農と言える日本・通信 No.50  2000-03-05      高野 孟

●[鴨川地元学/里山探検隊記録1の続々]

(3)嶺岡の森と水

 登紀子ハウスから南、愛宕山南麓の森に分け入ると、右手は杉の植林地の続きだが、右手は広葉樹の雑木林で、わずかに踏まれた道も灌木や倒木に覆われて辿るのも難しい。しかし少し整備すれば馬で歩く散歩道としてもなかなか快適なコースになりそうである。緩い登りを10分ほど歩くと、杉や檜の植林地に入るが、他と同様、ここも何の手入れも行われないまま放置されているため、ほとんどの樹がやせ細っていて、倒れたり曲がったり、先ごろの大雪の重みで折れたり裂けたりしているものも多く、惨憺たる有様である。そこを抜けると、昔、山賊小屋が建っていた場所があり(今の小屋はそれを解体して移築した)、トイレの小屋が荒れ果てたまま残っている。その先に「これが加茂川の水源の1つだ」と言えるような湧水[名前はないのか?]がある。

◆石田三示さん談
「馬の放牧には、なだらかな山があって、いい牧草があり、馬が水を飲む水源があることが必要だった。この辺りの里山から上の森は、昔は年々野焼きを行って木を焼き払い牧草地にしていたが、その後放置されて森に戻ったもので、古代からの自然林ではない。従って巨木もない。さらに昭和30年代には、雑木林の多くを切り開いて“山武(さんぶ)杉”を植林した。山武杉は、山武郡で開発された速成種で、密植すると下草が生えにくいので下刈りが要らず、また先端近くまでの途中の枝は自然に枯れて落ちるので枝打ちも要らないということで、大いにもてはやされた。しかし、密植する以上、間伐をしないと育ちが悪くなるのは当たり前で、もうこうなってはまるで使い道がない。全部切り出してしまえば、長い年月を経て広葉樹林に戻るが、それまでの間は禿げ山になって、水源はダメになり表土も流れ出してしまうから、杉を切ったら何か植えなければならない。それも大変だから、手の下しようがない」
「この山には、いい湧き水が多い。自然王国の西側上手にも、集落の水道になっている水源と、自然王国の水道になっている水源がある。大田代のような高いところに集落が出来、田んぼがあるのも、森の水があるからだ。しかし、荒れた杉林では、広葉樹林と違って落ち葉が堆積することもないので、大雨が降っても水が染み込まずに表面を流れて行ってしまう。また嶺岡山系の尾根沿いに林道が出来て、みんな大いに便利をしているけれども、やはり山の生理に影響があるらしく、どこの湧水の量も減ってしまった」

■高橋在久・平野馨『日本の民俗12・千葉』(第一法規、1974)より野焼きについて
 農山村地帯には茅無尽とか茅組が各地にあった。鴨川市の山間部で生まれた歌人古泉千樫の「みんなみの嶺岡山の焼くる火の 今宵も赤く見えにけるかも」という名高い歌は千樫の育った長狭地方にあった茅組の人たちが、屋根の葺き替え用の共同の茅山の手入れで点じた野火立ったと思う。
[そうかもしれないが、牧場のための野焼きだった可能性もあるのでは?]

◆石田三示さん談
 「『みんなみの…』の歌の火は、牧の野焼きの火だという説もある。茅場は、大田代には3カ所あった。(1)トラスト大豆畑の向かいの杉林付近、(2)「山賊小屋」から裏の田山を越えた先にある杉林、(3)竹重さんの家の先を山の下側に下りたところがそうだ。昔は大田代集落に茅葺き職人集団がいて、他の集落にも出張して仕事を請け負っていた」

■前出『千葉県の歴史散歩』より古泉千樫について補足
 古泉千樫(こいずみちがし)の誕生地──古泉千樫は、1886(明治19)年、細野村の農家に生まれ、本名幾太郎といった。1908(明治41)年、母校の小学校教員の職を辞して上京し、「アララギ」の創刊に加わり、伊藤左千夫の編集を助けた。大正の末には釈迢空らとともに「日光」を発刊し、ついで弟子たちと青垣会をつくったが、間もなく病気になり、昭和2年に没した。地味な生活に根ざした穏健な歌風をもって知られ、その歌集には自選の「川のほとり」のほか「屋上の土」「青牛集」などがある。生地の敷地には当時の面影をそのままに“椿の井戸”が残っている。
 わが家の古井のうへの大き椿 かぐらにひかり梅雨はれにけり
 なお同部落の吉野洋氏が所蔵する安田家文書2巻(県文化財)は、大山寺に関する30余点の古文書を集成した貴重な文献である。

(3)イサギの池と八大龍王神
 さらに西に進んだ田んぼと山の境目のあたりに、地元の人が「イサギ」と呼び、ものの本には「醇酒池(ヨイサケのイケ)」とされている小さな霊池があり、その淵に「八大龍王神」の石碑が立っている。周りには100年を超えるだろう杉の巨木が10本ほども立ち並んでいて、大山不動尊の成り立ちとも関わる水乞いの聖地という雰囲気を漂わせる不思議空間である。

◆石田三示さん談
「この池は決して枯れることがない。そのため今は不動尊で行われている雨乞いの夏祭りは、明治の頃までだと思うが、この池で行われていた。メインの祭りが不動尊に移ったあとも、自分は記憶がないが、自分らの子供の頃までは、ここで年に1度の祭礼が行われていたという。日照りが続くと村人たちが竹筒を持って集まって、池の水を汲んで自分の田んぼに流して雨乞いした。雨が降って田んぼに水が溜まると、その水を汲んで池にお返しに行った。大山不動尊の開基である良弁僧正が、大山に不動明王を安置せよとのお告げを得て、古木を伐って像を彫ろうとしたところ、その古木が鳴り騒いで伐ることができない。そこで良弁がこの池の水を汲んで酒として献じ祈念すると、ようやく収まって、無事に像を彫ることが出来たという。以来、「孝行息子がこの池で水を汲んで家に帰ると酒になっていた」という言い伝えも生まれた。そういう不思議な池だから、雨乞いの聖地にもなったのだろう」

■羽山常太郎『安房の傳説』(京房通報社、1917)より良弁伝説
 寅卯の雨──寅卯の雨とは雨が寅卯の方位から降って来るという意味である。夏には道(と)もすれば日照りがつづく。そうした時には雨請ひという式がさかんに農人間に行はれる。その雨請いは長狭の大山寺に昔から今にいたるまで盛大に行はれて来た。……
 み寺の創建は神亀元年、良弁僧正にかかっている。良弁僧正が曾(かつ)て東(あづま)に下向した路すがら、ある日相州の大山に上らるるや、たまたま東方はるかに紫雲のたなびく奇現を翳(かざ)されたといふ。僧正は直ちに大山を下って、ようやく二日にして平塚村にたどり着き、その日もそこに旅暮れたので、立ちよる大木のもとに錫をとどめられたのである。いつしかスヤスヤとまどろまれたが、夢に不動明王の凛々しいお姿が立ちあらはれ、
「これより東南に当たってわれ住すべき山あり、かならず形像を安置せよ」と宣ふばかり、かき消すごとく失せてしまった。……
 不動明王の尊像を刻むために、里人に願って、二つ山のふもとの古木を伐らしめたのであるが、百鳴木という怪しい古木は、あたかもものありて動かすごとく、慌しく鳴りどよめいて止まなかった。その不思議さに、神の御心に逆らふかどのあるにもやと、池水を手づから汲みとって酒になぞらへ、しばらく祈念ゆるまぬ数珠をかへくりながら、謹(つつま)しく加持祈祷されるほどに、さすが百鳴木の動揺も、死せるがごとく鎮まりかへりしとぞ。
 僧正は人知れず霊感をうら喜び、ここに初めて不動の尊像を刻んで安置し神々しき大伽藍を建立することが出来たのである。酒になぞらへし水を汲みとられた池が、今もなほ雨乞ひの霊池として知られている醇酒(よいさけ)の池である。すべてこの大山の霊験は、この醇酒の池の水底に深く秘められている。時に旱天(かんてん)打ち続いて農民どもの愁眉ひらかざれば、この霊池から空中高く水柱まき上がり、慈雨たちまち下るという。それで年々このお寺[大山不動尊]で普利雨(ふりう)という例祭が行はれて来たのであるが、それは明応三年に始まったという雨乞いの式なのである。試みに普利雨祭記を読んでみよう。
 曰く、近郷在所の人々がそれぞれ二十七隊に分れて整列し、いづれも標旗(へうき)を押し立てて登山する。そして山上に至れば東西の二組に別れ、先ず笛を吹き太鼓を叩き、羯皷(かっこう[鼓のこと])を打つ。折しもお神楽が目ざましく舞ひ上げられる。それより槍刀棒鎌をたづさへて東西の者どもが凄まじく挑み合う。その危険さは見る者の心胆を寒からしめたものである、と。けれど簡単をよろこぶ文明開化に進みゆくほどに、古樸[昔のままで素朴であること]にして盛大であったお儀式は、やうやく堕落しがちである。……

[ここに「明応3年に始まった」とあるが、明応は室町時代中期。上の石田さんの話と合わせると、その頃にイサギの池で雨乞い式が始まり、明治の頃か大山不動尊の祭りに移り(もしくは合流し?)、その後も第2次大戦後(石田さんのご幼少の頃)まではイサギの祭りも続いたということか?]

■良弁(ろうべん)について平凡社「世界大百科事典」より
 689-773。奈良時代の華厳・法相(ほっそう)の僧。東大寺の開山。百済系渡来人の後裔。近江あるいは相模出身と伝える。義淵に師事して法相宗を学び、728(神亀5)年に聖武天皇の皇太子=基親王の冥福を祈る金鐘山房の智行僧の1人に選ばれ、740(天平12)年、大安寺の審詳を講師として《華厳経》の研究を始め、金鐘寺が大和国国分寺、さらに廬舎那大仏造像の地となる機縁をつくった。745年《金光明最勝王経》の講説を行って仏教界を先導し、廬舎那大仏造像に当たっては、造東大寺司次官=佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、行基などとともに聖武天皇を助け、752(天平勝宝4)年の大仏開眼ののち、5月1日に初代の東大寺別当に任ぜられた。754年2月、唐僧鑑真一行が東大寺に詣でたときこれを迎え、聖武上皇の死去に当たっては生前看病の功により、また仏教界の領袖として大僧都となった。760(天平宝字4)年7月、慈訓、法進らとともに僧階の改正を上奏して教学の振興を図り、763年9月僧正の極官に補せられた。晩年は石山寺の造営にも関係し、773(宝亀4)年閏11月16日入滅した。……
 良弁は相州大山を開いたといわれ、その説話は大山縁起として江戸期の大山信仰とともに流布し、また《東海道名所図絵》などによって広く世に知られるようになったとみられる。良弁は幼時に金色の鷲にさらわれ、両親は山々を探索したが行方不明となった。のち東大寺の義淵僧正に撫育され、良弁僧正となっていたことが判明、母子はめでたく再会したと伝えられる。この伝説をそのまま劇化した浄瑠璃が《二月堂良弁杉の由来》(1887年2月彦六座)で、明治期の新作浄瑠璃の佳作として評価を得、のち歌舞伎へも移入された。

◆石田三示さん談
「良弁が不動明王を彫ったのが大山不動尊の始まりということになっているが、良弁は東大寺を総本山とする華厳宗の僧正であり、不動明王は平安時代に密教が盛んになって広く信仰されるようになった仏だから、史実としてはおかしい。良弁が開いたという話と、後に誰かが不動明王を安置したという話がミックスしているのかもしれない。一説には、良弁は自らが指揮していた東大寺大仏の建立が、鉄や水銀など材料の不足で頓挫していたのを打開すべく諸国を回り、当時は鉄や水銀の産地だった大山を訪れたのだという。この付近には、渡来人を中心とする製鉄集団があったとも言われており、大山不動尊の別名で不動尊の更に上の山頂に社のある高倉神社は、「たかくら=こうくら」で、高句麗と関係があるらしい。釜沼[大田代に入る安田自動車のあたり]や金束[こづか=その西の「スーパーすしや」のあたり]の地名も、鉄鋼の歴史の名残であるという」
「百鳴木=百名木=百目鬼の伝説は、多々良伝説と結びつくもので、釜沼には百名木の屋号の家がある。その家には、大山不動尊を作る際に切り倒した木から彫った「試し地蔵」が安置されている。名前は地蔵だが、背後に火を背負った不動明王の姿であり、試作のミニチュアと思われる。またその家の近くの土中から大きな木の切り株が見つかり、それが百名木ではないかと言われて、そのまま埋めてしまったという。「二つ山」は、王国の近くの通信鉄塔が立っている山で、国土地理院2万5000分の1地図にもそう明記されていて、大山不動尊はかつてはそこにあったという説もある。しかし二つ山は別のところを指すと言う人もいる」

[いやあ、多々良伝説が出てくると、私は興奮してしまうのですね。日本人の職人根性とかモノづくりの智恵の原点は多々良であって(「もののけ姫」の世界です)、それが21世紀に大復活して日本を元気にするというのが私の時代観の根本なものですから。良弁は百済人の末裔ですから、高句麗系にせよ何にせよ、渡来人が当時の日本列島のどこで何をやっているかは見えていたのでしょう。それにしても、百鳴木伝説と多々良伝説はどう結びつくのでしょうか? 釜沼の百名木さんのお宅に行って、「試し地蔵」を拝観したいです。]

■前出『日本の民俗・千葉』より「七大龍王」
 直接、天空に向かって雨乞いをした例は、鴨川市にもあった。ここでは、日照りで困ると雨乞い組合を組織し、白地に「七大龍王」などと染め込んだまといをつくり、龍王山と呼ぶ山に登り、天に向かってまといを大きく振りまわして、降雨の祈願をした。また近くの長狭平野では、山頂で大太鼓を叩いて祈願した。

[七大は八大の誤りだろう。『広辞苑』には「八大竜王」として「難陀(ナンダ)、跋難陀(バツナンダ)、沙羯羅(シャカラ)、和修吉(ワシュキツ)、徳叉迦(トクシャカ)、阿那婆達多(アナバダッタ)、摩那斯(マナシ)、優鉢羅(ウハツラ)の八竜王の総称。……水の神、雨乞いの神ともされる。八大竜神」とある。仏教の感覚では「7つ」というまとめ方はないんじゃないでしょうか。]

■前出『千葉県の歴史散歩』より雨乞いの関連
 春日神社の羯皷舞──鴨川市北風原(ならいはら)部落の春日神社に残る雨乞いの芸能で、毎年8月24日の祭りに氏子によっておこなわれる。天文年間(室町後期[1532〜55年])の大旱ばつに、安房の国守里見義実が嶺岡の神々にこの舞を奉納したところ、雨が降ったことにはじまるという。県内でもそのほとんどがすたれた中で、今に残る貴重な民俗資料(県無形文化財)である。演目と順序は(1)入門、(2)入水拍子、(3)雌獅子舞、(4)中獅子舞、(5)雄獅子舞、(6)幣の舞、(7)弓の舞、(8)清の舞(三獅子舞)、(9)崩しの舞となっている。太鼓、笛、鉦のはやしに合わせて竹製の男根を象るものを簓(ささら)でしごくなど、赤面とおかめがからみ、三匹の獅子が乱舞するきわめて勇壮な舞である。

[羯皷舞は今は7月。長狭商工会ホームページ(http://www.awa.or.jp/home/nagasa/)では「毎年7月24日の例祭」となっているが、観光協会の「年間行事」では「7月第4日曜日」(今年は22日)となっている。春日神社と横尾の請雨山山頂・愛宕神社で交互に行っている。見に行こう! なお長狭商工会ホームページには羯皷舞と流鏑馬の簡単な説明と写真が1枚ずつ掲げてある。]

 なお、観光協会「年間行事」からいくつか拾うと……
●4月24〜25  吉保八幡神社の春市(植木市を中心に露店約20店が出る)
●6月7日   曽呂地区・八雲神社の「牛洗いの行事」
●6月3〜4日 鴨川シー・フェスタ(海岸通の産業観光祭。地場の産物、伝統工芸品など)
●7月22日    北風原・春日神社の羯皷舞
●8月7日   大山不動尊の祭
●9月28日    吉保八幡神社の祭礼と流鏑馬

 里山探検隊としては、周辺の面白い伝統行事なども目配りして、羯皷舞や流鏑馬などは探検隊独自の集合日として見に行くようにしたいと思います。]▲