農と言える日本・通信 No.48  2001-03-02      高野 孟

●阿蘇の野焼きと草原乗馬!

 阿蘇の大草原を守ってきた平安時代から1000年に及ぶ“野焼き”の伝統を継承するため、3月11日に熊本県はじめ福岡あたりからも含めて約700人のボランティアが熊本県阿蘇郡小国町の瀬の本高原に集合して牧野に火を放ちます。

 また翌12日には、野焼きのための防火帯づくり(輪地切りと言って、事前に数百キロにわたって10メートル幅で草を刈る大変な作業──これをやるだけの力が地元の牧野組合に残っていない)に関連して、その輪地に日常から家畜を放牧したり、道産子を導入して馬のトレッキング・コースにしたりして管理しようという佐藤誠=熊本大学教授/財団法人阿蘇グリーンストック理事のアイディアがあり、その第一歩として馬の試し乗りを実施します。これに私や「北海道うまの道ネットワーク協会」(北海道のみならず全国に馬で歩ける道を整備しようという団体で私も会員)の後藤良忠専務理事のほか『乗馬ライフ』記者など東京・札幌組6人も参加します。

 九州方面の方で参加希望の方は、阿蘇グリーンストック0967-35-1110にお問い合わせを。

●金沢の『田舎情報』が廃刊!

 金沢市の出版社から出ていた新ライフスタイル雑誌『田舎情報』は、この手の雑誌の中ではなかなか充実した編集で期待していたのですが、このたび廃刊となりました。

 編集長の中園康生さんは、創刊時に藤本さんや私の取材に鴨川現地に来られ、また今年は鴨川を毎月取材してレポートしたいと言ってくれていたのですが、まことに残念です。

 中園さんは、3月から東京に出て新しい仕事を探しつつ、別の形で『田舎情報』を再興すべく模索をするそうですので、皆さん何かとご協力をお願いします。彼のメールはyasu-n@ma.neweb.ne.jpです。

●[鴨川地元学/里山探検隊の記録1]

 鴨川自然王国内に結成された「里山探検隊」の第2回探索行動は、2月17日午後3時過ぎから石田三示指導員以下8名が、藤本宅近くから嶺岡山系=愛宕山北側の森に分け入り、加茂川の源流の1つである山中の湧水を訪ね、そこから東に下って「醇酒(ヨイサケ、地元の人はイサギと言う)の池」と呼ばれる霊池とその淵に立つ「八大龍王碑」に参り、さらに隣の元名(もとな)集落に通って、その向こうにそびえる通称「キムテツ山」に登りました。麓まで戻るともう5時過ぎで、疲労した体に寒風が突き刺さり、隊員の安全が危ぶまれたので、やむなく携帯電話で小原利勇指導員に軽トラックによる救出を依頼し、無事に山賊小屋に帰着しました。

 石田三示さんは、鴨川自然王国理事、大山千枚田保存会会長で、自然王国の隣で米や乳牛を中心とした農業を営んでいて、われわれの農林作業の指導者の1人です。

 以下[]内は補足および不明個所などについての高野注です。



(1)嶺岡の牧(その1)

 嶺岡山系の中心で千葉県最高峰の愛宕山の一帯は、かつて里見一族が開いた軍馬育成牧場だった。その後、徳川幕府はここを直営牧場とし、5カ所の牧を定めた。大田代はその「嶺岡五牧」のうち「西一牧」の中心地だった。8代将軍吉宗は軍馬育成に力を入れる一方、1728(享保13)年にオランダ人から貰ったインド産の白牛3頭を嶺岡に託し、牛酪(一種の生バター)を作らせたので、嶺岡牧場(今の丸山町・乳牛試験場)に「日本酪農発祥地」の碑が建つことになる。馬のほうは1908(明治41)年までは放牧による自然繁殖を続けていたが、この年に止めて馬をすべて売り払い、乳牛の育成だけに切り替えたので、そこまでで軍馬育成の歴史は途切れたが、人々の暮らしの中に馬は生き続けた。長狭の吉保八幡に今も古式豊かな流鏑馬(やぶさめ)による豊穣祈願の行事が受け継がれているのも、この一帯が馬文化の中心地だったことの名残であるに違いない。

◆石田三示さん談

「今の藤本宅や自然王国事務所のある辺りは、昔は西一牧の『馬捕り場』で、普段は放牧している馬を、年に1度、追い込んで捕獲する場所だった。藤本宅からサウナ小屋にかけての西側の土手や、登紀子ハウスの下の土手はその名残で、昔は、馬を追い込みやすいように土塁によってもっと小さな空間に区画されていた。また、年代は分からないが、大田代には馬場(競馬場)があり、それは、現在の佐々木さんのチランジア温室近くのお地蔵さまの裏あたりだったらしい」

「私が馬捕りについて知ったのは、蔵の中にあった赤い絨毯を見つけて、祖母に『これは何?』と尋ねたことがきっかけ。祖母によると、現在の王国の事務所付近でかつて馬捕りが行なわれていた。馬捕りは2日間に及び、馬捕り場の周りには茶店が並ぶなどたいへんな賑わいで、地主であった石田家は、一番いい席を陣取って、来賓を招いて赤い絨毯を敷いた縁台の上に座って酒や茶を振る舞いながら観戦した。この風習がいつ頃に始まったのかは分からないが、明治末近くまでは行われていたようだ」

■武市銀治郎『富国強馬』(講談社選書、1999年)より嶺岡が幕府の牧だったこと

 八代将軍吉宗は、洋馬に対する嗜好と熱意がとくに強く、享保十年(1725)から元文二年(1737)までの間に少なくとも洋馬27頭をオランダ人を介して輸入し、下総佐倉、下総小金原、安房嶺岡、甲斐甲府、陸奥三戸の牧に分与し、洋馬増殖と本邦馬匹の改良を図った。

■千葉県高校教育研究会歴史部会『千葉県の歴史散歩』(山川出版社、1973)より嶺岡の項

 日本酪農発祥地──嶺岡牧場は房総半島[千葉県の誤り]でもっとも高い愛宕山(標高405[408の誤り]メートル)の中腹にある。牧場は慶長年間(1596〜1614)当時の国守=里見義康が軍馬の育成を目的として開いたという。その後徳川幕府は、東上牧、東下牧、西一牧、西二牧、柱木牧の五牧を定め国産馬および洋馬も輸入し、牧士7名を任命して管理に当たらせた。

 酪農は八代将軍吉宗の命により、1727(享保12)年オランダが献上した白牛3頭から、牛酪(バター)を作ったことにはじまる。これは牛乳に砂糖を加えて、なべでかきまぜながら煮つめ、亀甲状に固めたもので、将軍家専用の貴重品であった。牛酪のほか、よもぎだけを食べさせた牛ふんを黒焼きにした傷薬も作って献上している。1889(明治22)年、地元民が組織した嶺岡畜産株式会社に払い下げられたが、1911(明治44)年、県に移管され、今日の嶺岡乳牛試験場となり、乳牛の改良と酪農の普及にあたっている。現在千葉県は北海道につぐわが国第2位の牛乳の生産量を誇っている。

 なお嶺岡東上牧[どこ?]で昭和45年、県内初見の七鈴鏡、奈良三彩の宝珠紐蓋、“長者”銘の入った土師器(はじき)片などが出土し学界の注目を浴びた。

■毎日新聞社編『千葉百年』(1968)より嶺岡牧場の歴史

 酪農のメッカ嶺岡牧場──房総西線[今の内房線]安房勝山駅から車で40分、安房、君津の郡境を東に抜けると重なりあっていた山の尾根が、突然切れた。一面に新緑のジュウタンを敷いた、ゆるやかな斜面の中腹に、県嶺岡乳牛試験場の白い建物が見える。わが国酪農のメッカ、安房郡丸山町大井の旧嶺岡牧である。試験場の前庭には、これをしるす石碑が、明治の世に勢力下に置いた京浜地方をにらんで、どっしりと立っている。

 嶺岡牧の歴史は古い。慶長年間(1596〜1614年)に安房国守、里見氏が軍馬育成のために牧を開いて以来、江戸時代には幕府の直轄牧場となった。とくに牧の経営に力を入れたのは、佐倉・小金原と同じく8代将軍吉宗だった。奥州、仙台、南部から種馬を取り寄せ、牧士制を設け、牧の管理に当たらせた。とくに1728(享保13)年オランダ人から献上されたインド産白牛3頭をこの牧に放ち、後日酪農に発展する牛酪をつくらせた。牛酪というのは、いわば生バターで、牛乳に砂糖を混ぜ、煮つめたもので、亀甲形をしていた。腐敗しやすい牛乳を江戸雉子橋(神田一ツ橋)にあった役所[小金・佐倉・嶺岡の三牧を経営する「野馬方役所」]まで運ぶにはこのような方法がとられたのだった。この総軍家御用の“白牛酪”は栄養剤として珍重され、嶺岡の名は全国に知られた。

 これを引き継いだ明治政府は、白牛酪の製造を旧牧士たちにまかせっきり、酪農の必要性は開国以来認めてはいたが多事多難な新政府には、牧場経営は重荷であったのだろう。やっと翌2年、築地に牛馬会所を設け、牛肉などの販売を始めた。これを実際に運営したのは嶺岡牧の吉野郡造ら旧牧士たちと、すでに横浜で牛乳を売っていた長生郡関村(現在白子町)出身の前田留吉だった。留吉は農家の生まれだが、1862(文久2)年一攫千金を夢見て、開港景気にわく横浜へ行った。格別腕に職もない男だから手っとり早いところで、遊郭の水くみとなったが、やがて、畜殺場を営むオランダ人スネルにとり入って、乳しぼりの技術をおぼえた。目先のきく留吉は、牛乳販売をたくらみ、知人から30両を借りると横浜に牧場をつくり、日本牛6頭を買い入れ、慶応2(1866)年開業した。当時1合6銭という高級飲料だったが、青い目の異人さんや異国かぶれの役人に飛ぶように売れた。これが牛乳販売の始まりである。

 当時一般には仏教の影響から「二ツ足(鶏肉)は口にしても、四ツ足は穢あり」と牛肉や牛乳は嫌われていた。ただゲテモノ食いの好事家たちが愛飲したが、それとて「腎薬には牛汁を朝晩飲むべし、焼酎に入れてもよし、夏はギヤマン徳利に入れ井戸の中につるしおく也」とアヤシゲナセリフをはく者もいた(“横浜ばなし”より)。

 政府は盛んに牛乳を飲むようにすすめた。牛馬会所いわく「牛乳の効能は、牛肉よりも大なり、熱病、労症などその他すべて身体虚弱なる者には欠くべからざるの妙品。万病の一薬なり。西洋諸国の牛乳を用いること、我邦の松魚節(かつおぶし)に異ならず」と宣伝に努めている。

 牛乳や肉食をPRするために設立された築地牛馬会所も、まもなく火事で建物や機械を焼き、閉鎖することになった。このため東京進出の足場にしようとしていた吉野ら旧牧士たちの夢は、あえなく挫折してしまった。故郷に帰った吉野らは、今度は嶺岡牧場をみずからの手で経営しようと払い下げを申請したが太政官布告で許可されず、この夢が実現するのは「嶺岡牧社」が設立される明治11年だった。この発起人たちは、水田竹蔵(水田三喜男代議士の祖父)ら牧周辺の有力者たちと君津郡佐貫町の還禄士族70人との連合体で、士族授産という衣を着せたため、許可されやすかったのだろう。この初めての民間畜産会社も、社員の意見が合わなかったことなどから、7年後には早くも解散。また官営に逆戻り。明治22年設立された嶺岡畜産会社も牛価の暴落などが原因となり、24年後につぶれてしまった。

 ただ注目すべきことに、嶺岡牧場に対して、陸軍省が目をつけていたことである。明治20年5月、陸軍大臣大山巌から農商務大臣山県有朋に対し「嶺岡は当省において将来必要の見込みもこれあるにつき、有形のまま此の際譲り受け申したく候」という申入れをしている。これに対し、農商務省はすでに千葉県知事に払い下げるよう閣議で決定してしまったからと回答している。陸軍省はわずかな手遅れから、嶺岡を入手できなかった。第2次大戦後、嶺岡が米軍のレーダー基地になり、さらに自衛隊がこれを引き継いでいる事実を考えると、東京に対する防衛基地として、嶺岡の果たす役割が明治時代にすでに認識されていたことを示している。

[この最後の「東京に対する防衛基地として嶺岡の果たす役割が……認識されていた」というのは全くのこじつけだろう。上記『富国強馬』によると、明治政府は維新直後から軍馬の改良・育成に取り組むが、それがようやく軌道に乗ったのが明治10年代で、その急増する調教育成施設の必要を満たすために明治19(1886)年に軍馬局に代わって騎兵局が設置され、軍馬育成所条例が発せられているから、その育成所の1つにするために陸軍省が嶺岡を欲しがったのであるに違いない。明治38年の日露戦争終了時の「軍馬補充部」(軍馬育成所の後身)リストには、全国26カ所の支部・出張所が載っているが、嶺岡は挙がっていないので、やはり嶺岡は明治末までに軍馬育成をやめて牧畜に転じたのだろう。しかし農耕・運搬には戦後まで馬を使っただろうから、人々の生活の中に馬がある状態は続いたのではないか。]

■前出『千葉県の歴史散歩』より吉保八幡の流鏑馬について

 鴨川市仲の吉保八幡に伝承されている流鏑馬(県無形民俗文化財)は、県内に残る流鏑馬の中でも鎌倉流の古風を保つ典型的なもので、10月29日の例祭に旧長狭町の保存会によっておこなわれる。7日間神社にこもって、水ごりに身を清めた氏子の弓取役が古装束で馬上にまたがり、社前の直線馬場で、早稲(わせ)、なかて、晩稲(おくて)の3種にみたてた菱形の板的に向かって3回ずつ早駆けの騎射をし、合計9本の矢の命中度によって豊凶適種を占う神事である。▲