農と言える日本・通信 No.22 2000-03-25      高野 孟

●農文協『続・定年帰農』 に原稿を書きました!

 農文協の月刊誌『現代農業』の姉妹誌として季刊で『増刊・現代農業』が刊行されているのはご存じの通りです。「定年帰農」という流行語(?)もこの雑誌が作ったもので、藤本敏夫も常々、「この雑誌は世の中の先を行っている」と感心していますが、その増刊の5月刊行予定『続・定年帰農/100万人の人生二毛作』に私が執筆を依頼され、先日、下記のような原稿を書きましたので、本通信読者には先走ってお送りしておきます。なお、この増刊には、連合の「100万人故郷帰還運動」の推進者である高橋公=連合社会政策局次長、鴨川にも来たことのある「ふるさと情報館」主宰者=佐藤彰啓さんなど本通信読者も執筆していますので、皆さん是非お買い求め下さい。
        *      *      *
 いま政府のトップからマスコミ、エコノミストの先生方まで、目を血走らせるようにして論じているのは、日本が未曾有の大不況に陥っていて、GDP(国内総生産)を一%でも上向きに転じさせることが緊急焦眉の課題であるという話である。しかし私の意見では、日本経済の現状を「不況」と捉えるのは大間違いで、かえってわれわれが直面している本当の構造問題に目を向けることを妨げる結果となっている。

 それがここでの主題ではないので、結論だけを簡単に述べるが、われわれが抱える構造問題とは、第一に、明治以来百年あまりの発展途上国型・行け行けドンドン・右肩上がりの時代が終わって、もはや経済の規模を量的に拡大することよりも、GDP5兆ドルという世界有数の成熟した富の力を国の内外でどう活かしていくかに知恵を絞って、生活を質的に充実させることに心を砕くよう、発想を転換しなくてはならない。その転換が出来ていない人たちが、年々一%か二%の成長を確保しなければ日本はおしまいだみたいなことを言っているのである。

 第二に、産業構造の面から見れば、その百年あまりのうち1930年代から70年代までを彩った、製造業の大企業・大工場が成長と雇用の推進力となるような「産業社会」は、75年に第三次産業が五割を突破した時点を転回点として終わりに向かい、ポスト産業社会──ということは情報化社会、情報・サービス社会と、呼び名はどうでもいいのだが、要するに、独創力や知恵を持つ中小企業・ローカル企業・ベンチャー企業、農家を含む自営業、さらにはNPOなど様々な主体がそれぞれに個性を発揮しつつ、しかも情報通信ネットワークでつながりあいながら、成熟社会の多様なニーズを満たすことを通じて経済の質的充実の先頭に立つような時代が訪れている。

 そこでは、かつて米国でもそうだったように、古い大企業体制から新しい領域に向かって雇用の組み替えが起こるのは当然で、その労働力の流動化の積極的な意味に目を向けることなく、「戦後最悪の失業率」だなどと悲観するばかりなのは愚の骨頂である。

 第三に、成熟時代には、ある業界や分野が丸ごと絶好調というようなことは稀で、どの業界・分野でも、時代転換の意味を悟って積極的に挑戦する勝ち組と、旧時代の発想から抜けられずに沈滞する負け組に分かれて、かなり激しい“まだら模様”が生じる。そのことは、これまでの発展途上国システムの下で、もっぱら“お上”による統制と保護に甘んじてきた分野ではとりわけ深刻で、つらい分だけ余計にお上にすがって生き延びようとする保護派と、自分の力で運命を切り開こうとする自立派が鮮やかに分かれることになる。

 保護派の悪あがき現象ばかりを拾い集めて「不況が深刻」などと描くことは無意味で、逆に、製造業でも独自の技術や物作りの知恵を武器にして卓抜の部品・生産設備・ハイテク素材などを世界に輸出して気を吐いている中堅・中小企業や、消費者と直接結びつくことで自堕落な農政を打破しようとしている農家や、介護・健康・都市・環境・食など成熟社会ならではの問題に対応して生き生きと活動するNPOといった、この状況下でも目をこらせばいくらでも見つけることの出来る“自立”の精神の体現者たちに、次の百年への手がかりを見いださなくてはならないのではないか。

 そういう中で、これから最もおもしろくなる領域の一つは農業であり、二十一世紀は再び「農業の世紀」になるだろうし、しなければならないと、私は思っている。成熟時代で生活の質的充実が大テーマになるとすると、その核心は何といっても「食」である。ところが、ひたすら成長を追い求めた行け行けドンドンの時代を通じて、食を作る人と食べる人との関係は完全に抽象化されてお互いに「顔が見えない関係」となってしまい、その間隙を縫って偽物の有機野菜とか遺伝子組み替え食品とかが不作法に食卓に進入してくるようになった。

 今では、良質の食を得るためには単に賢い消費者になるだけでは不足で、何らかの程度、「農」に関わりを持たなければならないと思う人が、驚くほどの勢いで増えている。その人々の思いの深さが、昨年の三十八年ぶりの農基法改正による「持続性の高い農業」への転換、消費者と結んで知恵のある農業を模索する「やる気」のある農業経営者の台頭、都会人の定年帰農や田舎暮らし志向の広がりなど、「農」へ向かう大きな社会的な流れを突き動かしているのではないだろうか。

 中高年リストラで失業者が増え、新卒者の就職もままならない状態は、旧来の産業社会の物差しで計れば悲観論の材料だが、やる気のある中小企業や農家からすれば、いい人材を獲得する絶好のチャンスである。まだ多くの人々は、過去の価値観に囚われている上、「不況」論のイデオロギーで目を曇らされているので、踏ん切りがつかないでいるが、リストラされたサラリーマンが田園に移り住んで農業に取り組み始めたり、新卒者がインターネット上で「大卒募集」をかけた農園に全国からドッと押しかけたりするといった例はこれから増えるだろう。それを、苦し紛れの都会生活からの脱落と見るのでなく、新しい仕事と雇用のフロンティアに向かって人材が適切にシフトしていく一つの形として、積極的に評価することが必要である。

 行政も、「失業対策」や「ベンチャー育成」に多大の予算を費やしているものの、それをただの不況対策と位置づけているから焦点が定まらず、効果が上がらないのであって、「二十一世紀を農業の世紀に」という展望に立って、やる気のある農業者を励ます農業ベンチャー育成の制度、農業に若い人材を送り込むための養成プログラム、中高年の田舎暮らしを促すための情報提供や再教育・職業訓練のシステム、高齢者を農村に受け入れる「農芸介助センター」などのモデル作り等々、これまで百年の「農村から都市へ」の流れを逆流させる省庁横断的な総合的な施策を打ち出すべきではないか。

 妙な子供が増えて「教育改革」の必要が叫ばれているが、これもその中に取り込んで、小さい頃から土に触れて食と農の大切さを知り、山や森や海や川で自由闊達に遊ぶことを通じて自然の恵みに対する感受性を養うことを教育の基本の一つに据えれば、おそらくたいていの問題は片づくのではあるまいか。そうすれば、彼らの中から将来、農業を担う優れた人材もたくさん現れるに違いない。

 さて、以上のような趣旨は、私がこの四〜五年来、「二十一世紀・日本の展望」などと題した講演を頼まれるとしゃべって歩いていることだが、口先で言っているだけではどうも説得力に乏しいということもあって、私は私なりの「エセ(?)田舎暮らし」を始めている。

 きっかけは、同年生まれの友人である藤本敏夫に促されて、彼が十五、六年前から居を定めている千葉県南房総・鴨川市の山中にある農事組合法人「鴨川自然王国」を数年前に訪れて、美しい棚田に囲まれた昔ながらの里山の景観に「東京から車でわずか一時間半のところにこんな“日本”が残っていたのか」と、すっかり惚れ込んでしまったことである。

 しかし一方でその村は、ご多聞にもれずはなはだしく過疎化が進んでいて、荒れたまま放置された農地や、人の手が入ることがなく真っ暗になった杉林が無惨な姿を晒してもいた。そこで私やその仲間の労組幹部、雑誌編集者、フリーライター、飲み屋の亭主、主婦といった雑多な仲間たちが、暇をみつけてはそこへ行って、農家の指導を得て田畑の仕事を手伝ったり、農業試験場に勤める樹木医を先生に森林伐採に取り組んだりして汗を流し、夜は近在の人々も交えて大宴会──という農林作業ボランティア活動を始めた。

 昨年からは、三月から十一月まで毎月一度、一泊二日で年間日程を組んで、仲間がさらに周りに呼びかけたり、私が自分のホームページで公募したりしたこともあって、多いときには子供連れの家族も含めて三十人以上が集まって、田植えや芋作り、森林作業やツリーハウス建設だけでなく、夏祭りに参加して担ぎ手の少なくなった御神輿を担いだり、近在の陶芸家の工房で陶芸体験教室を開いたり、さらには棚田で出来る無農薬・低農薬の長狭米コシヒカリの頒布会を組織したりして、次第に村の中に溶け込むようになった。今年からは「棚田トラスト」「大豆畑トラスト」が始まり、またかつてここで活動していた「炭焼少年団」も復活したので、もっとたくさんの人たちが集まるようになるだろう。

 他方、その鴨川での活動の中心メンバーは、これも藤本の友人で北海道帯広市でユニークな食と農に関わる仕事を展開している平林英明夫妻と知り合って、年に何度か彼らのもとを訪れるようになった。彼は手作りハム・ソーセージと地ビールを手がけていて、それを味わうことの出来るレストラン「ランチョ・エルパソ」を開いているのだが、さらにすばらしいのはそこから車で三十分ほどの日高山麓にある彼の自宅兼牧場「リバティ・ファーム」である。

 開拓地の小学校の廃校跡である木造の自宅の前には馬場があり、その裏を下っていくと広大な馬の放牧場があり、その先の白樺林を抜けると川があって、岸辺には薪で焚くサウナ小屋がある。ビールを飲みながらソーセージを焼いてサウナに入り、夏なら目の前の川にすっぽんぽんで飛び込み、冬なら雪に身を晒す。これまたいっぺんで気に入ってしまったわれわれは、その敷地内の使われていなかったログハウスを共同で買い取って改造してクラブハウスにし、そこに「十勝自然王国」を建国した。こちらも年間日程を立てて年に四回ほど訪れて、原野山林での乗馬トレッキングや川遊び、冬はスノーモービルを楽しみ、また時には牧場の作業や近隣の牧場の農作業を手伝ったりしている。

 そういう中で、藤本はじめ仲間たちと語り合ってきたことは、「二十一世紀、日本人はすべからく“農的生活”を実践すべきである」ということである。もちろん、人によって条件は様々だから、形や程度は各人各様でいい。例えば私のような職業だと、東京を完全に引き払ってしまうことはなかなかむずかしい。とはいえ、その東京での過密な仕事の疲れやストレスを、たまの旅行やレジャーで一過性的に解消するという従来型のパターンではなく、鴨川や十勝やその他どこかに「半定住地」があって、そこに自分たちの自由になる空間があり、地元の人々とも親戚づきあいが出来て単なるお客さんとして行くのでない関係が成り立つのであれば、何も東京を唯一絶対の住処とする必要はない。インターネットの便利さの力も借りて、東京と鴨川と十勝を必要と気分に従って自由に行き来しながら仕事と遊びの見境のない暮らしぶりを作ることが出来るのではないか、と。

 もちろんそれは、それぞれの現地で足を踏ん張っている人たちから見れば、都会人の半端な趣味の域を出ないそれこそ「エセ田園生活」と映るだろうことは百も承知である。しかし私はそのようにして、今の条件の許す範囲で自分自身の“農的生活”を始め、それなりの覚悟であることを自分自身や周辺に言い聞かせるために、すでに事務所の本拠も登記上、鴨川山中の過疎村に移転した。数年中には、横浜の家も捨てて自宅もそこに移すことになるだろう。それが私の二十一世紀の迎え方であり、そのささやかな行いのうちに実は「日本が変わる」芽が潜んでいると密かに自負しているのである。▲