと鳩山由 紀夫夫妻はそれぞれモーツァルトの歌曲,川島なお美さんはワーグナーの「ロー エングリン」の指揮など多彩でしたが,何と言っても壮絶だったのは浅葉克己 さんが毛臑を剃り胸に矢を突き立てて踊った「白鳥の湖」のバレエでした.←98年9月 11日

乗馬を始めて1年、ますます填り込んでいる!

 この夏は、8月上旬に山梨の山中に馬を連れてキャンプに行き、7月中旬と8月下旬にはまた帯広で長距離の野外乗馬トレッキングを行い、9月中旬には札幌に行って半日時間が空いたので雨中の石狩海岸の海岸や丘の藪道を疾走する2時間のトレッキングに挑戦し……と、相変わらず野外騎乗に凝っています。昨年8月末に帯広でホーストレッキング大会を観戦してすっかり填って、国立(くにたち)の野外志向の乗馬クラブに行き始めてちょうど1年。普通、45分ないし1時間の練習を1単位として「1鞍(ひとくら)」と数え、100鞍を乗ると一応、初心者段階を卒業すると言われていますが、ちょうどそのくらいに達していよいよ病膏肓というところです。←98年8月31日

東京FMの毎週朝火曜日にコメンテイターとして出演することに!

 参院選当日の夜中に東京FMの特番に出演したことがきっかけで、毎朝やっている「モーニングフリーウェイ/トヨタなんでもカウントダウン」の毎週火曜日7時過ぎのコーナーにコメンテイターとして電話出演しています。また同局が月1回、若者向けの政治討論の特番を作ることになり、それにも協力することになりました。特番の第1回はゲストに与謝野馨通産相を招いて「会社が変わる」というタイトルで企業社会の変化と政治の問題を討論し、9月13日(日)の深夜にすでに放送しました。

 東京FMの朝の情報番組は私にとって大いに懐かしいもので、80年代前半の5年間くらい続いたと思いますが、詩人で熱狂的巨人ファンの清水哲夫さんがキャスターでやっていた番組に週1回出演したのが、私が電波で初めて持ったレギュラー出演でした。そのころ現場のスタッフをやっていた団塊世代の人たちが今は局長とか偉くなって、参院選結果にちょっとハッとして、「また少し政治だ経済だというお堅いジャンルを手がけよう」という心境になったようです。

橋龍政権一挙崩壊という参院選の結果にビックリ仰天した!

 参院選の結果にはビックリ仰天。これほど誰もが予想を裏切られた選挙は前例がないのではないか。その分析についてはINSIDERをお読み下さい。この結果をもたらしたのは、何と言っても投票率が上がり、都市の若い無党派層が投票所に行って自民党以外に1票を投じたことだろう。私も、作曲家の三枝成彰や作家の石川好らが提唱した「選挙に行こう勢」運動に賛同してキャンペーン行動に参加した。毎日新聞がその賛同人を連日紙面に登場させて、それぞれなりの「投票に行こう」という呼びかけをて展開したのは立派で、私も7月10日付で番が回ってきたので「生きる条件を整えるための1票を」と題したコメントを出した(下記参照)。さらに、スカイパーフェクTVの「国会チャネル」でもそのメンバーを呼んで毎日トーク番組を放映、私も8日の20時から約1時間、毎日新聞にしゃべったのと同じ趣旨を詳しく論じた。←98年7月15日

■980710毎日新聞

◆投票に行こう◆ 生きる条件を整えるための1票を ジャーナリスト 高野孟さん

 選挙戦が盛り上がりを欠く一因として、候補者の手足をがんじがらめに縛り、1世紀前のような原始的メディアしか認めていない、今の公職選挙法の問題があると忠う。インターネットの時代というのに、候榊者は街宣車とスピーカー、選挙公報、チラシ、それといかにも堅苦しい感じのテレビ・ラジオの政見放送ぐらいしか使えない。大半の有権者は、候補者の訴えを生で聞き、肌で感じることのないまま、1票を投じる羽目になる。

 が、もっと大切なのは、政策をめぐる政党の党首や、候補同士のディベートではないだろうか。特定の組織票の庇纏を受け、内向きの選挙戦だけで赤じゅうたんを踏む議員が増えれば、政治の場からパワーと熱気が日ごとにうせていくのも当然であろう。立会演説会などで、激しい論争をやれば、国民は必ず政治に目を向けるし、候補者の化けの皮は自ずとはげてくるものである。

 その意味で、福岡のRKB放送が、一ディレクターの努力によって、候補予定者の討論番組を3週間連続で実現させたのは、画期的なことだったと思う。

 大阪・寝犀川市の主婦の方からは「参院選の投票に行きましょう」と呼び掛けた手作りのチラシを送って頂いた。絵はお子さんが描いたものだという。  かなり多くの人々が、低投票率に危機感を持ち始めている。政沿とは、自分たちの生きる条件を整える手段である。どういう条件を選ぶか、1票はそのための貴重な意思表示である。

ロサンゼルスでマルチメディア・シンポジウムに参加した!

在ロサンゼルスの旧友=北岡和義さんが中心になって、ウェブと印刷が連動した在米日本人ビジネスマンを主なターゲットとした情報誌「GINGA」が発刊され、その記念のシンポジウムが6月30日にロスで開かれ、メイン・スピーカーとして招かれた。ロスを中心に約200人が参加して、なかなか面白かった。ロスは日照りは強烈だが湿度が低いのでさわやかで、ゴルフをしたり、街の本屋めぐりをしたり、近代美術館に行ったり、さんざん歩き回ったが苦にならなかった。7月3日に帰国して成田からそのまま名古屋入りしたら39度とかの蒸し蒸しで、ほとんど死にそうになった。←98年7月5日

六本木にモンゴル風居酒屋「白い馬」がオープンした!

六本木の交差点近く、第一勧銀の角を右に入ってすぐに、モンゴル風居酒屋「白い馬」がオープンした。モンゴル中心の旅行会社ジャパンエアチャーターが、椎名誠の映画「白い馬」の撮影地をツーリスト・ゲル(観光用のゲル村)にして日本人客を迎える一方、その宣伝も兼ねて大使館や旭鷲山らモンゴル出身力士らの協力も得て開いたもので、安くておいしいモンゴル風の料理とアルヒと呼ばれる「チンギスハーン印のウォッカが楽しめる。馬頭琴のライブ演奏もある。5月連休にモンゴルに行った5人で早速ここに集まって写真交換会を開き、次は11月20日から1週間、数十人規模で各界のオペラ好きを集めて、モンゴル・オペラを観るツァーを本格的に実施することが決まった。←98年5月26日

中国長江文明の遺跡「三星堆」展を観て頭がデングリ返った!

7月20日まで東京・世田谷美術館で開催中の「三星堆(さんせいたい)――中国5000年の謎・驚異の仮面王国」展を見た。 凄い。三星堆は長江(揚子江)の支流=鴨子河畔で発見された3000年以上も前の古代城郭都市の遺跡で、とりわけ高さ2.6メ ートルを超える奇妙な手つきの立像や、瞳が棒状に10センチほども飛び出した巨牛の頭ほどもある異様な巨大仮面などの青 銅器製品は、他に全く類例のないもので、これまで黄河流域を中心とした漢民族文明イコール中国文明と思いこんでいた世 界の常識を覆した。←98年5月20日

初めてモンゴルに行ってオペラを観、馬に乗って、完全にはまってしまった!

5月2日から丸1週間,「モンゴル・オペラを観る」といういささか奇異 な目的で、友人たちと連れだってウラン バートル を訪れた。その詳細は別項のインサイダー記事に譲るが、向こうでたくさんの人たちと知り合って、いろ いろビックリする ような体験をして9日に帰国すると、その 2日後にモンゴルのバガバンディ大統領一行が経済界 代表団も引き連れて専用 機で来日。さっそく月曜日に日蒙関係諸団体の主催で開かれた歓迎パーティに駆けつ けれ ば、そこにはつい数日前にウラン バートルで知り合ったばかりのモンゴル 人や日本人の新しい友人が何人もいて 「やあ,やあ」ということになり、大統領に 随行してきた企業トップや閣僚クラスの要人たちを2晩も夜の六本木 に連 れ出して飲み歩いたりして、結局、2週連続の “モンゴル漬け”という有様となった。インサイダーにモンゴル訪問記を書いた。またその関連の情報ページを新設した。 ←98年5月16日

諫早湾閉鎖1周年のシンポに参加して、21世紀「日本の水戦略」大結集を提唱!

諫早湾の干潟が293枚のまるでギロチンのような鉄板によって閉鎖され、ムツゴロウの大虐殺として衝撃を呼んだのが昨年4 月14日。その日を「干潟を守る日」に制定しようということで、11日には東京・代々木公園の野外ステージで「干潟を守る 日フェア」が、翌12日には現地で「いさはや干潟まつり」が開かれました。東京の催しでは、諫早干潟緊急救済本部の代表 =山下弘文さんを中心に、ピーター・バラカンさん、私の3人で1時間弱のトークを行いましたが、その中で私は「お上に お任せの公共事業を野放しにしていては、お金が無駄だというにとどまらず、人間も自然も生きられなくなっている。自分 たちのお金で自分たちの生きる環境を作っていくために政策や予算の決定権をいかに奪い返すかが、近代国家100年を経たこ の国の最大課題だ」と持論を述べつつ、来年のこの日に向けて、水の問題に関わっているあらゆる自然保護団体や市民グル ープ、労組、自治体関係者、専門家が総結集して『21世紀・日本の“水”大戦略』を打ち出す一大イベントを1年がかりで 準備したらどうか」と提案し、山下さんの賛同を得ました。←98年4月14日

「諸君」5月号で四半世紀前の“新日和見主義”事件について対談した!

私の個人史の中でも述べているように、私は1972年に日本共産党から放っぽり出された。それは“新日和見主義”事件とい う謎に満ちた一件によるもので、その実践面での首謀者はとされたのは、代々木系全学連の再建初代委員長の川上徹さん で、理論面の主犯格とされたのが、当時ジャパン・プレス・サービスを拠点に活動していた川端治(後の山川暁夫さんとそ の直弟子の私だった。川上さんがその体験について、ようやく口を開いて、周りの人たちのことも含めて『査問』(筑摩書 房)という本を出し、その取材には私も少々協力したのだが、その本はまあまあの売れ行きで、3月初旬までに45刷1万 2000部に達した。「諸君」という雑誌の編集長がそれを読んで面白がって、川上さんと私の対談をやれというので、久しぶ りに川上さんと会って、この事件と共産党の本質について大いに語り合った。←98年3月4日

自治労沖縄プロジェクトの「21世紀・沖縄政策提言」が発表された!

自治労本部と沖縄県本部が1年前に「沖縄プロジェクト」を作り、私もメンバーに加わって調査・研究を続けてきたが、2月20日に那覇市で「21世紀にむけた沖縄政策提言──パシフィックオーシャン・クロスロード、沖縄へ」を発表した。沖縄が思い切って前に出ることで日本全体が変わるきっかけを掴みうるという発想を基礎に、全島フリーゾーン化と基地跡地利用による産業・経済の自立と雇用増大のため、沖縄に「特別自治制」を導入すべきだというもの。沖縄の人々が心情的に「独立」論に傾くのは分からないではないが現実的には現行憲法下で可能な最大限の「自治」を確立することに狙いを定めている。詳しくはINSIDER NO.401を参照。また全文は近く自治労からパンフとして刊行される。←98年2月28日

プロジェクト2010の「常時駐留なき安保」分科会の記録を刊行した!

民主党系のヴァーチャル・シンクタンクが昨年1月にスタートして、私はその分科会の1つである「常時駐留なき安保」分科会の主査として、7回の研究会を中心に1年間活動してきた。民主党が1月18日に那覇市で党大会を開くので、それまでに第1年度の活動を記録にまとめてほしいというので、私が巻頭にこの分科会が出来るに至ったいきさつと、1年間の感想のようなものを書き、各研究会の議事録や関連資料などを120ページほどのパンフにして那覇に送った。

資料としても役に立つということで好評だったようで、その後各地から「まとめて送ってほしい」という注文が寄せられているので、増刷して1冊1000円(党内は500円)で販売することにしたとのこと。ご関心ある方は民主党にお申し込みを。なお議事録や資料はその都度、プロジェクト2010のホームページで無料で公開している。←98年1月20日

『情報世界地図98』が発売された!

高野がシリーズで作っている『情報世界地図』の98年版が店頭に出た。普通の世界地図帳に、その国や地域の最近の主な出来事を簡単な年表にして刷り込んでしまい、さらに世界をよりよく理解するための特集企画や資料を添えたもので、実用的には、世界のどこか余りなじみのない場所で事件が起きたという場合に、テレビの横に置いておいてサッと開いてみるという具合に使うのが便利である。是非書店でお求め下さい。←97年12月30日

多摩川の河原をホース・トレッキングして大感動、ますます病みつきに!

12月11日、国立乗馬クラブを朝6時に出発して初めての多摩川外乗に出た。馬装(鞍や手綱を付けて支度を整えること)して馬運車で河原まで運んで馬にまたがると、あたりはまだ薄暗く、地面も枯れ葦も真っ白に凍り付いていて、鐙にかけた足先が痛いほど冷たい。その葦原をかきわけて、浅瀬を渡河して対岸を遡り始める。

時折は土手の遊歩道に出るが、ほとんどは「これが東京都なのか!」と思うようなワイルドな凍てつく原野の中で、遠くの岸に建つビルやマンションさえな見なければ大自然の中にいる気分。前にカヌーに乗ったときに川面から見る景色が岸から川を見た景色と全く違っているのに驚いたことがあったが、やはり河原からの景色と土手からのそれは質が異なっている。何より川幅がこのあたりで500メートルあるので、無闇やたらに広い。我々が勝手に貸し切りで使っている巨大自然公園という感じで、「こんなところでこんあ贅沢が出来るんだ」という感慨が腹の底から湧いてくる。8時頃になるとだいぶ朝日が射してきて足先の痛みも止まった。平原を駆け、葦原にもぐり、川を渡って向こう岸に駆け上り、夢中になって進む内に、国道16号線の橋の少し上の目的地に着く。馬を繋いで河原で流木や枯れ草を集めてたき火をして食事。私は持参のバーナーでコーヒーを煎れてみんなに振る舞った。あたりを散歩したり(シーズンなら釣りもいいだろう)昼寝したりしてのんびりして2〜3時間を過ごし、また2時間半ほどかけて帰る。先生にとっては全部が自分の庭で、いろいろな道を知っているというか、自分で切り拓いたルートがいくつもあるので、我々を飽きさせることはない。しかも前後左右に細心の注意を払って、生徒たちの安全を確保してくれる。

出発地に戻ったのが2時。またクラブまで馬を運んで、馬装を解いて体を洗ってやって厩舎に入れ、餌をやってねぎらう。それからストーブを囲んでお茶を飲みながらまたひとしきり今日の体験のあれこれに話の花が咲いた。こうやって修練をして、取り敢えず北海道で、いずれはモンゴルの高原で自由自在に乗り回したいというのが、私の98年の夢である。←97年12月30日

ラグビー「オーバー40」試合に出場。しかし骨は折らなかった!

本来は9月15日の「敬老の日」に予定されていた、我が草ラグビーチーム「ピンク・エレファンツ」主催による「40歳以上“敬老”ラグビー大会」は、雨天のため延期となり、11月2日に埼玉県岩槻市の某都市銀行の芝生フカフカのグランドに約100人が集まって開かれました。今度は快晴に恵まれた中、我々は集まりがいいので自前で1チーム、麻布学園OB会の皆さんも1チーム、その他の数チームが混成で1チームを編成、25分勝負で総当たりということになり、2試合に出ましたが、成績は不本意ながら3位でビリ。しかし、久しぶりに芝生の上で走り回り(観ていた人は歩いていると思ったらしいが)、いくつかいい場面も作って、終わってビールを飲んで、楽しい1日でした。

50歳を超えて出場したのは我がチームでは3人で、私が最年長、次が写真家のSさん、それにパイロットのEさん。健闘を讃えて、チームからピンクのパンツを贈られました。ピンクは「還暦目前」という意味で、60歳になったら真っ赤なパンツをくれるのだそうです。ありがたいことです。←97年11月3日

十勝の原野を馬で疾走して敢えなく落馬。しかし怪我はなかった!

前に報告した、帯広の牧場で自然を満喫して遊ぼうというプロジェクトは、第2回ツァーを8月30日〜9月1日に行い、31日にその牧場の主催で行われた「ホース・クロスカントリー大会」をビールとバーベキューを楽しみながら観戦して、帯広畜産大のかわいい娘さんが川を渡り森を抜け原野を駆けめぐって見事に優勝したのを見て感動したオジサン数名は、「来年はどうしてもこの大会に出たい」とウワ言を口にし、帰京後、1人は前橋の赤城山の麓で、私ともう1人は東京西郊の国立(くにたち)でアウトドア志向の安い乗馬クラブを見つけて早速入会しました。やってみると、乗馬というのは使ったことのない筋肉まで酷使する大変なスポーツだということがようやく分かったくらいの段階で、10月25日〜27日の第3回帯広訪問ツァーの機会がやってきて、3人は勇躍、外乗(がいじょう――馬場から出て外に乗りに行くこと)に初挑戦したのでした。

その日は朝から快晴でしたが、出発の11時近くになるとにわかに空が曇って、時折、細かい雪が斜めに吹きつける怪しい模様となりましたが、黄色に染まった森の木々に小雪が舞う様は美しく、軽く駆け足する(速歩=はやあしと言う)馬の背から振り落とされまいと緊張しながらも、その深遠な光景を大いに楽しんだのでした。そこまではよかったのですが、1時間余り乗ってから焚き火でコーヒーを入れて休憩後、再び馬上の人となり、林の小径を抜けて広大な原野に出たところで、先頭のインストラクターの青年は「じゃあ、少し走ります。横並びになると(馬が本能的に本気で走ってしまって)危ないので、あくまで縦1列を崩さないように」と言って、いきなりキャンター(駆歩=かけあし)で走り出すじゃあないですか。尻をポンポン跳ね上げられて振り落とされる寸前。1回目は何とか持ちこたえたのですが、2回目は何と私の馬が段々本気を出して、前の馬を追い抜こうと勝手にスピードを上げて疾走し始め、インストラクターも手を上げて止めようとしてくれるのですが、もう止まらない。もはやこれまでと、思い切って落ちて、柔道の受け身のようにして1回転して地上に下りて命拾い。幸いかすり傷ひとつなかったのですが、私が落ちたのに驚いた後続の馬が急に跳ねて、前橋のSさんが連鎖落馬して顎を切ったのはまことに申し訳ないことでした。

2人もいっぺんに落ちたので、車で駆けつけた牧場主いわく、「高野さんの乗った馬は競走馬出身だから、巧い人もよく落とされるんだ」。先に言って欲しかったなあ。

しかしこれで、若干体験済み3人はもちろん、この時初体験した某誌編集長や某紙記者などもすっかり病みつきになった次第です。牧場主は、十勝平野を使ってカヌーとモトクロスと馬の3種目によるトライアスロン大会を開きたいと言っており、私はすでに出場希望を表明しました。←97年11月1日

伊豆稲取で我がラグビーチーム「ピンク・エレファンツ」の合宿に参加!

14年前に新宿・ゴールデン街の飲み屋で冗談話から誕生した草ラグビーチームがあり、何でもアメリカ人がアル中になると桃色の象が歩いている幻覚を見るらしいということで「ピンク・エレファンツ」という名称なのですが、その恒例の夏期合宿が9月6、7両日、伊豆稲取の全電通労組の豪華温泉付きの労働学校宿舎で行われ、私も創始メンバーであり第2代キャプテンをつとめた“長老”として土曜日1日だけ参加しました。

その飲み屋は元々ジャーナリストや編集者がよく集まる店で、自ずとメンバーもその人種が多く、会長は創立以来、作家の森詠さんがつとめています。かつては若い駆け出し編集者だった鬼木真人=初代キャプテンは今や『月刊プレイボーイ』編集長、4代目の坂本隆は『SAPIO』編集長、?代目の竹内明彦は『週刊ポスト』編集長というような具合で、みんないい歳になってしまいました。

東京に何十もある草ラグビーチームの多くでは、年寄りは身体が動かないくせに口ばかりうるさくて、若い人たちから煙たがられるものですが、我がチームは敬老精神旺盛で、年に1度は「オーバー・フォーティー(40歳以上)大会」を組織して、他のチームにも呼びかけて年寄り同士の試合をメインイベントに組み、1日大いに楽しみます。

今年は9月15日(祝)がその日で、今年は山梨県のオーバー・フォーティーが20人もバスで乗り込んでくるそうで、若い人たちも含めて100人くらい集まってにぎやかになることでしょう。私は自称“不滅のNo.8”で出場しますが、ただ怪我をしないことを願うのみです。

なお「ピンク・エレファンツ」はホームページを持っていて、近ごろはそれを見てチームに加入してくる人もいます。またそのような草チームのページをリンクした「ラグビー・ネット」というサイトもあります。ご関心のある方はどうぞ。←97年9月7日

那覇でのライブハウスで喜納昌吉にTVインタビュー!

なんだかこの頃ミュージシャンづいていて、8月7日に赤坂で宇崎竜童のコンサートに行って、翌日台風直後の沖縄に飛んで自治労の政策集会で講演のあと、18時半から那覇市の国際通りにある喜納昌吉のライブハウスで、パーフェクTV「地球の声」のための2時間インタビューを収録(放送日未定)、そのあとそのまま彼の神がかりのライブを聴いて、終わったあとさらに近所のおでん屋さんで飲みました。

彼とは、去年だったか沖縄をテーマにした「朝までナマTV」で一緒になって、彼の縄文系琉球人の立場からの発言が他の出席者にはほとんど通じなかったらしい中で、私は割と何が言いたいのかよく分かって、なんとなくお互いに気脈が通じるところがあったので、楽しい2時間の対話となりました。彼は最近出した『すべての武器を楽器に』(冒険社)で、144年前に琉球と日本を大砲で脅しに来た黒船にかわって、来年に楽器を満載した「白船」を仕立てて、沖縄から日本経由でアメリカまで航海しようという飛んでもない計画を提唱し、実際にその準備を始めたので、私はそれに大いに共鳴して協力を約しました。白船計画のホームページはまだ出来たばかりですが、ご関心ある方は覗いてみて下さい。←97年8月20日

月刊プレイボーイの連載座談会で坂本龍一をゲストに迎える!

『月刊プレイボーイ』で1年ほど前から「アメリカ情報革命最前線」というタイトルで、インターネット伝道者=伊藤穣一、ハリウッド映画やデジタル・コンテンツに詳しい浜野保樹、私の3人がレギュラーで毎回誰かゲストを招いて座談会をやっています。その9月発売の号のため7月31日に赤坂プリンスホテルに坂本龍一さんを招いておしゃべりしました。ニューヨークに住んで、お母さんと自分ら夫婦と子供たちの親子3代で電子メールでコミュニケーションしているのだそうです。お母さんにはMacを買ってあげたが自分はWinsだというので「どうして?」と聞いたら「社長(CEO)のいないような会社のマシンなんて買えないよ」だと。8月7日の新聞に、Appleがついに完全にMicrosoftの軍門に下ったというニュースが載っていて、Mac派としては寂しい限りです。

『日経マルチメディア』7月号の「Webサイトの舞台裏」という連載で、高野へのインタビューに基づく取材記事「ウェブキャスター/島桂次氏の夢を受け継ぎ日本発のニュースを世界に」が載っています。また8月初旬発売の単行本『有名人のデジタル書斎術』(アスペクト社)で31人の1人として高野が取り上げられています。←97年8月7日

ロサンゼルスであの小室哲哉にロング・インタビュー!

7月4日(金)夜に香港から戻って、6日(日)に「サンデー・プロジェクト」出演後、そのまま成田からロサンゼルスへ飛びました。着くとロスはまだ日曜日の昼。1時間だけホテルで仮眠して、午後3時からマリブ海岸を見おろす小室哲哉の3億円の豪邸で3時間近いロング・インタビュー。これは今年初めからパーフェクTVの「地球の声」チャンネル向けに(株)インサイダーが制作している2時間インタビュー番組シリーズの一環で、まだ放映日は決まっていませんが8月になる模様です。

あのマードックのアジア音楽市場攻略のためのキーマンに指名された、プロデューサー/作曲家/シンセサイザー演奏家/歌手である小室に、なぜロスに住むのか?なぜアジアなのか?台北・香港・上海・バンコクで何をしようとしているのか?など、たっぷり聞きました。もっとガラス細工のような人かと思っていましたが、自分の仕事を突き放して客観的に観察しながらなかなかに野太い見通しを立てていて面白かったです。インタビューの要約は『Bart』という雑誌にも掲載します。←97年7月9日

歴史的な香港返還に立ち会う!

6月29日から7月4日まで、C-NETの田中良紹社長、静岡県立大学の大礒正美教授、作曲家の三枝成彰夫妻ら親しい勉強会仲間を中心としたグループで香港を訪れました。当初は仕事の予定はなかったのですが、6月30日深夜の街の様子や民主党の抗議集会などをテレビ朝日「サンデー・プロジェクト」用に取材し、また1日朝6時から電話で「やじうまワイド」に短い報告を送りました。

とにかく、いる間中ずっと雨で、時折雷を伴う暴風雨になる荒れ模様。累積降雨量は50年ぶりとかいう話で、各地で土砂崩れや交通途絶が起きていました。30日夕方に英国が行った「さよなら式典」もどしゃぶりで、パッテン総督もチャールズ皇太子もずぶ濡れで演説しました。我々は、ソニーの盛田夫人の招待で式典を見おろす同社の香港支社の一室で、実物を遠目に眺めながらテレビの大画面でアップ画像と音声を確かめるという最高のシチュエイションで一杯飲みながら見物し、その後行われた花火も楽しみました。「これは大英帝国の涙だ。明日カラッと晴れたら皮肉だね」などと言っていましたが、翌日もそれを上回る嵐で、「眠れるドラゴンが暴れ出したのか」という話になりました。その翌日、我々を昼食に招いてくれた香港在住50年のビジネスマンの奥さんは「英国が150年かけてばらまいた害毒を全部流すには、これくらいの雨が必要よ」とこともなげに言いました。解釈も様々な香港の雨でした。←97年7月5日

帯広の牧場で手作り地ビールとソーセージを堪能!

私が呼びかけて作った昭和19年生まれの変人たちの「一休会」というのがあって、そのメンバー数人で帯広に行きました。メンバーの1人に千葉で自然農法の農場を営んでものすごくおいしい納豆を作っている「自然王国」代表=藤本敏夫さんがいて(歌手の加藤登紀子のご主人)、その仲間の平林英明さんという人が帯広で地ビールと手作りソーセージの工場とそれをふんだんに楽しめるレストラン・バー「ランチョ・エルパソ」を市内に開いているほか、郊外に牧場を持っていて、その牧場で馬に乗ったり、釣りをしたり、畑仕事を手伝ったり、サウナに入って小川の渓流に飛び込んだり、バーベキューをしたりしようじゃないかということで、同会メンバーの藤本のほか梨元勝(芸能レポーター)、旭岡正義(東芝部長)それに私が一部家族連れで行ったのです。すっかり十勝の自然の虜になり、東京人で会員制のクラブを作って、毎月そのベルギー風の地ビールやソーセージ、山菜や特産のアスパラなどを産地直送してもらいながら、年に何回かは牧場を訪れて自然を満喫する仕組みを作ろうという話がたちまちまとまって、いま藤本さんを中心に具体策を練り始めています。←97年6月23日

久々に「朝まで生テレビ」に出演して朝鮮問題を論ず!

毎月最終金曜日の25時から4時間のテレビ朝日「朝まで生テレビ」は去る4月で丸10周年を迎えました。

昨年から、田原総一朗さんの身体の具合もあって、蜷川真夫(前AERA編集長――7月に朝日を辞めて独立するそうです)、野坂昭如(作家)、水口義朗(婦人公論編集長)などの方々に司会を回して田原さんの出番を減らすようにし、従ってまたテーマも社会ネタなど多彩になった関係で、私も以前のようにほぼ毎回出るということがなくなりました。4月の10周年記念は出る予定だったのですが、私が間違えて沖縄に行く日程を入れてしまい、やむを得ず欠席しました。

ですので、5月28日の「どーなる?北朝鮮」は久々の出演となりました。柿沢弘治=元外相、志方俊之=帝京大学教授、西岡力=現代コリア編集長などは北朝鮮警戒論で、緊急食糧援助も拉致事件や日本人妻帰国問題でサインがない限りすべきでないという立場。上田哲=前衆議院議員、関寛治=立命館大学名誉教授、吉田康彦=埼玉大学教授、石井苗子=キャスター、それに私などは緊急援助積極論でした。

朝鮮の情報が詳しいのは重村智計=毎日新聞論説委員で、司会の水口さんを助けて議論を整理する発言に説得性がありました。テリー伊藤=TVプロデューサーもユニークで面白かった。西岡さんが拉致事件が北の仕業であることを嬉々としてしゃべるのに辟易したのは私だけではなかったようです。←97年5月29日

沖縄の自立について『沖縄タイムス』からインタビューされる!

沖縄県が推進する経済自立プログラム「国際都市形成構想」について『沖縄タイムス』からインタビューされ、5月21日付同紙の連載コラム「動く国際都市――自立へのシナリオを読む」第3回として掲載されました。沖縄の自立化は単に沖縄の問題なのではなく、明治から100年を経て行き詰まった日本の中央集権システムを転換していくための試金石であること、沖縄のプログラムの中では嘉手納空軍基地の返還による21世紀の東アジアのハブ拠点空港化が最大のポイントであること、などを強調しています。←97年5月21日

日本語ホームページを開設!

2年近く前に英語でのみ個人的ホームページを開きましたが、ろくに更新もせずお叱りを受けてきました。やはり英語では更新もしんどいので、このほど日本語でホームページを開き、その英訳は他人任せとすることで改善を図ることにしました。←97年5月15日

月刊『文芸春秋』の「同級生交歓」に登場!

『文芸春秋』のグラビア「同級生交歓」のページに、高校時代のブラスバンド仲間4人で登場。3年生の時、私が主将兼指揮者、現角川書店社長の角川歴彦がマネージャー・会計、ギタリストの津田昭治がクラリネットでコンサート・マスター、ディキシーランド・ジャズの第一人者として活躍中の外山喜雄がトランペットの花形ソリストだった。←97年5月10日

産経新聞が珍しく高野の発言を引用!

産経新聞4月27日付の「斜断機」欄が、私の「やじうまワイド」での発言を肯定的に引用していました。産経が高野発言を引くのは珍しいことだ。やじうまのスタッフの間では、これを書いた記者は「朝、フジテレビを見ないでやじうまを見ているのかなあ」と話題になりました。記事全文は次の通り。

《斜断機/どうせ分からない》

 動燃のトラブルとウソが、毎日のように新聞やテレビで報じられている。日本の将来のエネルギー計面を担っているとされた動燃の原子力発電の安全神話は、ひと皮めくれぱ情報隠しど資料ねつ造の連続だったようだ。なぜ、ここまできてしまったのか。
 先日、朝のニュース番組を見ていたら、辛口の評論で知られる高野孟氏がこんな意味のことを言っていた。
「(動燃や科技庁は)われわれ一般国民にはどうせ原子力など分からないのだから、専門家にまかせておきなさいという考えなんでしょう。だから情報を公開してこなかったんでしょう」
 そのとおりだと思う。もしも原子力政策と開発にかんする詳細な情報が逐一公表されていたならぱ、こんな馬鹿な状況にまで発展しなかったかもしれない。しかし、それは建前にすぎないだろう。「もんじゅ」のナトリウム漏出や再処理工場の爆発ほどの事故でもなけれぱ、マスコミはさっぱり騒がない。とくにテレビや雑誌メディアは、電力関係のスボソサーに遠慮しているのか、お話にならない。
 われわれ庶民には、巨大組織や国家機関に情報公開を迫るほどの力はないし、その術もないのが現実である。しかし、マスメディアにはできる。にもかかわらずほとんどのメディアは、東電OLの殺人事件や厚生官僚汚職事件などになるとプライベートな部分まで調ぺ尽くすくせに、原子力の問題には踏み込まないまま今日まできた。これでは一般の人々は、原子力行政を批判するための材料さえ手にすることができない。
 オウム真理教の問題や非加熱製剤をめぐる疑惑であれほどまでに追及してきたマスコミが、原子力については調査できないはずがない。それともひょっとして、どうせ一般の人には分からないだろうと思っていたのはマスコミのほうだったのだろうか。(野)←97年4月27日

日経新聞が「島メディア」の新展開を報道!

日経新聞4月7日付が「コンテンツ制作を強化/島NHK元会長設立のSMN、社名変え再出発」と題して、島メディアの社名変更とそれに伴う新業務の展開について記事を書きました。全文は次の通り。

 NHK元会長で昨年六月に死去した島桂次氏が設立した「島メディアネットワーク」(略称SMN、東京・港、高野孟代表)は、このほど社名、株主構成を一新、再出発した。今後はインターネットを使った情報サービス会社として独自のコンテンツ(情報の内容)制作に力を入れる。新会社名は「ウェブキャスター」で、東京都港区に本社を置いた。代表は引き続き高野氏が務める。従来のSMN社員はそのまま残り、随時増員する計画。SMNの従来の資本金は二千三百万円。島氏の個人事務所「島メディア研究所」が五百万円出資しでいたが、近く高野氏が代表を務める会社、インサイダー(東京・港区)が買い取る。新たにソフト開発会社も出資し、資本金を最終的に四千万円前後まで引き上げる予定。
 ウェブキャスターはSMNが請け負っていたコンテンツやホームページ制作を続けるが、自動転送ソフト「ブローディア」を使ったた情報発信事業を進め、コンテンツを持つ出版社やミニコミ誌、著名人などとの連携を検討する。←97年4月7日


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