農と言える日本・通信 No.49  2000-03-04      高野 孟

●[鴨川地元学/里山探検隊記録1の続]

(2)嶺岡の牧(その2)

■鴨川市史・読本編『鴨川のあゆみ』(鴨川市)より「嶺岡牧の歴史」

《近世まで》

 安房国内には、官営の牧場として、白浜馬牧と、釟師(おのしの)馬牧の存在したことが、「延喜式」に記されており、既に10世紀ころには牧が成立していたと考えられている。釟師馬牧は、現在の丸山町珠師ヶ谷とされるが、その後、廃絶された。戦国時代に入り、当地を支配した里見氏が軍馬育成のため、この地に再び牧を開き、牧域も広げたと伝えられるが、1614年(慶長19年)里見氏取りつぶし後、幕府の管理下に置かれ、代官の預かりとされるが、特に積極的な経営も行われず、次第に衰退した。

 1716(享保元)年、8代将軍徳川将軍吉宗の時代に、嶺岡牧の再興を施策した。再興するにあたって、幕府は、1721(享保6)年11月嶺岡山一帯が牧場に適するかどうかの調査を、下総国小金牧の管理にあたっていた野馬奉行綿貫夏右門に命じた。綿貫は、配下の牧士や地元の名主たちの協力を得て調査を進め、12月に嶺岡地域が牧場として優れているとの報告書を提出し、この報告書に基づいて、翌年には嶺岡牧が再興された。

 再興された嶺岡牧の管理は、将軍の乗馬を調教する馬乗り役の斎藤氏があたった。はじめ西牧・東牧のニ牧だったが、1726(享保11)年に柱木牧が開かれて三牧となり、牧域も広がり、総面積も1762町歩(約1747ヘクタール)に達した。1727(享保11)年に管理の都合で西一牧、西ニ牧、東上牧、東下牧、柱木牧の五牧に分けられ、嶺岡五牧と呼ばれるようになった。1735(享保20)年には、牧の中央に位置する西平陣屋(通称八丁陣屋)を設け、幕府の役人が年に数回江戸から出張にて牧の事務などを処理するようになった。

 1793(寛政5)年になり、幕府経営の改革が行なわれ、これまで小金・佐倉・嶺岡の三牧の経営が別々だったのを、小納戸頭取(将軍の身辺の雑務を担当した役人の長)が一括して支配するようになった。そのため、役所が江戸城内の雉子門に設けられ、これを「野馬方役所」といった。牧域の馬は、野馬方役所が管理し、土地は幕府代官が支配した。

 また、嶺岡牧では、馬ばかりでなく牛も放し飼いにされ飼育されており、広大な牧の管理は、幕府代官や野馬方の役人だけでは不可能だったため、現地の様子を知り、馬や牛の扱いになれている農民を選び、牧士に採用し、牧の見回りなどを行なわせた。嶺岡の牧士は、再興された1722(享保7)年に6人が採用され、4年後の1726年に2人が、1734年に6人がそれぞれ増員され、あわせて14人がつとめた。1760(宝暦10)年に1人減員となり、これ以後は増減することなく、幕末まで13人で管理が行なわれた。

 市内で牧士を務めた家──坂東村の石井家、東野尻村の滝原家、細野村の吉野家、北風原村の永井家、平塚村の佐久間家、北小町村の前田家、大里村の増田家の計7家。

 牧士になると苗字をとなえ、刀をさすことが許され、武士に準ずる資格が与えられ、幕府から給金(4両)と二人扶持(1日玄米一升)が支給された。

 広大な嶺岡牧を経営し、維持するための労力や一部経費は、嶺岡周辺の66か村の農民が負担した。66か村は、長狭49か村、朝夷郡13か村、平郡4か村からなっており、村の人々は、野馬捕らえの勢子人足、野火人足、牧場の土手垣修理、野馬の飲み水の井戸浚い、役人の八丁陣屋出張の際の人馬継ぎ立て御用など、牧を維持するための必要な仕事に駆り出された。こうした仕事は、牧があったため逃れられない負担であった。

 嶺岡牧では、年間を通して放牧し、その繁殖をはかっていた。繁殖した馬は、毎年3〜5月ころに野馬捕を行ない、捕らえられた馬は、八丁陣屋に集められ、このうち3歳馬で乗馬に適したものを選んで幕府に納め、選抜にもれた馬は近隣の農家にせり売りで払い下げられ、種馬として残すべき雄馬や繁殖用の雌馬はなどは、再び放牧された。

 牧で子馬が生まれると、牧士によって出生帳が作成され、野馬方役所に報告された。出生帳には、各馬の毛付はもとより、必ず血筋が記入された。この血筋によって、奥州筋・三春筋(陸奥国三春産の馬は結雁、南部筋は飛雀、仙台筋は目結、ハルシヤ(ペルシヤ)筋は羽折雀の馬印が、それぞれの馬の尻に押された。こうして、ペルシヤ馬の輸入や東北地方から良馬の買い入れをし、馬の改良につとめていたことが知られている。

 嶺岡牧を再興した吉宗は、白牛(乳牛)にも興味を持っており、1727(享保12)年、インド産の白牛3頭を輸入し、嶺岡の牧に放った。1792(寛政4)年、小納戸頭取の岩本正倫が、白牛調査のために牧を訪れた際には70頭ほどに増加していた。この白牛の乳によって酪(バター)が製造された。

 岩本の依頼で医師桃井源寅が著した『嶺岡白牛考』に酪の効用が紹介されており、寛政年間には酪や牛乳が民間で利用されていたのだろう。酪の製造は、1793年に野馬係となった岩本が江戸の野馬方役所に牛部屋と酪薬所を設けたのがはじまりとされる。最初のころは、乳の出る母牛を子牛ともども江戸の野馬方役所に送り、そこで製造した。

 嶺岡から江戸までの輸送路は、以下の通り。嶺岡を朝早く出発、金束村、関村(現富津市)、佐貫町(現同)、木更津村(現木更津市)、八幡村(現市原市)、検見川村(現千葉市)、舟橋村(現船橋市)、新宿村(現東京都葛飾区)、千住村(現足立区)、野馬方役所。

 通常は6日間の道中だが、夏場は朝夕の涼しい時間に歩かせたため、8日間かかった。

 酪の作り方は、牛乳を銅の鍋に入れ砂糖を加え火にかけて、丹念にかき混ぜながら石鹸くらいの堅さになるまで煮詰める。形は亀甲形をしていたという。製造された酪は、非常に貴重な薬として高い値段で売買され、病人は、それを削ってお茶などで少量ずつ服用した。結核・便秘症・中風などに効き目があったといわれる。

 また、嶺岡牧では、牧内の樹木を利用して炭焼きが行なわれた。炭焼きの開始の時期は明らかではないが、18世紀末の寛政ごろとする説がある。嶺岡牧の炭は、野馬方役所からの下渡金によって生産され、炭を生産するにあたり、牧士は、野馬方役所に前借を願い出、許可されると役所から炭焼き入用金が与えられた。生産された炭は、牧士の指示を受けて江戸に送られた。
 
《明治以降》

 明治政府になると、今まで徳川幕府直轄の牧であった嶺岡牧がどうなるかが、周辺の村村の関心を集めた。明治初年のころには、牧士を出していない周辺の村から牧を廃止して田畑にしたり植林をしたりしたらどうかという要望がだされ、他方牧士からは、牧の存続が望まれた。政府は徳川幕府から引き継いだ嶺岡牧をそのまま存続させることにし、1870(明治3)年には、廃止となった下総の佐倉牧、小金牧から牛や馬が移されてきた。

 1873年夏ごろから全国各地に牛の伝染病が流行り、嶺岡牧場やその周辺でも同年12月から流行りはじめた。対策としては屠殺して焼き捨てるしか方法がなかったが、一般の農家は伝染病の恐ろしさが分からず屠殺をしぶったので、屠殺すれば嶺岡牧場の牛を与えるという手が打たれたため、嶺岡牧場の牛は、268頭のうち24頭が残るだけとなった。

 政府の中には、嶺岡牧場や周辺でおきた牛の伝染病に手を焼いたため、牧場の事業を民間に移す気運が出てきた。一方、周辺の村でも嶺岡牧を払い下げてもらって地元の畜産業を発展させたい、という意欲が盛り上がってきた。1876(明治9)年11月、嶺岡牧周辺の26か村は、牧場を20年間借り受けるとともに、牛馬をはらいさげてほしいという願いを提出、1879(明治12)年1月、周辺の26か村から数人ずつが株を持ち合い、嶺岡牧社が発足した。

 嶺岡牧社は、発足直後に事務所と畜舎が火災に遭うなど災難に見舞われたが、優秀な種牛馬を入れるなど、牛馬の繁殖や改良をはかった。嶺岡牧社が発足後も、周辺の村では、入会権として牧場内で下木や下草の刈り取り、自然薯掘りをさせてもらうかわりに、牛馬が外に出ないように牧場の土手を修理したり、牧場内の道を整備したりすることになっており、江戸時代同様農民の負担は重かったため次第に牧場の土手や道の修理は滞り、牧場の牛馬が周辺の村に逃げ出すことが頻繁になった。こうした周辺の村への対応をめぐって、牧社の中に対立がおこり、1884年に嶺岡牧社は解散し、土地は政府に返還された。

 1886年12月、嶺岡牧場は千葉県が借り入れることになった。県としては畜産業を発展させるため嶺岡牧場を必要と判断し、県でしっかり管理の方針を定め、嶺岡牧場を地元に任せる考えだった。同じころ、嶺岡牧場を陸軍省が、譲り受けたいと言い出したが、千葉県に引き渡される2ヶ月前だったため、この話は進展しなかった。

 県は、牧場周辺の土手の修繕など、以前から問題となっていたことを話し合いでまとめ、鴨川町長ら地元の有力者を株主にして、1889年4月、嶺岡畜産株式会社を発足させた。翌1890年には、牧場の土地1762町歩の払い下げも受けた。

 嶺岡畜産会社は、アメリカから種牛を購入するなど、牛馬の改良・繁殖を行なった。しかし、その後、牧場に傾斜地が多く、また下草を刈る権利など農民の入会権がからみ牧場内で新しい経営に取り組めず、馬の放牧による自然繁殖には興味を失い、1904年には、牧場の一部312町歩を売却したのを最初として、1907年には200町歩を売却し、翌1908年には馬を全て売り払ってしまった。牛は、乳牛に重点をおき、1910年にはバターの製造を始めた。

 その後、県から嶺岡牧場を種牛の牧場として譲り受けたいという申し出があり、会社では臨時株主総会を開き、これを受け入れ、30町歩を残して牧場は売却した。1911年4月、嶺岡畜産会社は解散し、残った土地・建物は千葉県に寄付された。
 千葉県は1911年7月、ここに千葉県種蓄場嶺岡分場を開き、牛の種蓄場とした。その後、1913(大正2)年、千葉県種蓄場、1927(昭和2)年、千葉県嶺岡種蓄場、1963年5月千葉県乳牛試験場、同年7月に千葉県嶺岡乳牛四軒所と改称され、現在に至る。

 明治維新以後、東京では牛乳の需要が増えた。乳牛の飼育は、大山村、吉尾村、主基村、曽呂村など嶺岡牧場周辺の村で多く見られた。東京市内の各区では、搾乳業者が牛を飼っていたが、牛乳の需要が増えると、離乳した房州の母牛を借りて東京に運び、牛乳を絞って販売した。これを房州では「貸し牛」とよび、1880年代の後半ごろから1910年のはじめごろまで行なわれた。また、東京の搾乳業者は、搾乳のため自分のところで飼っている母牛から離して子牛を房州の農家に預けて飼育させることも行なった。これを「預かり牛」といい、1910年前後から1920年代の半ばごろまで行なわれた。

 一方、房州に工場を作り、製乳業をはじめる者がでてきた。1893(明治26)年に東京の缶詰洋食品店が大山村金束に安房練乳所を作ったのがはじまり。これが1903年に磯貝練乳工場となり、1916(大正5)年に房州の地の練乳所と一緒になって房総練乳株式会社となり、大山村出身の衆議院議員竹沢太一が取締役になった。

 房総練乳株式会社では、直径1.3メートルのブリキの鍋に牛乳と砂糖を入れ、かき混ぜながら煮詰めて練乳を作り缶に詰めたもので、製品名を「鳳凰ミルク」といい、主に海軍に納められた。この会社は、1920年に明治製菓株式会社に経営が移り、1918年に主基村に練乳工場として明治乳業主基工場を設置している。▲