ユーラシア史を見直す(3) [INSIDER NO.280 92年9月15日号より]
漢民族とは何か?
モンゴルをはじめとした北方の遊牧騎馬民族の側からロシア史を再吟味するというアプローチは、中国史にもアナロジカルに適用することができる。すでに何度も引用した岡田英弘『世界史の誕生』は、その視点から見た中国史を絵解きしているが、同じ著者は83年に初版の出た橋本萬太郎編『漢民族と中国社会』(民族の世界史5、山川出版社)の第1章「東アジアにおける民族」で詳しく扱っている。橋本が書いた序章「漢字文化圏の形成」、第2章「ことばと民族」の内容も併せて以下に要約する。
問題の核心は、何か太古以来不変の漢民族というものが黄河中流を中心にあって、それが蛮夷戎狄と呼ばれた周辺の野蛮な外敵に攻められたり逆に攻め込んだりしながらも、連綿として王朝を築いて今日の中華人民共和国に至っているといった、万世一系的な漢民族王朝史観を軸として中国史のみならず日本史を含めたアジア史を眺めるという幻覚をきっぱりと断ち切ることである。
■夏はタイ系?
中国の政治的・文化的中心地は、10世紀に北宋が起こって杭州に都を移すまでは、一貫して黄河中流の洛陽盆地周辺にあった。そこは、中国のみならず東アジア全体の南北の陸路と水路をつなぐ結節点であり、また稲作を可能にする湿潤な気候帯と北方の麦・雑穀中心の寒冷乾燥の気候帯との接点にあたるため、古くから生活形態を異にする諸民族が出会う場所であった。
岡田によると、後の漢民族が「中華」というのは、要するにこの洛陽盆地のことであり、東夷・南蛮・西戎・北狄[とうい・なんばん・せいじゅう・ほくてき]というのもそこを中心にして見た場合の周辺諸民族の住地を指した呼び名である。ところが実は、その蛮夷戎狄(略して四夷)とは別の漢民族があらかじめ存在したかに思うのは錯覚で、四夷の中から洛陽盆地に入って王朝を建てた者が他と重なり合いながら次第に漢民族となって、彼らがまた外の者たちを四夷呼ばわりしたのであって、その意味で「中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の概念であって、人種としては蛮夷戎狄の子孫である」ということになる。
知られている限り、最初に洛陽盆地に王朝を建てたのは「夏」で、これは龍神伝説を持つ東南アジア系=タイ系の水上商業民が東夷の地から入ってきたものと考えられている。東夷とは黄河・淮河下流の大デルタ地帯の住民で、その南の今の浙江省・福建省・広東省からべトナムの海岸地帯にかけては広く「越」が分布していた。越は、稲を栽培し、米と魚を常食とし、船に乗って海や川を往来することを得意とする民族で、龍神を信じていた。夏はこれと密接な関連があったと見られる。漢字を発明したのは恐らく東夷で、それが夏人によって東南方から盆地に持ち込まれ、次の殷王朝によって甲骨文字に発展したものらしい。
■殷・周・秦も……
夏を滅ぼした「殷」は、北狄すなわち盆地から北の山西高原、内モンゴル、大興安嶺の森林地帯から南下してきた狩猟民族である。遊牧民の娘がつばめが落とした卵を呑んだら妊娠して神の子を産んだという始祖伝説のパターンは、夫余・高句麗・鮮卑、それに後に清朝を建てた女真族に至るまで、東北の狩猟民族に共通する。次の「周」は、元は山西高原の西南の渓谷にいて、犬戎という遊牧民に押されて西方の渭河上流に出、やがて盆地に出て来たもので、姜原という女神が巨人の足跡を踏んで妊娠したという始祖伝説からして、東北チベット系の遊牧民の羌[きょう]族と見られる。その周に代わって渭河の渓谷に発展したのが、やはり西戎の出身である「秦」。西戎とは陜西省・甘粛省南部の草原の遊牧民のことである。
世は春秋戦国の時代で、華北・華中に各王国があって覇を競ったが、そのうち秦の強力な相手だったのは「斉」と「楚」で、斉は西戎の1つの羌族、楚はもとは長江上流にいた南蛮の出身である。
■漢民族の生成
戦国時代を終わらせて前221年に初めて華北・華中を統一したのが秦の始皇帝であることは言うまでもないが、前210年に彼が死んで統一が破れ、またも多くの王国が乱立、その中から「漢」が台頭して前141年の武帝の即位の頃までに華北・華中をほぼおさえた。それから「新」をはさんで「後漢」が滅びる紀元222年までの間に、長安の都を中心に都市文明が栄え、儒教が国教化され、それに伴って漢字の知識が普及して、初めて「中国」とそれを担う主体としての「漢民族」という観念が形成された。
しかし中国とは、後に誤解されたように「世界の中心」といった誇大妄想的な意味なのではなかった。彼らにとって「国」とは市場を中心とした城郭都市のことで、その都市の中に住み着いて戸籍を持ち、夫役・兵役の義務を果たし、職種に応じて決まっている服装をする者は、出身が何であろうと「中国人」であってそのような人種がいたわけではなかった。その外に住む者は四夷だが、それをそう呼んだ「中国人」も実体としては四夷出身者かその混合物にすぎなかった。
当然、中国の中ではいろいろな言葉が語られ、それらの共通の通信手設とするために一種の人工的な符号の体系として漢字が用いられた。漢語ないし中国語という言語があってそのさまざまの方言が生まれたのでなく、四夷諸族が市場で取り引きする際に用いられた片言の共通語を基礎として、それを便宜的かつ不完全な形で文字に書き表すために生み出されたのが漢語である。
■匈奴帝国
秦・漢の統一帝国は、それ自体が中央ユーラシア系の狩猟民・遊牧民(北狄・西戎)の文化と、東南アジア系の農耕民・海洋民(東夷・南蛮)の文化との合成の上に成り立ったものだが、しかしその統一帝国の版図は想像されるより狭く、北の遊牧帝国=匈奴と南の海洋民=南越に挟まれてその脅威にさらされた。
匈奴の君主の称号は「単于(ぜんう)」といい、冒頓単于が現われて初めてモンゴル高原を統一したのは、秦の始皇帝が死んで項羽と後に漢の高祖となる劉邦が天下を二分して争っていた時期のことである。
匈奴帝国は多くの遊牧民の部族の連合体で、左賢王・右賢王はじめ24人の部族長がそれぞれ1万人から数千人の騎兵を率いて「万騎」と呼ばれ、その下に千長・百長・什長と十進法による組織があった。全体は左方と右方に分かれ、左方はモンゴル高原東部にあって北京以東、満洲・朝鮮半島方面を担当し、右方は同じく西部にあって陜西以西、中央アジア方面を担当した。単于自身の宮廷は山西に面した中央にあった。このような遊牧帝国の形態は、それ以後のすべてのモンゴル系、中央アジア系によって踏襲されるモデルとなった。
匈奴は漢に対して軍事的に優勢で、前200年の最初の衝突で破れた漢の高祖は単于に手厚い贈り物をして和睦を図リ、漢の皇族の娘を嫁がせ、毎年絹織物・酒・米などを贈って兄弟の関係を結んだ。しかし紀元8年、漢に王奔が出て、前漢を乗っ取って「新」王朝を建てると和親は破れ、匈奴が北辺に侵入、それがもとで新は乱れ、わずか15年で新が滅んで後漢の世になる。
ところが匈奴にも内紛があり、今の外モンゴルの北匈奴と内モンゴルの南匈奴に分裂、南匈奴と後漢が連合して北匈奴を討った。北匈奴の残党は中央アジアから西に逃げ、やがて280年も経った紀元370年頃、黒海北岸のステップに姿を現して東ゴート人の王国を征服する。そのゴート人がローマ領内に逃げたことがきっかけで「ゲルマン人の大移動」が起き、ヨーロッパの古代を終わらせるのである。
■鮮卑系の新=漢民族
他方、北匈奴がいなくなったモンゴル高原では、1世紀末、鮮卑という別の遊牧民が台頭し、部族を統合した。後漢は繁栄するが、発達した都市の貧民の間に宗教的な秘密結社が成長し、やがて184年に「黄巾の乱」という大反乱が起きる。それをきっかけに後漢は乱れ、半世紀もの権力抗争と内乱が続いて5000万の人ロが一挙に400万に激減、華北ではほとんど住民が絶滅した。その真空地帯に北方から鮮卑はじめ南匈奴、羯[かつ]、羌などの「五胡」が移り住んだ。
呉・蜀・魏の三国時代は、魏を乗っ取った「晋」によって統一されるが、305年に山西に居た南匈奴が独立したのを機に「十六国の乱」となる。「北魏」を名乗る鮮卑がようやく華北を統一するのが439年であり、その時漢民族系の晋は南に逃れて南京に南朝を建てるが、南朝といってもそれは東夷・南蛮に囲まれて点だけを確保した亡命政権にすぎなかった。
北魏の鮮卑は588年、南朝を滅ぼして全国続一を果たして「随」を建て、さらに「唐」を作る。随も唐も、北朝時代に実現した鮮卑系の王族と漢民族の貴族・知識人の結合を基礎にした王朝で、その意味では後漢や晋までの古い漢民族はいったん滅亡して、新しく北方の血を入れ直す格好で新しい漢民族の歴史が始まったのだと言える。
■北方に移る政治重心
鮮卑の唐王朝は、狭い意味の中国の統一政権であっただけでなく、東北アジア、北アジア、中央アジアに広く勢力を広げ、東北では大興安嶺東斜面の半農半牧民=契丹(キタイ)族、北では5世紀半ばにモンゴル高原に出現した突蕨(トルコ)系のウイグル族や沙陀族などを中国の商業網に結び付けて大いに発展し、唐の高宗に至っては、モンゴルから中央アジアの遊牧民たちによって自分たちの君主である「テングリ・カガン(天可汗)」に選挙されて、中国皇帝と中央ユーラシアの遊牧帝国のカガンという2つの位を兼任した。
しかしそのことは、結果的に北方遊牧民をより一層中国政治に介入させることとなり、ウイグル帝国の勃興、トルコ系沙陀族出身の華北支配と五代(うち3代はトルコ系)時代を呼び寄せて唐の滅亡を早めた。
960年にようやく、600年ぶりの漢民族王朝=北宋が出て、杭州を都として町人文化が栄えたものの、北方には契丹が「遼」を建て、朝鮮の高麗、トルコ語系の西ウイグル、チベット系の西夏などを服属させただけでなく、宋に対しても脅威を与えて朝貢させた。軍事力では騎馬民族にかなわないが、文化の上では優位にあると思い込みたい宋のコンプレックスが、この時代にことさらに「中華思想」を強調する傾向を生んだ。
■金から元へ
契丹の遼帝国は1125年に、ツング一ス系の狩猟民=女真族に滅ぼされる。「金」帝国を名乗る女真族は、その翌年には宋に侵入して開封を占領した。彼らは、満洲の森林地帯に定着した狩猟民で、農業も行なっていたので、契丹帝国からその制度を引き継ぎながら、それを中国型の都市文明とうまく結合させた。その領土は内モンゴルから華北で、南の杭州には宋の残党が南宋を建てて南朝を称した。また外モンゴルにはまだ契丹の系統が力を持ったが、彼らはやがて西に流れて今のカザフスタンに西遼を建て、中央アジアのイスラム世界を支配した。契丹の出て行った後のモンゴル高原に急速に台頭してきたのは、もとはバイカル湖東部から出た遊牧民=モンゴルで、1206年までに金帝国の外の遊牧民はことごとくモンゴルの支配下に入った。
この年の春、モンゴルの勇将テムジンは多数の遊牧民の部族代表が集まった大会議で、彼らの共通の最高指導者に選挙され、「チンギス・ハーン」の称号を与えられた。以後、彼とその一族は……、
▼1205年、西夏王国を攻め始め、22年をかけてこれを滅ぼした。
▼1209年、天山のウイグル帝国を西遼から離反させて服属させた。
▼1210年、金と断交して攻撃を開始、1234年に至って金を完全に滅ぼした。
▼1218年、西遼帝国を滅ぼしてカザフスタン東部まで勢力を広げた。
▼1219年、トルコ系イスラム国家であるセルジュク・トルコ朝の後継者=ホラズム帝国を攻め、7年間で征服する。北インド平原にまで勢力が及んだ。
▼1234年、ウラル河以西の征服を開始、ブルガル人、キプチャク人、ルーシ、北コーカサス諸族を支配し、ポーランド、ハンガリーを攻撃し、オーストリアにまで達した。
▼1253年、雲南のタイ人=大理王国を征服。
▼1258年、バグダードを攻略しアッバース朝を滅ぼし、さらにエジプトの征服を目指すがこれには失敗した。
▼1259年、高麗を服属。
▼1260年、チベットの教主を代理人に任命して支配。
▼1276年、華中・華南に残っていた南宋を滅ぼした……。
こうして、漢民族の「正統」は再び断絶し、トルコ、ウイグル、契丹、金と発展を遂げてきた別の「正統」が中国を呑み込んで、全ユーラシア的な一大遊牧帝国の一部に組み入れたのである。
1368年、元朝は「明」朝にとって代わられ、外モンゴルの父祖の地に引き上げていくが、そこで「北元」としてなお200年あまり続く。明は北宋以来の漢民族政権だが、制度や文化は完全にモンゴル化されていた。明末の16世紀後半には、北方から再び金の末喬である女真族が力を増して満洲から華北に進出、「後金」と称するようになる。内モンゴルにあった元のチンギス・ハーンの子孫は、後金の太宗ホンタイジが北方遊牧民のハーンに選ぱれる選挙に参加、モンゴルのお墨付きを得た形で女真族は「清」朝を興す。明が最終的に滅びたのは1644年である。
清は、元の正統の後継者として、再び北アジアと中国を統合、1697年には外モンゴルを、1720年にはチベットを、1759年には新彊ウイグルを併合し、さらに李氏朝鮮をも服属させて、北アジアと中国の統合帝国としては史上最大の版図を持つに至った。繰り返すが、これは契丹、トルコ、ウイグル、女真=金、モンゴルと続いてきた北方騎馬遊牧民族の建設・征服事業の発展の帰結であって、漢民族はあくまで脇役でしかなかったのである。
■日本・朝鮮の関わり
以上、主として岡田の大胆な中国史観を少し詳しく紹介した。学界主流から言えばこれは異説であり、いろいろ議論のあるところだろうが、問題の核心は、冒頭にも述べたように、前漢に仕えた司馬遷が前100年頃に著した『史記』に始まる中国風の「正史」のスタイルを鵜呑みにして、中国に一貫して唯一正統の統治権が存在して、それがいつも誰かから誰かに受け継がれ続けてきたかのように見ることの幻想性に目を向けることである。中国自身はもとより、日本の歴史研究者の間でも未だにまかり通っているその正統幻想を卒業しないかぎり、日本の歴史の真実も見えてこないし、また朝鮮半島を含めた東アジアで(現在のような国境がなかった数千年もの間に)ダイナミックに展開されてきた全ユーラシア的に連動した政治や経済の実相に近づくことも出来ないのではないか。中国は漢、満、蒙(モンゴル)、回(イスラム)、蔵(チベット)の五族共和から成り立っていて、その中では漢がやはり中心で、他の4つやその他の少数民族を不断に同化させつつ自らを形成してきた——という見方も成り立つかもしれない。自分を相対化して見ることの出来る中国人のインテリの中にはそういう言い方をする人もいる。しかし、その真ん中にいたはずの漢民族が、岡田の言うように実は蛮夷戎秋の混合物にすぎないのだとしたら、ある意味で中国史の中心はとてつもない空虚が支配してきたということになるのだろうか。
いずれにしても、このことに思いを馳せることなしには、今後の中国に起こりうる激動の規模と質を占うことは難しい。なぜなら、それこそ今はユーラシア大陸の全体が19〜20世紀の「近代国家」の枠結みを超えた大変動に入っていて、中国でこれから起ころうとしていることはその一部でしかありえないからである。◆