「もうひとつの日常」としての安房鴨川……藤本敏夫の提起

[鴨川自然王国の“国王”である藤本敏夫さんは、15年前から鴨川・大田代に家を持っていますが、来年2月に同集落の組長に選ばれるのを契機に、現在は東京にある会社の機能の一部と住まいとを順次、大田代に移し、仕事と暮らしが混然となったライフルタイルを創り出そうとしています。そして、そういう考え方に共鳴する人はどんどん鴨川に来て、それぞれなりのやり方で一緒に新しいコミュニティづくりに取り組んでほしいと呼びかけています。以下は、藤本さんの高野宛の98年8月17日付および9月26日付の私信から関連部分を抜粋し、1つのアピール文に編集したもの。]


 来年2月の鴨川・大田代集落の組長に選出されるのを半年後に控えて、鴨川の山中に生活の拠点を移し直し、ライフスタイルを少し本気で考えようという気持です。「運動する」「事業する」ということではなく、「生活する」ということにとても魅力があり、生活すること自体が運動であり、事業であるという時代がやってきたように思うのです。

 生活と離れて運動するのは、とても疲れて、気力、体力、知力のおとろえを思わざるをえません。森と草原の接点たる中山間地に都市集中の人々が移動し、情報を中心とした先端技術を駆使しながら、自然共生型の新たなライフスタイルを作りあげることができれば素晴らしいことです。「都市か農村か」という旧来の二者択一論ではなく、都市も農村も良い所を共に享受しうるような生活様式がそろそろ考えられてよいのでしょう。 健康、環境、教育という焦眉の課題に対するために、多目的農業の現場たる中山間地に日本民族大移動を始めるべきです。  いずれにしてもキーワードは「健康」と「環境」で、その切り口は「食」と「農」だと思っています。それが「生活安全保障」の内実でしょう。と、まあ相変わらず書生っぽく考えるくせは直らないのですが、ともかく「楽しい生活」が必要です。

 私の考えは次のようだと思って下さい。

1)このまま行くと人類とやらはもう駄目かもしれない。

2)万物にライフサイクルがあるから人類だっていつかは滅びるのだが、そのサイクルがとても早まるかもしれない。

3)西洋のインテリジェンスは20世紀初めに近未来人類の2つの可能性を暗示した。1つはジョージ・オーウェルの「1984年」で徹底管理社会を、2つはオルダス・ハックスレイの「猿と本質」で核戦争を予見した。

4)今日は更に地球環境の悪化と遺伝子危機が加わって、状況はかなりヤバイと思う。

5)しかし諦観に沈むには色気がありすぎる我身なので、危機の進展と表裏一体となって芽生えている新しい状況に注目したいし、それしか再生の方法はないと思う。

6)新しい状況とは、新しい生活原理への人々の渇望(まだ潜在的だが)であり、その生活原理に基づく生活様式の確立(新たなライフスタイル)の動きである。

7)それは現代世界の領導理念である「豊かさ」と「便利さ」の延長上にはないものであり、かつそれらの対極に「倫理」と「自給」を置いて展望すべきものでもない。(その今日的な極相にポルポトや金正日がいると思う。)

8)新しい思いは言ってみれば合理主義でない「合理性」と、自然主義でない「自然性」を有するものといえる。

9)そこで、僕は合理性と自然性の合一した原点を里山に見いだしたいという訳です。

 人の手が入らなければ死んでしまうが、人が入りすぎても死んでしまう微妙な存在空間。この里山という空間に対応する術を磨けば、地球という自然、人間という自然への対応等もおのずと分かるに違いない。つまり里山に手を入れるということは自分自身の在り様を計ることと同じだと思うのです。ということで南房総の嶺岡山中、大田代組への対応となっているのです。

 東京と大田代の関係はどうでしょうか。東京の生活を「日常」と定義すれば、大田代は「非日常」ではなく「もう1つの日常」ということになりましょう。東京の「日常」に対して「非日常」として登場したのが旧来型の観光、リゾートでした。そこは非日常ですから、東京の厳しい日常生活とは反対の「プリンス&プリンセス」を錯覚できる仕掛けが必要で、結果として豪華な施設の乱立を生みました。  それは軽薄な成金趣味を満足させるだけで、非日常のシンデレラ体験が逆に日常のやりきれなさを倍増させたといえます。そこで、弁証法の助けを借りるまでもなく、「日常」を質的に転換させるには「非日常」でなく「もう1つの日常」が必要だということになります。

 「もう1つの日常」は日常であって日常でない、すこぶる怪しげな時空間です。この怪しげな時空間が房総半島嶺岡山中なのですが、この時空間への関係の方法は幾通りかあります。概要すれば関係の仕方は、(1)一過性の観光、(2)滞在型リゾート、(3)半定住、(4)定住――となりますが、東京の人間は自分の可能性、好みに合わせそのいずれかを選択することになります。たまたま来て適当に遊ぶもよし、畑を借りて定期的に滞在するのもよし、別荘を作り年間3カ月は居住するのもよし、ということです。

 それらのどれを選択しようと、そのことに価値判断、序列を付けないことが大切で、遊ぼうが、生活しようが、勉強しようが、それはその人の勝手。ただし、健康と環境に負荷をかけないという共通の前提はあります。

 さて、最後に、鴨川嶺岡山中における僕のプランの骨格です。

1)半年〜1年半で東京の会社の体制を変革し、経営企画室を大田代に移す。スタッフは2〜3名。

2)農事組合法人の体制を強化し、地元の受け皿組織とする。福井、石田の2名に組合運営の主体となる対応を要求し、高野さん、鈴木さんにも準組合員として相談役的に入ってもらう。

3)組合の所属機関として「嶺岡T&T(Trunk & Tranqui=貯蔵と安息)研究所」を設立し、健康と環境に貢献する生活原理、生活様式、生活環境の研究を通して里山での生活案内を行う。都市組の頭でっかちグループは研究員となって「もう1つの日常」を実践しつつ、遊びながら時代をうかがう。

4)当面は、皆が各自、独立独歩で無理なくやりつつ協力して、状況を成熟させる。

5)宿泊、レストラン、生活プログラム(遊びと生産)を1年で整え、メンバー共通の生活基盤を作る。

 いずれにしても、現在段階で可能なことを洗い出し、各人の対応の仕方を各人が可能な形で決定する。その各人の方針を皆で可能な限り応援・協力し合う、ということでいかがでしょうか。当面は僕が先行しているので、地元との話し合いも含めてプランをその都度出して、検討してもらう土俵作りをします。▲


《文献2》

半農耕・半電脳的生活への模索

 [98年10月20日に最初に会社の鴨川移転を社内に提起した時の一文です。]


■ ――安房鴨川再訪についての高野報告

 去る9月12〜13両日、安房鴨川の大田代にある「鴨川自然王国」を再訪しました。藤本敏夫氏、その友人の作家の朴慶南さん、「オーガニック認証検査コンサルタント」という珍しい肩書きの水野葉子さん、もう1人若い女性、自治労の鈴木英幸氏、そのお仲間の「農ネットワーク」の浅井幸雄氏(横浜)と今井辰雄氏(郡山)、高野のご近所の木工の工芸家である馬場健二氏、さらに現地に週2回通ってツリーハウス村建設を推進している平賀義規氏(横浜)の計10名でした。(写真は、左から自治労・鈴木、藤本、高野、地元の小原の各氏が森林作業から戻ったところ)

 今井氏は林業試験場に勤め、これも珍しい「樹木医」の肩書きを持つ森林の専門家で、木の見方や手入れの仕方、杉林の間伐の仕方、チェーンソーの扱い方などを教えて貰って大変勉強になりました。一同はまた、すでに完成したツリーハウス第1号の周りに木や草が生い茂っているので、今井氏の指導を受けながら枝打ちや下草刈りに汗を流しました。枝を打つといっても、どこまでが幹でどこからが枝かを見極めずにいきなり鋸や鉈を振るうわけにはいかないのだということを知りました。夜は、自然王国の一角にある山賊クラブの山小屋で、鴨川市内から仕入れてきた鰹を鈴木氏がさばき、浜金谷で買ってきたタコを馬場氏が茹で、さらに女性たちが料理の腕をふるっての大宴会で、山賊クラブのお頭の福井訊氏はじめ近所の農家や陶芸家、この村にエアプラントの温室を持ちその隣に自宅を建設中の佐々木氏(川崎)といった現地の方々と痛飲しました。

 大田代は、東京湾側の浜金谷・保田から行っても、太平洋岸の安房鴨川から行っても車で20〜30分、長狭街道から南に入った標高300メートルほどのところにあります。街道から入って山にさしかかると「大山の千枚田」がありみごとな景観をなしています。さらに5分ほど上がると大田代の部落で、20軒ほどの農家があり、その一番奥まったあたりが自然王国=藤本宅です。部落一帯を見下ろす小高い丘の上に山賊クラブの山小屋があり、それを過ぎて少し谷のほうに下ったところに藤本氏とお母さんが住んでいる家とゲストハウス、大きな庭、山羊が1匹いる小牧場があります。

 藤本氏の考えでは、自宅横の夏みかん畑になっている土地を借りて自分らが住む小屋を新築し、その前庭にオリーブ畑を作る実験を始める一方、現在の家を共通スペースとして開放し、明るい2階の広間を事務所にしてINS回線を引き、下の台所・食堂を宴会スペースとし、2つの寝室を泊まりたい人が泊まれるようにする予定です。その広間の事務所スペースには、ツリーハウスの平賀氏の(株)ガンコ山(すでに登記上は移転済み)、藤本氏の「自然王国」の業務の一部が入りますが、さらに我々が机1つを構えることは十分に可能です。

 私としては、取りあえず今年中にもその藤本宅の2階に(株)インサイダー/ウェブキャスターの本拠を移転させたいと考えています。それで週に1回か2週に1回、1泊2日ないし2泊3日で行くようにしながら半農耕・半電脳的生活を少しずつ始め、やがて村の人たちと交流を深め信頼を得る中で、古い農家を借りるとか、あるいは土地だけ借りて家を建てるとか、もっと定着度を深める方策を探っていきたいと思います。農家の人たちは都会人には警戒的で、家や土地が空いているからといって右から左へ契約ベースで貸してくれたり売ってくれたりするわけではないのです。若干の農地や杉林は、すでに藤本氏が借りたり使用許可を得ているところもあるので、米や野菜を作ったり、森林作業を学んだり、ツリーハウスを建てたりすることを始めるには不自由はありません。

 そういうわけで、六本木の現在の事務所の年内撤収、小さな東京連絡所開設は予定通り進めたいのでよろしくお願いします。 ▲
 


《文献3》

自分自身の“世紀末的転換”

 [上と同じ時期に藤本氏のアピールに対する返書として書いた一文です。]

 この世紀末を、世界と日本の過去100年のトラウマを一気に乗り越えるチャンスにしようというのは、89年前後、旧ソ連・東欧の崩壊の現場を飛び回って取材していた時からの私の一貫した問題意識でした。

 核と戦争の世紀、過剰な技術と巨大システムの世紀、浪費と飽食その反面での飢餓と貧困の世紀、石油と環境破壊の世紀……われわれが抱えている問題のすべては、「冷戦後」でも「戦後」でもなく1つの「世紀」の終わりという100年単位の思考を通じてしか乗り越えようがなく、今の日本の金融的ふしだらさえも、「バブル後」とか「戦後体制」とかではなく、1889年明治憲法によって定式化されたこの国の近代国家システムとその中での大蔵省を頂点としたお上にお任せの発展途上国型のシステムと発想の超克という「今が100年目」という視点に立たない限り解決はないのだと思います。

 この10年ほど、そういうスタンスで論評を繰り出し、またそれを国内だけでなく世界に訴える手段としてインターネットによるメディア実験にも取り組み、さらには報道者としての法を超えて旧(鳩菅)民主党の結成に手を貸すなど、いろいろやってきて、たぶん今後もそういうことは続けるのでしょうが、しかしその中で私の中に次第に芽生えてきたのは、東京中心のシステムの破壊を唱えながら自分は相変わらず東京圏に暮らし、文明の過剰を批判しながら自分はろくに自然に親しみそれを育む努力をするわけでもないといった自分自身の在りように対する疑問でした。

 94年、ちょうど50歳を迎えた年に、藤本さんはじめ昭和19年生まれの人たちに呼びかけて「一休会」(一九と、ちょっとここらで一休みをかけている)を始めたのも、還暦までの10年間、少し自分の在り方を別の角度から考え直してみたいという気持からのことでした。それを通じて、藤本さんと改めて親しく交わるようになり、やがて藤本さんの紹介で帯広の平林さんたちと知り合い、これまでに6回、帯広の牧場を訪れては馬に乗り、渓流で遊び、手作りの地ビールとソーセージを楽しむ機会を得ました。その中で、これを東京人の身勝手な「一過性の観光」にとどめるのでなく、十勝の自然や地元・十勝人たちとの触れあいの場として「十勝自然王国=十勝渓流塾」を作ろうという話が盛り上がり、1年越しの議論の末に、いまようやく「無理のない」形での計画がまとまりつつあるところです。

 その議論の中で私が言ったのは「生活空間の多重化」ということでした。東京での仕事と生活は、いきなり止めるわけにはいかない筋合いであり、だからといってたまにレジャーとしての旅に出て疲れを癒し、再び意を決して東京に帰っていくというのではなく、自分自身がそれぞれに性格も目的も異なるいくつかの生活空間を持って、今どき電子的手段の助けも借りながら、それらの間を自由に移動しながら最適の仕事と遊びの見境のつかないミックスを追求することができるのではないか、という意味でした。それが、藤本さんの言う「もう1つの日常」という考えと通じると思います。

 十勝での議論の中では、十勝を最初の成功例にして、安房鴨川もあるし、沖縄にも作ろうと思えば「自然王国」を作れるという話が出ました。それを伝え聞いた鳩山由紀夫さんからは日高にもそういうものを作りたい人たちがいるという話もありました。私自身は、モンゴルやパラオやエストニアやオーストラリアのシドニー郊外にも作りたいと思っていて、やろうと思えばすぐにやれる条件があります。しかし、何もかもわれわれでやれるわけではないし、残りの人生も長くないので、夢は夢として成り行きに任せておいて、取りあえず十勝を形にしながら、もっと身近な(つまり、いきなり脱東京という具合にもいかない中で半定住的なライフスタイルを実現しうる)拠点として、安房鴨川の可能性を考えるというところに到達したのです。

 私の考えは、藤本さんの言う「半定住」で、およそ次のようなことです。

1)いまインサイダーと、インターネット方面をやっているウェブキャスターという2つの会社の事務所が六本木にありますが、これを年内に撤収します(6カ月前通告なのですでに8月末をもって大家に通告しました)。東京に何もないというわけにもいかないので、住み慣れた六本木あたりに小さな部屋を借りるかして「東京連絡所」とし、インターネットのサーバーなどはそこに置きます。

2)2つの会社(うちウェブキャスターのほうはすでに清算する段取りに入っていて、業務をインサイダーに移管しますが、いろいろな関係で形の上では当分存続します)の登記上の本拠を安房鴨川に年内に移させてもらいます。取りあえず、藤本さんの自宅の2階に机1つ借りることになります。私自身は、出来れば週に1回、それが難しくても隔週、1泊2日か2泊3日で大田代に行って、仕事をしたり、遊んだり、初歩的な農作業や山林作業にも取り組みます。

3)それで地元の方々とも交わりを深めつつ、いずれ大田代に若干の土地を借りて古民家を移築するか、空き農家を借りて改築・再生するかして、そこそこの広さの家を確保し、そこを事務所兼住居とし、住民票も移します。現在の横浜の住まいを引き払うつもりは今のところはなく、最初のうちは、形式上は、会社も住所も本拠が大田代にはなりますが、実際上は、横浜が自宅、大田代が仕事場兼別荘という使い方になるでしょうが、たぶんそのバランスは変わって行き、大田代に比重がかかることになるでしょう。

4)農家の再生もしくは古民家の移築には前から関心があり、なおかつ昨年結成されたNPO「日本民家再生リサイクル協会」の理事長の佐藤彰啓くんというのが私の大学時代の友人であり、また私がかつて勤めた広告企画会社で一緒に仕事をした仲間でもあるので、支援・助言を頼もうと思っています。もし大田代や周辺の方々が、少し組織的にそういうことを考えたいということであれば、私が個人的に佐藤くんに手助けを頼むという以上の関係をその協会と結ぶことも可能です。また前回に一緒に行った木工家の馬場さんは、木を使った住空間の設計も手がけているので、力になって貰えるでしょう。ちなみに馬場さんは、巨木を用いた大型テーブルなどを作っていて、現在の横浜市内の工房が手狭で困っているので、大田代に第2工房を設けられないかと模索しています。

5)事務所のスタッフは、今までもほぼそうだったのですが、今後はより明確に、最小限必要な人間だけ契約関係を結び、それぞれは自立自活しながらそれぞれなりにインサイダーの仕事を担い、たまに家族連れで大田代に遊びに来るということになるでしょう。私の家内はこの計画に100%納得しているわけではないですが、それならば家内は横浜を本拠として大田代を別荘として使い、私は大田代を本拠として横浜を別荘にするということで全く問題はないでしょう。今でも私は、地方や東京泊まりがあって週の半分くらいしか自宅に帰りませんから、大した変わりはありません。

6)ツリーハウスについては、上記2)の段階で1軒持つということも考えられますし、またかなり早期に3)の段階が実現するのであれば本格的に家を建てることを優先することになるでしょう。その場合でもうちのスタッフの福利施設(?)として1軒確保し、知り合いを含めて自由に使ってもらうということもありえます。

7)というわけで、3分の1は東京や地方回り、3分の1は横浜、3分の1は大田代という具合に生活空間を多重化しようということです。それで十勝は、さらに「もう1つの生活空間」として、時折2泊で遊びに行ったり、夏は数週間過ごしたりすることになるのでしょう。

 半定住など、しょせんは都会人の半端な田舎趣味の域を出ないことは分かっていますが、とにかく六本木に諸掛かりまで入れて月に100万もかかるような事務所を維持するために汲々としたり、何に使っているのか分からないうちに何十万もの生活・遊興費を費やしているような東京中心の暮らしがホトホト、馬鹿らしくなってきたのは事実です。田舎暮らしはいまブームで、八重洲ブックセンターの地下に行くとその手の単行本や雑誌やムックが100冊ほども並んでいますが、その1つ農文協の「現代農業」別冊『田園住宅』を見ると、英国帰りで東京で通訳の仕事をしていた女性がやむを得ない事情で山梨の山中にパッシブ・ソーラハウスを建てて移り住んだとたんに、東京での仕事が虚飾に思えてきて止めてしまい、自給自足中心で(税金・年金・保険の支払いも含めて!)月5万円で十分豊かな暮らしを営んでいるという話があって、うらやましく思いました。彼女は言っています。 「少ないお金で快適に暮らせれば、収入も少なくていい。ならば生産も少量でよく、結果として環境への負荷も少なくてすむ。これぞ21世紀型ライフスタイルと心密かに自惚れている」 「バブル期を経て私たちの暮らしはブクブクの水ブクレ。その水ブクレ生活を維持するために、景気回復が最優先課題となる? もうこのへんで発想を変え、不況を機に、暮らしを洗い直したらどうだろう。本当に必要なお金は案外ささやかな額かもしれない」

 バブル当時から人一倍バブル批判を続けてきた私ですが、実は私の東京中心の暮らしも気付かぬうちにバブル化してこのままでは後戻り出来なくなるのかもしれないことを彼女の言葉から思い知らされました。半定住とはいえ、私は私なりに本気で考えていることをご理解下さい。▲


《文献4》

樹<ツリーハウス>の上の「もうひとつの日常」(平賀義規)

[平賀さんは、横浜に本拠を置く(株)カンキョー計画の社長で、またマウンテンバイクのグループのリーダー格でもあります。私たちが帯広の平林さんの牧場に遊びに行った時、そこに以前から自転車仲間と共に来ていた平賀さんらと知り合い、その縁で鴨川の方にも来るようになって、今では社名を(株)ガンコ山とし、本拠を大田代の藤本さん宅に移転して、村の共有林や藤本さんの3000本の杉山などを活用してツリーハウスヴィレッを建設する計画に熱心に取り組んでいます。ガンコ山とは、自然王国の近くにそびえる急峻な独立峰で、われわれが現地に行くと必ず一度は登って景観と涼風を楽しむところです(高野ホームページの写真参照)。ツリーハウスの第1号のモデルハウスはすでに完成し(写真参照)、さらに去る10月3日には、仲間が家族も含めて25人結集して「山賊養成所」を自然王国内に開きました。ツリーハウス体験、ガンコ山ハイキング、芋掘り、陶芸教室など盛りだくさんのその催しの様子は、『グッディ』という親子アウトドア雑誌の11月10日発売の号に掲載されるのでお読み下さい。以下は、平賀さんより送られてきた“決意表明”の要旨です。98年11月5日高野記]


 《ツリーハウス事業の目指すもの》

嶺岡でツリーハウスビレッジ事業を行う目的は、第1に、都下に住むわれわれの食、住環境など、いわば本源的な生活基盤の安全保障のための学び舎、あるいは実験場にすることである。

 里山に立脚するツリーハウスを核とする生活のための建築と設備は、比較的容易(コストを含めて)にわれわれに最低限度の生活の安全保障技術を教えてくれる。最低限と言っても、これが里山を守って来た人々の技術や知恵と相俟って、われわれに残される最後のヒューマンで文化的な砦であるかもしれない。そういう土台を忘れてしまって、われわれの生活の砂上の楼閣化が進んでいるような気がする。

 自分たち自身の自主・自立・自治の精神と技術を身につける努力が必要である。そして、先人の知恵と技術を受け継ぐ山賊の民にも習い、共同して新しい文明たる生産拠点、コミュニティが出来れば、方舟“嶺岡自然王国丸”に乗船して持続可能な航海に出ることが出来るかもしれない。

 第2に、私自身の事業家としての有り得べき姿を求めることである。事業家の視点に立つと、日本の経済社会の閉塞は、これまでの「経済成長率」の枠組みで超えることは出来ない。環境破壊は地球の容量を超え、先進国の大量収奪・大量生産・大量消費・大量廃棄のサイクルでは地球はもたなくなっている。われわれ自身の経済社会は、特に第三世界の農山村や辺境から資源・環境・生活を収奪して彼らに低開発を強いることの裏返しとして成り立っている。環境的な制約が成長を鈍化させるが、そのことがかえって資本のグローバル化による椅子取りゲーム的な競争を苛烈なものにし、今や種子や生命までもが特許の対象として多国籍企業の手中でコントロールされようとしている。

 今や私のような零細事業家は、このまま不公正・不正義の収奪依存の経済社会に留まろうとするのか、新たなる価値観の経済社会を追求するのかを、自分の生活防衛の観点から選択する時に来ている。

 環境問題の深刻化やグローバル・スタンダードと称する動きに対して、もっとヒューマンで文化的な、藤本さん言うところのエコロジカル・スタンダードを追求し、われわれの生活の安全を保障するような事業と、未来のための持続可能な生活のための設計図作りが、われわれ自身にとって必要であり、その舞台と材料が私にとっての嶺岡であると考えている。

《ツリーハウスヴィレッヂの考え方》

 もうひとつの日常あるいは多重空間を生活しこなすこと。

 一人の人間、家族が多重の日常空間と文化を持つことによって、それが今後の生活の安全保障の道につながり、生きていくエネルギーの源になる。

(1)自然王国のツリーハウスヴィレッヂの特徴は、樹上生活という「非日常的と思われる空間」を、もうひとつの「日常的生活空間」として具現化する点である。

(2)自然王国ガンコ山のツリーハウスは、樹上生活のできる居住性を重視して、建築的設備的要件を備える。

(3)ツリーハウスヴィレッジは、里山としての環境と共存する。大自然に浸ったり、自然を傍観するのでなく、里山での営みを通して自然と能動的な接触をする。

(4)ツリーハウスヴィレッヂは、伝統技術と現代の技術を融合して持続可能な社会と生活の設計図作りの縮図となる。

(5)ツリーハウスそのものは、建築的に在来工法、オリジナル工法の二つを基本とし、本職の大工の技術とあいまって安全である。

(6)設備的には、大規模集約的なものは設けず、それぞれのハウスユニットが独立して、あるいは部分的に共同して、エネルギーを自立して供給、使用する。薪、雨水浄化などの地域の特性に合わせた生活設備でコストと環境を調和させる。エコロジカルな資源循環的ヴィレッヂを目指す。

(7)ツリーハウスは、地元の豊富にある材料を有効に使うため、結果として、仕切り、ランニングコストとも安価である。建築には杉の背板・間伐材、燃料には薪・竹炭・シュロの木と、そこでの材を使うため、限りなく低コストになる。


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