高野孟の「農的生き方曼荼羅」

――『増刊現代農業』07年2月号への寄稿

新居の屋号は「福榎荘」、酒の名前は「福榎」

 本誌をはじめあちこちで吹聴しまくったので、いろいろの人から「もう安房鴨川に引っ越したんですか」と訊かれて往生したのだが、ご安心下さい、当初の予 定からは大幅に遅れはしたものの、鴨川の一八〇〇坪の山林に終の棲家を建設して移住する計画は今春、桜の咲く頃までには実現する。遅れた理由は単純で、何 しろその土地の一帯が「地滑り防止区域」に当たるので、その地盤評価とそれに伴って採用すべき基礎工法、さらにそれによって制約される家全体の設計イメー ジについて最初の設計家と意見が折り合わず、一昨年暮れに基礎工事に取りかかった段階で一旦中止、新しい設計家に委嘱してハナから図面を引き直すことに なったからだ。仕切り直しをしてからはまことに順調で、八月下旬に地鎮祭を行って着工、十月初旬に施主が屋根から餅を撒く地元方式で上棟式も執り行い、す でに外装は終わって年明けからは内装に取りかかる。二月末に引き渡しの予定で、それから三月一杯かけてゆっくり引っ越しをする。花見の頃には千客万来とい うことになるだろう。

 それに備えて、昨年は鴨川自然王国と大山千枚田の一部に酒米「五百万石」を栽培して貰い、それで千葉県内の造り酒屋に「福榎」というマイ・ラベルの酒を 一升瓶で一〇〇本ほど造って貰うことになっている。我が敷地内には榎(えのき)の大樹が何十本もあって、それが気に入って入手した土地なので、さて榎とは どういう木かと思って調べたら、柳田國男の『神樹篇』に榎は嘉樹すなわちおめでたい木で、ある地方ではそれを屋敷内に植えると福が来るという言い伝えが あって、それを「福榎」と呼ぶと書いてある。それどころか、そもそもご神木と言えば大昔は榎が多く、榎信仰・伝説にこそ日本神道の発生の秘密を探る鍵があ るとまで述べている。そこで、設計上、榎には一本も手を着けないどころか、東西南北の窓のどこからもその枝ぶりを景観として取り込めるようにして、有り難 みが逃げて行かないようにした。それで、新居の屋号は「福榎荘(ふくかそう)」、酒の名前も「福榎(ふくえのき)」と決まったのである。

 いま最後に取り組んでいるのは「水」である。市の水道は二〇〇メートル下から引くのに二五〇万円もかかって、おまけに酷くまずい。敷地内に井戸を掘って 貰ったが実用に足るほどは出ない。西隣の土地に入った森の中にかなり豊富な湧き水があって、以前は下の方の家が生活水に使っていたというので、地主さんに お願いに行ったところ、「ああ、使っていない水源だから自由に使いなさい。お金? 要らないよ」と気持ちよく許可を頂いた。そこからパイプを引いて、中古 を安く手に入れた牛乳運搬用のステンレス・タンクに引いたところ、やはりタンクの底にだいぶ泥が溜まる。現場に小屋がけして合宿状態で仕事をしてくれてい る大工さんたちも、その水を風呂には使うが、飲料水は遠くの湧き水を汲みに行って使っていた。「この水は風呂には凄くいいよ。温泉みたいに暖まる」と棟梁 は言ってくれているから、たぶんミネラル分は豊富なのだろう。しかし濁っていては飲み水には使えない。そこで、暮れも押し迫ってから自然王国のスタッフの 皆さんの力も借りて、『おいしい水のつくり方』(築地書館)で砂と砂利による生物浄化法を推奨している中本信忠=信州大学教授の理論に従って、泥の沈殿槽 と砂・砂利による浄化・殺菌槽を実験的に作った。どうも水量に比べて浄化槽の容量が小さいようで、流量管理が上手くいかないが、正月明けには改善法を考え て何とか水回りの器具取り付けまでに間に合わせなければならない。

 その土地でどういう暮らしをするのかのイメージは図1に示してある。これは、設計家に私の 家作りのコンセプトを伝達するために、マインドマップの手法を借りて昨年正月に作ったもので、全体がまさに榎の形をしている。細かいことは省くとして、要 するに、「半農半電脳のエセ田舎暮らし」ということである。本業のほうでは、昨年にブログ・ジャーナリズムの総合サイト《ざ・こもんず》を起ち上げて、よ うやく実験運用段階を脱して今春から本格稼働する予定で、そうなるとますますネットで仕事をする比率が増す。ということは、原則、どこにいても編集や執筆 の仕事は出来るので、取材・打合・出演・講演などどうしても東京やその先まで出て行かなくてはならない時だけ出て行って、家で過ごすことが多くなる。と 言って書斎にばかり籠もっている訳にもいかないので、朝は五時か六時には起きて草刈り・畑作り・薪割りなどに一仕事取り組んで、コーヒーを淹れて、それか らパソコンに向かうことになるのだろう。飽きれば、土間の真ん中にドーンと据えた、友人の木工作家=馬場健二さん製作の巨大な原木を使った「囲炉裏テーブ ル」、冬ならば壁際に燃える薪ストーブ、その土間の窓から見る庭の榎林や遠くの清澄山系の山並みが癒しを与えてくれるはずである。車で七〜八分の鴨川自然 王国にも、これまでより遙かに頻繁に顔を出すことになる。

立ち戻る場所としての「やりたいこと」

 こうして私流の「半農半X」が始まろうとしているのだが、長年サラリーマンを務めてきた人が定年になって田舎暮らしを始めようというのとは違って、私の 場合は今までも「半X半農」的にやってきているので、新しい住処を得てそのバランスと優先順位が少し変化するという程度のことにすぎない。

 第一に、私はフリーランス・ジャーナリストと言えば聞こえがいいが、今どきで言うフリーターであって、社会に出てからの約四〇年間、最初の数年を除いて 誰かに時間で雇われて仕事をしたことがない。フリーでは飯が食いにくいのは昔も今も同じで、別に驚くことでもない。自分の好きなことをやって生きるという ことの代償が飯を食いにくいということなのだから、そこは腹をくくらなければ仕方がない。とは言え、好きなことの追求(つまり仕事)と飯の種を得るための 時間の切り売り(つまり労働)とは単に二律背反なのではなくて、その矛盾を前へ前へとダイナミックに展開するための戦略が必要となる。私ら物書きの場合で 言えば、自分の好きな分野やテーマで思い通りのことを書いて食えればそれに越したことはないけれども、使い捨てのマスコミ臨時工であるフリー記者にはそん なことはむしろ希で、注文に応じて興味も関心もないことを取材して書かなければならないことが多いし、たまたま好きな分野であっても編集部の意向で一番書 きたかった部分が削られて泣くこともある。そうやって常に妥協が強いられる中で、私のかつての仲間の中には、次第に自分を見失って金稼ぎのためだけの駄文 業に陥って、自己嫌悪の末に自殺したり行方不明になったりした者もいる。そこで肝心なのは、自分の「やりたいこと」へのこだわりであり、その時々に妥協し なければならなかったとしても、必ずそこへ立ち戻ることが出来る場所を作っておく工夫である。

 私の場合は、それが先輩や仲間と共に同人誌的に始まった「インサイダー」という自前のニュースレターの出版だった。それは無償ボランティアどころか、支 えるために苦しい中から持ち出しをしなければならないほどだったが、それでも、私にはマスメディアに打って出て仕事をして、そこそこ金は稼ぐけれども、心 も体もズタズタになって、ようやく帰り着いて次の機会に備えるための「出撃基地」であり、その本拠地があって初めて、段々にではあるけれども、好きなこと を書いて飯が食える状態を実現することが出来た。フリーというステータスと「インサイダー」というスタンスを使い分け、上手く両空間を行き来することで、 ギリギリのところで心身のバランスを保って矛盾をくぐり抜けていく道筋を見出したのである。

 近頃のフリーターやワーキングプアの議論で変だなあと思うのは、それが「格差社会」のかわいそうな犠牲者で(小泉のせいだ!?)、何とか経済面・労働条 件面から救済しなければならないという説である。そうではなくて、彼らの主な問題は、自分が何が好きか、何をやって生きていきたいかが見つからないことに あるのではないだろうか。自分が何をしたいか分からないままでは、帰る場所がないのだから、過酷な低賃金労働に身を委ねてボロボロになり、そこから抜け出 せないということも起きる。フリーターの全部がそうなのではなく、ちゃんと目的を持っていて、それに全身で取り組める条件が出来るまで三年間はコンビニの アルバイトで過ごすといった者も少なからずいる。そういう彼らの場合は別に救済も求めていないし、放っておいても何の心配もない。そして、案外誤解されて いるのは、そのような問題はどこぞの立派な企業の「正社員」として就職した者の場合も同じだということである。「会社に入ってから“自分探し”をされても 困るんだよね」と言った経営者がいたが、その通りで、自分が本当のところ何がしたいのかはっきりしないまま、たまたま受かった企業に入るから二年か三年で 辞めることになる。だから私は自分のゼミの学生にも、「お前ら、就職活動でどの企業を受けるかという以前に、自分は一生かけてどういう仕事をしたいのかを 決めろ」と言っている。どういう仕事をしたいかが決まらないのに、労働の場としての企業が選べる訳がないじゃないか。したい仕事のためには自分で会社や NPOを起業する道もあるかもしれないし、しばらくはフリーターで準備をするほうがいいのかもしれない。その仕事のためにはこの企業に入って、三年か五年 で最低限これだけのことは身に付けて、それでこんなものかと思えば辞めてもいいし、まだここでやれると思うならもう三年か五年会社にいてもいい。大事なの は、自分の仕事を実現する最善最短の道筋はどこかという自分の人生戦略だ、と。大学で四年間もの猶予があってそんなことも決められないというは本人の責任 で、かわいそうでも何でもないと私は思う。

「太陽」は会社か、自分や家族か

 第二に、私はかつて典型的な都会派高校生で、遊び好きというか、まあ何にでも好奇心旺盛で、メインはブラスバンドだったが、それ以外にジャズバンドを編 成したり、新宿のキャバレーや厚木米軍基地の将校クラブでプロに交じってサックス吹きのアルバイトをしたり、英語教室の講師をしたり、禅研究会に入って毎 週日曜日に参禅修業したり、ストリップ研究会を組織して首都圏の全劇場踏破を目指したり、小学生から続けてきた登山は高校二年の時に沢登りで三〇メートル 滑落して死にそうになってさすがに止めたり、六〇年安保では人並みにデモに行ったり……という具合で誠に忙しかった。大学時代の後半からは学生運動に没頭 してそうもいかなかったが、社会に出るとまた貧しい中でもいろいろな楽しみを追求した。金はなくとも、それを苦にさえしなければ、自由になる時間があると いうのはフリーのメリットで、三八歳の時に過労と飲酒で肝臓が壊れかかったのを機会にゴルフを始め、同じ頃に新宿ゴールデン街での酒飲み話から草ラグビー チーム「ピンク・エレファンツ」が誕生して、二代目主将を務め、後に団長にさせられて今も年に数回は試合に出たりしている。そうなるとまた仕事と遊びの境 目がない私の常で、週刊ゴルフ・ダイジェスト記者の名刺を貰って全英オープンの取材をしたり、オーストラリアで開かれたラグビーW杯の取材に行って雑誌に レポートを書いたりしたこともあった。

 趣味が本業に繋がるというのもさることながら、そのようにしてゴルフを始めればゴルフ仲間が出来るし、ラグビーをやればチームメイトはもちろんラグビー 界のかつて憧れだった名選手・名監督とも友達になれる。自分の周りにいくつもの異質のアイデンティティ空間が出来て、ということはそれぞれに違った人脈が 形成されて、それらを泳ぎ渡るのが何より楽しい。それからしばらくして、西ドイツと呼ばれた頃のドイツに行くことがあり、知人のドイツ人ジャーナリストか ら週末に自宅に招待された。車を降りて玄関に向かうと、生け垣の向こうで隣のおじさんが芝刈りをしている。知人が「こちらは日本から来たジャーナリスト で」と私を紹介すると、彼は手を休めて「私はこの町の少年サッカーの監督をしてまして」と言った。私は「ふーん、リタイアして暇なのかな」くらいにしか思 わずに知人宅に入ったのだが、彼が飲み物を用意しながら私に注意した。「君ね、もうちょっと驚かなければいけないよ。ドイツでは、少年サッカーの監督を長 年やっているというのは、下手な市長よりも尊敬されることなんだ。おまけに彼は、某一流製薬会社の副社長であり、またベトナム戦争孤児を引き取って養育す る全欧州的なボランティア組織のリーダーでもあって、現に隣の家にはベトナム人の女の子と男の子がいて小学校に通っている」と。

 私は、少年サッカーの監督の偉さへの無知を恥じつつ、それよりも隣のおじさんが自分を「某製薬会社の副社長をやっていまして」と自己紹介しなかったこと に驚愕した。彼にとって副社長はいくつかあるアイデンティティの中の一つにすぎず、それも第一番目に自分をアピールするアイデンティティですらないのだ。 日本人だったら、まず会社の肩書きを口にするだろう。この違いは何なのか。つまり、彼にとっては彼の暮らしと人生の真ん中に「自分」があって、その周りに 少年サッカー、ベトナム孤児ボランティア、会社、家庭といったそれぞれのアイデンティティ空間が配置されていて、それらを適切に渡り歩きながら自分らしい 暮らしを組み立てているということなのではないか。日本人の多くにとっては、真ん中にあるのは「会社」であって、「自分」や「家庭」は太陽に対する衛星の ようにその周りを回っていて、会社あっての自分や家族ということになっているのではないか。

 たぶん彼にとって、会社もサッカーもボランティアも同等に「仕事」なのであり、それにさらに何か個人的な趣味があったり地元の教会の信者であったりすれ ば、それらやさらに家庭まで含めて、自分を中心とした同心円のように配置されていて、その多様な関係性の総和がつまりは「自分らしさ」ないしは「自分らし い暮らしぶり」になっているのだろう。成熟社会の「市民」とはそういうものであり、とすると日本はまだ図体がでかいだけの発展途上国なのだと思い知ると同 時に、私のように好奇心が趣くままにいろいろなことに手を出して人を集め、何かというと代表や会長や団長などを引き受けているのは、今までは取り散らかし の収拾つかずの癖だと思っていたが、意外とそうでもなくて、結構“先進国型”の生き方なのかもしれないと妙に納得したのだった。

 会社が太陽だと思ってしまうと、それがズボッと抜けると光を失ってどうしたらいいか分からなくなってしまう。自分が小なりといえども太陽で、その周りに いろいろなアイデンティティとそれに応じた活動空間を配置していれば、会社というアイデンティティの1つくらいなくなっても何ら動揺することもない。しか しその小太陽は、それだけ孤立していてはすぐに衰えてしまい光を放ち続けることが出来ない。周りに多様で豊富な関係性を築いていればいるほどそこからエネ ルギーを得て長く光を放つことが出来る。そういうように生きていきたいものだ、と。

マルチ・アイデンティティを可能にする複合生活空間

 第三に、その「マルチ・アイデンティティ」志向は、五〇歳前後になってようやく好きなことをやってそこそこ飯が食えるようにもなってきて、ますます磨き (?)がかかることになった。そこでは故・藤本敏夫との再びの出会いが大きくて、それがきっかけで結局は鴨川の地で田舎暮らしを営むことになったし、また 彼の案内で帯広の牧場を訪ねたのがきっかけで野外乗馬にも親しむようになった。他方、作曲家の三枝成彰との長い付き合いの中から六本木男声合唱団が生ま れ、それと半ば重なってモンゴルのオペラを毎年のように観に行くツァーが始まった。モンゴルに行ったら馬に乗らなくては、ということでオペラの後は郊外の ゲル村に泊まって草原乗馬を楽しみ、モンゴルにおいて音楽と乗馬が結びつくことにもなった。

 藤本とは学生運動時代から党派の違いを超えて遠目でお互いに見知っていて、その後もポツンポツンとは付き合いがあった。彼が参院選に立候補したときには 事前に相談があって、麻布十番のおでん屋でじっくり話をして、「止めた方がいいよ」とアドバイスしたりもした。五〇歳になった時に、ちょうど一〇歳上の田 原総一朗が原因不明の消化機能衰弱で痩せ衰えて入院するのを見ていて、「そうか、あと一〇年で俺も還暦かあ」としみじみと思うことがあり、同じ昭和十九年 生まれの藤本に久しぶりに声をかけて二人の呼びかけで「一休会」を結成した。十九年のイチキュウと、「ここらで人生一休み、今から還暦の迎え方を考えよ う」というヒトヤスミの意味と、そう言えば一休禅師は八〇歳を超えても洒脱で、行きずりの女を庵に引き込んで同棲しエロチックな歌など詠んでいつまでも元 気だったのにあやかりたいというイッキュウさん願望とを重ね合わせたネーミングで、時折酒を飲んでは談論風発した。その席で藤本が、学生時代と変わらぬア ジテーション口調で、「諸君、還暦とは人生二毛作目に入るということであり、二毛作というなら農である。日本人すべからく、何らかの程度、土に触れて農の ある暮らしを目指さなければならない」と演説した。それでその会の有志で彼の鴨川自然王国を訪ねてみようじゃないかということで行ったのが、そこに填り込 んだ始まりだった。

 鴨川での農作業や森林整備作業の合間に藤本とはたくさんのことを語り合った。思いきって要約すれば、1つは、産業政策としての農業政策の立て直しの問題 で、折からアメリカ型の大規模化・効率化一本槍の旧農基法下の農政破綻の果てに多少ともヨーロッパ型の環境や農村共同体重視の新農基法に置き換えようとい う流れが生じて、それまでは危険人物視されていた藤本が関東農政局のそのための諮問会議の事実上の座長に指名されるということもあって、彼は大いに意欲を 燃やしていた。私は、そこまでその転換に主体的に関わる見識もゆとりもなかったので、彼の熱弁に頷くばかりだったが、しかし直感的に、法律の文言がどう変 わるかよりも農業の現場の実践が現実にどうサポートされるのかが大事なのではないかと思っていた。それは、今で言えば、教育基本法をいじくってもいじめや 自殺はなくならず、結局は校長を筆頭とする教師や親や地域の現場での闘いを国がどう励ますことが出来るかに帰着するというのと同様である。結果を見れば、 新農基法農政は、大規模化・効率化幻想を捨てきれずに零細農家の足切りを強行するばかりとなってしまった。

 2つには、しかし藤本がそれよりももっと心を砕いていたのは、“業”の付かない“農”のことである。「農業に帰れと言っても、農業はプロの農家が逃げ出 しているのが現実だ。都会人に、都会を捨てて農村に行き、農業を始めるべきだなどと言うのは非現実的で、都会人であってもマンションのベランダにプラン ターを置いてハーブを植えるのも農だし、それで飽きたらずに市民農園を借りて五坪で野菜を作るのも農だ。条件があるなら、鴨川自然王国の会員になって田植 えや草取り、芋や大豆作りに参加するのもいいし、畑を借りて小屋を建てて週末農作業をやるのでもいい。定年を機に田舎に引っ越して、農業は無理でも米と野 菜の自給くらいは達成しようというならそれに越したことはない。石原莞爾は戦後、“国民皆農”を主唱して自らも実践したが、実際、二一世紀の日本はそれが 最大のテーマだ」と藤本は言った。田舎暮らしというよりも、都会と田舎を自由闊達に行き来する複合生活空間を上手に身近に配置すべきであり、そのために鴨 川自然王国をもっとみんなに活用して貰いたいというのが、彼の考えだった。

 3つには、特に晩年の藤本は、若い世代が農的生活に関心を向けるようになることに期待をかけていた。我々やそのちょっと下の団塊世代はいずれ還暦を迎え て、その中の少なくとも一部は田舎暮らしに向かうだろう。しかしこの世代が出来ることは先鞭をつけることだけで、そこで拓かれた道を辿ってそのジュニアや もっと若い人たちが、最初からの人生戦略として農的生活を目指すようにならなければ日本は変わらない、と彼は言った。その遺言のような期待は、早くも鴨川 自然王国において現実となりつつあって、藤本の死と入れ替わるようにして王国には数人の三〇歳代の若者がスタッフとして身を投じ、そのうち二人は揃って一 昨年地元で結婚してそれぞれに子供を設けた。年に五回開いている帰農塾でも、最近は二〇歳代、三〇歳代の受講生が過半を占めるようになった。その人たち や、私が毎年王国に稲刈り合宿に連れてくるゼミ学生たちの中には、生まれて初めて田んぼに入って泥だらけになると、それだけで人生観がでんぐり返ってし まって、卒業したら会社に就職というだけが人生ではなく、もっと多様で豊かな仕事の仕方、人生の送り方があるんだと目覚めてしまう者もいる。王国の事業は 藤本国王亡き後、加藤登紀子女王(永六輔さんによれば皇太后)とヤエ王女に引き継がれ、自称官房長官の私も近くに引っ越して、これからますますここが若い 人たちに生きる力を与える場になるようにしていきたいと思っている。

人生曼荼羅の一角に“農”のある生き方を

 こうして、私にとっての鴨川移住は、まだ時折誤解する人がいるのだが、引退でも引きこもりでも都落ちでもなく、まさに土に根ざした人生二毛作目の出発で ある。本業の方で《ざ・こもんず》という新たな挑戦的事業を起ち上げている最中なので、東京と鴨川を行き来する私の二都物語はしばらくは慌ただしいものと なるだろうが、それを通じて私の人生曼荼羅はなおさら豊穣さを増していくことだろう。本物の太陽はこれから次第に光度を増して行って、一〇〇億年先には直 径が今の一〇〇倍、光度は五〇〇倍にもなるほどの大爆発を起こして消滅するのだそうだが、小太陽である自分も、先へ行くほど発光力を増して、最後は曼荼羅 図が金色に輝いて大爆発しながら死を迎えるという過剰なほどのイメージを持って後半生を生きていきたい。

 そう思って、私の個人ホームページを五〜六年前から「高野孟の極私的情報曼荼羅」と名付け、表紙は図2のようにまさに曼荼羅風にデザインした。それをもう少し詳し く、マインドマップ的に展開したのが図3で ある。私は自分のゼミの第一回授業でこれを見せて、「これが俺だ。諸君も“自分”をどう図化出来るか、来週までにどんな幼稚でもいいから描いてこい。そし て一年間のゼミを終えてもう一度描いて、自分がどのくらい成長したか確かめてみろ」と宣言する。中には、駅から下宿までの道順まで描き込む奴がいたりし て、訳が分からないのもあるが、それでも、こうやって自分は誰であるか――ということは誰のお陰で今の自分が成り立っているのかを確かめた上で、さて、で は、これから社会との関わりの中でどう生きていくかを一枚の絵にしてみて、それを毎年正月に炬燵で駅伝かラグビーでも見ながら改訂新版を作るよう習慣づけ るのも悪くない。曼荼羅はもちろん仏教的宇宙観を図示したものだが、それを心理療法に採り入れたのはユンクで、それは無意識下にあるものまで意識化させな がら、その中心に浮かび上がってくる自分像を表象させるための手段だという。

 これから人生二毛作目に踏み込もうとする団塊やそれに続く世代の皆さんの場合は、こうやって自分を図化することで迷いが吹っ切れたり、取り組むべき中心 課題が鮮明になったりするかもしれない。しかし、まだ一毛作目の若い皆さんにとっては、これまで二〇年か三〇年の自分は何であったのかをしっかりと確認 し、一度溜め込むようにして元気よく自信を持って第一歩を踏み出して貰いたいと思う。そうすれば、社会に出てからまだウロウロと自分探しをしているような 不格好なことになるはずがない。そして若い皆さんがそのように自分の人生戦略を一枚の絵に描き切れた時には、その曼荼羅のどこか一角には必ず“農”の一字 が書き込まれているにちがいないというのが私の確信である。▲