斎藤茂男さんのこと



                    INSIDER No.432(1999年7月15日号より

 ジャーナリストの大先輩である斎藤茂男さんが5月末に亡くなり、7月4日に日本青年館で偲ぶ会が開かれました。

 1928年生まれ、52年に共同通信社に入り、57年には菅生事件の真犯人である警官を見つけだしてスクープし、また翌58年には徳島ラジオ商殺人事件が冤罪事件であることを見抜いて取材を始め、長年かかって逆転無罪を勝ち取るまで被告と共に闘うなど、社会部記者として活躍しました。

 70年代半ばから教育、子供、家庭、労働などに目を向けた優れたルポを次々に発表、87年に同社を定年退社して以後もますます旺盛に書き続けました。その中でもとくに『妻たちの思秋期』はじめ「日本の幸福」シリーズは話題となり、新聞協会賞を受けました。それらの仕事の多くは『斎藤茂男取材ノート』全6巻(築地書館)、『ルポルタージュ・日本の情景』全12巻(岩波書店)などで窺い知ることが出来ます。

 私はまだ駆け出しのころに、40歳過ぎだった斎藤さんに面識を得て、「取材とは何か」をはじめ多くのことを教わりました。ある時は「高野君、これちょっと手伝ってくれないか」と言われて、政財界
の内幕に詳しい謎の人物と3カ月もホテルにこもって聞き書きをして、さてその膨大な素材をどう料理しようかと斎藤さんと相談している最中に、その人物が詐欺で逮捕されてしまうといった珍事もありました。

 またある時は徳島ラジオ商殺し事件に触れて私が「取材者はどこまで対象に関わるべきなのか」と尋ねたのに対し、斎藤さんはかつて中国を訪れたときに出会ったある中国人記者の話をしてくれました。その記者は、国共内戦下の上海で自ら大衆運動に身を投じて蒋介石政権と闘った経験をふまえて「記
者は運動の外に立って眺めていてはダメです。自分を渦の中に投げ込んで、渦に巻き込まれてしまうことが必要です」と語ったそうです。

 その時私は「そうか!」とひらめいて、世の中を神の高みから客観的に眺めようとするデカルト的世界観でなく、自らが世の中の一部として行動しつつ、その自分が引き起こす波紋を含めた世の中の動きをもう1人の自分が冷静に観察しているという、言わば相対性原理に立って活動することが大事なのだ
と悟り、以来それを1つの信条としてきました。

 75年に本誌が創刊されて以来、斎藤さんは一貫して熱心な協力者で、79年に第1期インサイダーが終わって80年から私が引き継ぐかどうかということになった時も、わざわざ私を喫茶店に呼び出して、

「君は1人の書き手としてやっていけば、いい仕事が出来るだろうし、そのほうが楽に決まっている。だから無理には勧めないが、もし苦労を厭わないなら是非インサイダーを高野君流のやり方で続けて欲しい。日本にこういうメディアがあることは大事なことなんだ」

 と励まされました。その斎藤さんの言葉がなければ、本誌は20年前に終わっていたかもしれません。私の記者人生にとって最も大事な人の1人を失って残念でたまりません。心からご冥福をお祈りします。

 ――というようなことを、4日の「斎藤さんの仕事を語る会」のあと夜に開かれた懇親会でマイクを渡されてお話ししたのでした。本誌のけっして短くない歴史を支えていただいた大先輩にもう一度感謝を捧げます。▲