農と言える日本・通信 No.25  2000-04-17      高野 孟



●続々・ドングリ論争

 本通信No.23では、本通信読者の方々の間で飛び交った意見に励まされた平林英明さんが、決然として市役所に行って寄付を願い下げにしてきたところまでを伝えました。

 その後、議論は一段と深化して、ついに極めつけとも言うべき専門家の説得的な意見も寄せられました。私の主宰する『インサイダー』4月15日号では、本通信No.21、23、そして本号でお伝えするところまでの経緯を要約・整理して5ページを費やして報告しましたが(小渕入院と森内閣の話は片隅に追いやられてしまいしました──こっちのほうが余程大事なので)、ここではその内容を取り入れつつ、しかし『インサイダー』では誌面の制約上、一部の要約のみとなっている部分を原資料のまま掲載することにします。

《十勝毎日新聞も参戦》

 これまで主な報道と論争の場は北海道新聞でしたが、十勝地方ではメジャーの十勝毎日新聞が3月26日付でドングリ論争に参戦しました。勝毎は単なる新聞社ではなく、文化、レジャーから食品まで多角的な事業を営むコングロマリットとして十勝経済界の主流をなしているのに対し、平林さんとその仲間は非主流というか傍流(はっきり言って変わり者扱い)。しかも勝毎は平林さんの「帯広ビール」のライバルである「十勝ビール」も経営しています。当然、平林叩きに回るのかと思いきや、そこは大人で、道新よりよほどバランスのとれた記事を掲げました。記事の全文次の通り。



 帯広ビールが製造した発泡酒「どんぐりゴッコ」の始まりは、平林社長や市内の会社役員などが集まり「昔はドングリを拾って食べたりしたもの。何かに活用できないか」という好奇心から。「どうせなら、自然体験が少なくなっている子供たちと一緒に、遊び感覚でビールを造ろう」と「ドングリ銀行」を設立した。子供たちからドングリを1キロ百円で買い取り、販売したビール1本につき百円を帯広の森の整備基金に充てるとした。ドングリは管内だけでなく別海や中標津など道東一円の18人から、計290キロが集まった。そのうち30キロをビールの原料とし、400リットルを造った。

 しかし、発売と同時に、「エゾリスなど貴重な小動物がえさとするドングリを採取するのは間題」など自然保護や生態系の破壊を埋由にドングリの採取に反対する手紙や電子メールでこれまで寄せられた反対の声は14件。その中には、「一企業の商品のために子供を使って森の資源を集めるのはいかがなものか」といった声もあった。こうした市民感情に配慮し、帯広市が今月11日に販売代金の一部を寄付として受け取ることを一時保留する事態にまで発展してしまった。

 一連の「ドングリ騒動」について平林社長は、「あくまでも森を残していこうというのがビール造りの柱。子供たちやその親が森に触れ、楽しみながらドングリを集めてもらう。それがビールにもなり、森の育成にもつながるという趣旨なのに、ここまで批判されるとは思わなかった」と話す。採取方法も、地域を限定して取っているわけでなく、道東から広く浅く集められているので、生態系は守られると主張する。

 ビールへの反対の声は、ドングリを採取した子供や親たちにも戸惑いとして広がっている。小学校低学年の子供と採取した幕別町の主婦は「庭に実るドングリを有効に使おうと子供と拾っただけ。自然保護も分かるが、これまであった自然林や森を切り開いて造られた道路などの方が批判対象になるのでは」と話す。

 百年記念館の池田亨嘉学芸員は、「市内の森のドングリを調査している帯広畜産大学の学生は、ドングリの数が最近になって減り続けていると報告している。1990年の段階で、市街地の自然林は全体の4%という少なさ。「自然と触れ合う」と考えるには、それに応えるだけの容量を持っていない」とする。

 またドングリが実った場合、98%が何らかの動植物に活用される貴重な資源であることも強調。「たかがドングリかもしれないが、もっと危機意識を持たなくてはならない。ビールを造り続けるためには、どこの場所でこれだけ取ってもいいという管理的な採取方法が大切。今回の論争を、森とのかかわり方や生態系を考え直す機会とし、身の回りの自然林を増やそうという動きになれば」と言う。

 帯広ビールは23日、市への寄付を撤回し、管内や本州などでドングリや森の育成活動をする民間団体に奇付する考え。平林社長は「批判には直接答えていきたいし、話し合いの中から最良の方法が見つかればいい」と話している。



 

 十勝在住デザイナーで「十勝渓流塾」の中心メンバーである吉田政勝さんは、北海道新聞帯広支局でこの問題を担当してきた升田記者について「頭がシンプルですわ」と言っていましたが、実際、同紙の内部でも、十勝毎日新聞でさえバランスをとった記事を出しているのに……という批判が出たようで、そのためか4月9日付の道新には初めて、賛否両論を対等に扱う特集が出ました。以下全文。



▼柳川久=帯広畜産大学助教授の反対意見 

 発泡酒造りの人たちが、子供が森に親しむようにという発想を持つことには賛成です。しかし、それを商業ベースに乗せるのはどうでしょうか。いくらドングリを集める量を制限したり、地域を分けたとしてもきちんと歯止めがかけられるでしょうか。疑問です。自然を知るきっかけにするというのなら、コマややじろべえを一、二個作れるくらい集めれば十分。この程度なら目くじらを立てなくていいと思います。

 森の中のドングリは、非常に栄養価の優れたものです。ヒグマやエゾシカなどの大きな動物から、タヌキやシマリス、カケスなど多くの動物が頼っています。昆虫や微生物もそうです。これらの動物はドングリを食べてふんを出せば、土壌微生物が分解します。食べられずに腐っても、森の木々の養分に生まれ変わるわけです。ドングリは、動物がすぐ食べなくても貯蔵することができます。森という単位のサイクルで回っているんです。ある程度の量なら森が回復する余地もありますが、人間が入ってドングリを採れば、貴重なエネルギーを奪ったり、微妙なパランスを壊すことになります。森の中にドングリが落ちていても、それは無駄ではないんです。

 でも、どのくらいの量を採っていいか、その数の判断は難しい。研究者でもズバリと言える人はいないはずです。ドングリは実がなる年と、ならない年がありますし、該当する森でどのくらいの動物がドングリに依存しているのか、地域やその年でも違うからです。ドングリの豊作、不作で動物の個体数が増滅するなど、自然は微妙に調節する力を持っています。生態系のバランスがあるんです。ドングリを採ることは、森に親しむことを奨励しながら一方で森を破壊することにつながるんです。個人で所有している森なのだから、いくらドングリを採ってもいい、そんな発想はナンセンスです。森のためというなら、もう少し勉強した方がよいでしょう。自然に対する配慮が欠けていると思います。

▼平林英明さんの賛成意見

 僕たちの造ったドングリ発泡酒が批判にさらされ、正直言って戸惑っています。反対する人の意見にはきちんと耳を傾け、参考にしますが、ドングリの発泡酒をやめるつもりはありません。今でもいいアイデアで、快挙だと思っていますから。自宅がある帯広市拓成の森にはドングリの実がたくさん落ちており、あり余っていると思いました。ボクは仕事で地ビールを造っているわけですから、当然ドングリの地ビールを造ってみたいと思ったわけです。造る以上、採った分を森に還元しよう。集めるなら森に親しむ機会が少ない子供たちに手伝ってもらおう。一キロ百円というお小遣いをあげるのも社会参加の一環として認めてもらえるだろう。そんな考えでした。

 その後、いろんな人から届く手紙やインターネットのメールを読み、帯広市内は意外と森が少なく、ドングリの実も危機的な状況であることを知りました。譲歩する意味でも、帯広ではドングリ集めをやめてもっと全国のいろんな地域から集める考えです。ドングリを送ってくれた人には往復はがきで連絡を取り、集めた場所やそこで採った量を教えてもらいます。発泡酒を飲めない子供に集めさせるのはおかしいとの指摘もあるので、子供だけでの採集は控えてもらいます。森や自然のことを親子でじっくり話し合ってもらい、親子で採ることにしたら問題はないでしょう。あくまでも納得したうえでやってもらう予定です。

 ただ、ドングリを一切採ったらだめ、というような熱狂的な意見はどうも承服できません。何も採ってはだめだって言っていたら、漁業だってシカ猟だって同じことではありませんか。子供たちが集める程度のものなら、統計上でも何ら影響しないくらいの量だと思います。普通の生活をしながら、面白いものを造って楽しむ。企業として利益も出して、きちんと税金も出す。すべてが社会の循環作用に入っているじやないですか。いいシステムを構築したつもりです。いずれにしても発泡酒は造り続けます。



 

《香川県のドングリ銀行の経験》

 さて、この間に吉田さんは、香川県が前々から、子供たちにドングリを集めさせてそれを緑化に役立てる「ドングリ銀行」の活動を進めているのを知って、県ホームページを通じて問い合わせたところ、次のような回答がありました。回答者は、県農林水産部林務課の企画担当で、同銀行の事務局を支えているOさんで、やはり森林というものをよく知っている方の意見だと思いました。



【どれぐらいのどんぐりが集まるか】

 平成4年度から始まったドングリ銀行活動は、8年目になり、これまで発行した通帳数は1万冊を越え、2年間の有効期限内にある通帳数も約4000冊あります(そのうち約15%は県外からで、北海道ほか34都道府県にわたっています)。集まるドングリは100万個を越えると予想され(正確には集計していません)、重さでも1トン〜2トンになります。

 これらのドングリの活用方法としては、払い戻し用苗木の育苗のほかドングリ食体験(ドングリ煎餅やドングリコーヒーなど)の原材料に使われていますが、その量は全体から見るとごくわずかでして、大半は地元砕石事業協同組合が砕石場法面の緑化を行う「ドングリグリーン作戦」や治山事業の緑化などに供されています。ドングリの販売については、これまでも苗木業者から依頼が何度かありましたが、こちら側の問題としてクヌギとアベマキのドングリの選別が不可能なことをお断りしてきています。

【拾い過ぎによる野生動物への影響】

 多くのどんぐりを集めることから、野生動物に影響がでるのではないかという心配があります。もちろん全く影響はないとはいえませんが、おそらく子供達のほとんどは、森に行っても遊歩道の近くで拾ってきます。森の中に分け入って拾おうとしても、なかなか見つけられるものでもないし、なによりそこにネズミなどの小動物がいれば、子供達が拾う前に動物の方が先に手にいれてしまっているでしょうし、その量は森全体で生産されるドングリのごく一部と考えられますので、その影響は小さいと考えています。現在のところ、香川県内からはこのことへの批判は起きていません。

【人と森のかかわりについて】

 私たちが森林に係われば自然に対して何らかのインパクトを与えることは避けられません。それは木を伐ったり、道をつけたりということで直接的な影響を与えることもありますし、最近では酸性雨とか地球温暖化のようにまったく関係ない場所での人間活動が自然に大きなインパクトを与えることも問題となっています。

 林業は、過去より自然の再生力の範囲で持続的に林産物を得る行為として成り立ってきました。それは生長量の範囲内で収穫を確保するという「恒続林思想」のような形で受け継がれてきた訳で、林業の目指すところは、自然と人間の調和であり、けっして自然破壊ではないと考えています。燃料・肥料革命が起きるまでの私たちの暮らしは、森林から得られる木材のみならず落
葉・落枝にまで依存して生活しており、それは森林利用であるとともに、見方を変えれば森林収奪であり、結果としての森林荒廃がもたらす「白砂青松」を長く原風景として大切にしてきたことを考えると、この関係は、ひとつの「文化」を表現しているのではないかと思います。

 香川の里山でおきている象徴的な現象は、マツ林が病虫害まん延により枯れ、人間がかかわりを放棄することで落葉広葉樹林(クヌギ・コナラ林)や常緑広葉樹林(シイ・カシ・・ツバキ林)に自然遷移していますが、その過程で、明るいマツ林に随伴して生育していたオンツツジやコバノミツバツツジなどはどんどん個体数が減少していることです。このことは、自然度は向上するのですが、人間との関わりがなく、価値が見失われ転用・開発されるとしたら、自然に一切手をつけないことが現代において本当に自然保護につながるのかと疑問が生じます。また、生物多様性確保の観点からも問題があり、森林ボランティアという形でこれまで林業とは関係のなかった人たちの参加も得て、香川では里山保全活動がすすめられて、代償植生レベルでの自然度コントロールが試みられています。

 中世のヨーロッパでは、数百年にわたって林間放牧が盛んに行われ、特にブタの飼育のためにミズナラ林が管理されていたようです。それは、ミズナラのドングリを食べて育ったブタから作られるハムは極上のハムとして評価されたためで、その当時の人々はドングリの実の豊凶に一喜一憂したと伝えられています。おそらくブタにドングリを食べさすことが自然破壊だとは、当時は誰も考えなかったと思います。
 したがいまして、貴地でドングリをビールの原料として採取することの是非などについては、そこで住む住人の方の「文化」の問題と考えますので、地元で十分議論を尽くされることを望みます。



 

 香川県で子供たちに何トンもドングリを拾わせて批判が起きないのは、それを主として緑化に活用しているからで、十勝ではそれでビールを造ったから騒動になったのです。ところが、獲ったドングリを何に使うかという問題と、それだけ獲ることが自然破壊になるかどうかの問題は次元が別で、香川県で数トン獲って自然破壊にならないのに、十勝で数十〜数百キロ獲ったらダメだと言うには、その根拠を示さなければならないでしょう。

 大体、ドングリを手つかずのまま自然の中に置いておかなければならないとする考え方そのものが、まことに近代的というか、戦後高度成長による自然破壊的開発の裏返しであって、日本人は縄文以来、大量のドングリを採取して貯蔵し、粉、餅、団子、パン状もしくはこんにゃく状の加工品にして食用に供してきただけでなく、それを常食しなくなった後もごく最近まで農山村では非常用食料としてドングリを貯蔵する習慣があった。また堅くて乾いても変形しないドングリは、こま、弥次郎兵衛、笛、人形、数珠玉など玩具や装飾品としても活用されてきました。

 そのようなドングリ文化は、中国、朝鮮半島、日本にかけてのいわゆる「ナラ林文化圏」に共通する文化基盤であって、さらにそれは北米先住民や、香川県からの報告が言うように、フランスを中心とするヨーロッパとも共通します。ヨーロッパでも古代から食用とされ、穀物で作ったパンを常用するようになっても、飢饉の時には食べたという記録が数多く残っています。中世ヨーロッパでは、ブタの群を森に連れて行って、ドングリを叩き落として食わせるのが普遍的な飼育法で、そのような行為はブタの森林放牧入会権として法制化されてもいました。ナラ林帯を無自覚に破壊する中で、そういう数千年のドングリ文化を見失ってしまったことのほうが、むしろ問題ではないのでしょうか。

 ことは、ドングリだけの話ではありません。香川県からの報告も指摘しているように、全国で始まっている里山保全運動をめぐっては、森林に手を入れることで植物遷移を適度にコントロールすることが自然保護なのだとする専門家と、「木を切るなんてとんでもない」、手を入れないことが自然保護なのだとする素朴な環境派が対立する場面がよく見られます。あるいは北海道のエゾシカによる農産物被害に関しても、人間の開発行為によって森林の生態系が崩れてシカが増えすぎているのだから、適度に駆除しなければならないという専門家と、「バンビちゃんを殺すなんて」という一般の感情的な反発とがぶつかります。なぜ後者が素朴で感情的なのかと言うと、人間生活そのものが最大の自然破壊要因なのだという自覚を欠いているからです。人間は何もしなくても既に十分に自然破壊的であり、そうならばその自然破壊性を自覚的にコントロールすることが必要で、それがつまり自然との共生ということになるのでしょう。
 

《本物の専門家の意見》

 さて、こうしてドングリ論争が深化する中で、平林さんの立場を強力にサポートする本物の専門家の意見が現れました。十勝の一角である浦幌町の道有林管理センター経営課に勤める新田紀敏さんが、上記9日付道新の賛否両論を読んで平林宛に送ってきたメールがそれで、これを読むと、香川県からの報告の趣旨がもっと具体的に浮かび上がる一方、今まで帯広の新聞に出てきた“専門家”が実は専門家でも何でもなかったことがよく分かります。



平林さんへ

 新聞紙上での、ドングリ論争に注目していた者です。9日の道新にかなりまとまった意見が載っていたので、私も意見を言ってみたくなりました。

 私は十勝で林業(といっても公務員ですが)をしているもので、学生時代は森林動物の生態研究をしていました。現在でも結構勉強しているつもりで、木と動物両方の都合をかなり知っているつもりです。

 結論からいいます。子供達が拾えるようなドングリは動物には影響を与えないでしょう。

 ドングリの大量消費者は、ネズミとシカ・クマだと思います。詳細はよくわかっていませんが、消化酵素(解毒酵素だったかもしれない、ドングリはタンニンが多いので)の関係でリスはドングリを好まないようです。そこで、動物への影響をネズミとシカ・クマに分けて考えます。

 シカ・クマと子供達の棲み分けは簡単です。シカやクマが住む森の中へ子供達がドングリを拾いにいくわけはないし、そんな山奥へドングリ拾いに子供達を連れていく親もいないでしょう。私は仕事で山の中を歩いていますが、山の中にはドングリも多いでしょうが、植物が茂っていて人間が拾うには無理な場所がほとんどです。したがって、ドングリ拾いがシカやクマを脅かす可能性は考えなくて良いでしょう。

 ではネズミ、もっと広く小動物はどうでしょうか。研究者の実験によると、地面に落ちたドングリは速やかにネズミ類によって持ち去られます。大量にあってもほとんど3日のうちになくなります。それほどネズミはドングリが好きで、ドングリへの依存度が大きいと言えます。では、ドングリ拾いがこのような小動物に影響するでしょうか。依存度が大きい食料なのだから影響大と短絡的に考える人もいるでしょう。

 ちょっと待ってください。私は違うと思います。ここからはそれほど根拠のある話ではありませんが、おそらくかなり正しいと思っています。

 小動物達はドングリに依存している。秋になると彼らは毎日必死でドングリを集めています。どんなにたくさん落ちても3日でなくなるほどです。それではどうして、のろまで、草の中に落ちたものは見えない、それほど必死になっているわけでもない、週に一度日曜日程度にしか来ない人間にドングリが拾えるのでしょうか。

 そうなのです。子供達が拾うようなドングリは、小動物達には利用できないものである可能性が高いのです。一つにはあまりにもたくさん実ったので集めきれない場合。でもこれは時間がたてば動物たちに運ばれて利用されるかもしれません。それにしても影響は少ないと思いますが。

 それよりも多くの場合は、開けた場所に落ちたドングリだと思います。小動物は捕食者(ハヤブサ、フクロウ、キツネ)から身を守るため、隠れるもののない場所へは出ていきません。藪の中に落ちたドングリをにおいを頼りに探すのです(これは実験で確かめられています)。そのために境内、公園、車のほとんど通らない道路といったところのドングリはなかなかなくならないのです。このようなところにはそもそも小動物が住んでいないかもしれません。

 こういう場所こそが、子供達のドングリ拾いの場所ではないですか。動物が利用しないためにたくさんのドングリが落ちている、広くて地面が踏み固められており、植物が生えていない場所、要するに拾いやすい場所で拾えばいいのです。

 これでもう動物との共存を心配して遠慮する必要はなくなりました。拾いやすいドングリだけをありったけ持って来ていいのです。藪の中のものは残してあげましょう。探しにくいし、虫に食われるし、危ないかもしれません。

 ここで見方を変えて、ドングリの木に対する影響も考えてみます。ドングリを付ける木はどれも寿命が長く、数百年間はドングリを落とし続けます。数十年から百年に一本跡継ぎができればいいという程度の余裕ある暮らしをしています。一般的には動物が食べようが、人間が拾おうが彼らの子孫繁栄にはなんら悪影響はないと思います。

 さらに、ドングリの性質として霜に弱いことがあります。開けた場所、霜に当たりやすい場所に落ちたドングリはやがて死んでしまいます。とくに固い地面に落ちたドングリはひからびて朽ちていきます。無駄になるドングリも少なくはないのです。ドングリが木に成長するためには、動物たちに落ち葉の下に埋めてもらう必要があるのです。

 さらにさらに、母樹の下に落ちたドングリは、幸運にも芽を出したとしても上に覆い被さるお母さんのために光を遮られ育つことができません。そのためにも動物たちに運んでもらう必要があったのです。なんと大量のドングリはそのために動物たちに送られたご褒美だったのです。

 しかし、必ずしも思惑どおりにはいきません。人間が環境を変えてしまったからです。でも人間だって木を植えて協力もしています。自然界の思惑からはずれたドングリくらいは利用させてもらっていいのではないでしょうか。

 子供達が自然に親しむ。自分たちが拾ったものが人間の食料になることを知る喜び。これは何物にも代え難いと思います。ルールを教えることも重要です。人間が植えた木、または世話をしている木で拾いやすい安全な場所。こんな最低限のルールなら帯広市内でも十分場所はあるでしょう。

 何か一つのことだけを考えて極端な意見になってしまう人達がいることは残念です。よりよい方法を求めて、子供達の明るい笑顔をめざしてがんばってください。何かの参考になればと思い、つたない私の意見を述べさせてもらいました。読んでいただけたとしたら幸いです。

 なお、文中に引用した実験の結果は、農林水産省森林総合研究所京都支所の斉藤隆=鳥獣研究室長(ネズミ類の研究では国内の第一人者、昨年まで北海道支所、実験は札幌で行ったっもの)が近々発表すると思います。同室長にはこの3月、この問題で意見を聞いたところ、”問題はない、その酒はどこで飲めるのか”とのコメントをもらっています。

 かく言う私も、まだ貴店のビールを飲んでいません。今度機会を作ろうと思います。できれば次回のドングリビールの飲める時期をご連絡いただければ幸せなのですが。道新を読んですぐに書いてます。乱筆、ご無礼ご容赦。



 

 こりゃあ一体何のこっちゃというような話です。

 第1に、この騒動はそもそも、リスの餌を奪うなんて、という感情的反発から始まったのですが、何とリスはそれほどドングリを好まないという。

 第2に、シカやクマはドングリを好むが、彼らがそれを食べるような山の中に人が入ってそれを奪う可能性は絶無である。

 第3に、ドングリの最大消費者はネズミ類だが、彼らは必死になって速やかにドングリを集めるので、人がドングリを集める余地があるとすれば、彼らの余り物か、彼らが生存圏としていない場所であるかのどちらかである。

 第4に、地面に落ちたドングリを小動物が食べたり人が拾ったりしても、ドングリの木の子孫継承には何の関係もない。それに関係があるのはむしろ乱脈な開発による自然破壊である。

 従って第5に、ドングリと小動物の関係についての大権威がドングリビールを飲みたいと言っている……。

 これで一件落着と考えてさしつかえないでしょう。最初に私がこの話を聞いて、批判派の意見は「イワシをたくさん獲ると鯨がかわいそう」という類のオセンチにすぎないと思った直感(No.21参照)は、正しかったことになります。となると道新が論評を求めた藤巻さんや、勝毎が登場させた柳川さんなどの自称専門家たちは、自らの学問的良心を賭けて新田さんの意見に反駁する責任があるし、両新聞はそのような場を設ける義務があります。藤巻さんは、新田さんの意見が出てくる前の段階で、平林さんが論争を望んだのに対して逃げの姿勢を見せたと言います。こういう無責任な人物を帯広畜産大学は雇っておくべきではありません。

 とりわけ、「頭がシンプル」と吉田が評した道新帯広支局の升田記者は、自らの報道姿勢について真面目に省みる必要があります。もちろん記者は、ある問題について一知半解の段階から記事を書かなければならない場合が少なくありません。しかしその時に「本当は何が問題か」についての直感力を欠いたまま、安易に大衆迎合的なオセンチのパターンに流れることほど最悪なことはなく、それによって人々の認識を間違った方向に導いたり、くだらない専門家を持ち上げたり、無実の人を傷つけたりすることの怖さをよほど自覚すべきでしょう。

 あ、ちなみにドングリとは、ブナ科の中のコナラ属の木の実の総称です。ブナ科には他にブナ属、シイ属、マテバシイ属、クリ属などもあって、いずれも堅い殻斗の実をつけることが特徴です。コナラ属には、落葉の椚(クヌギ)類と楢(ナラ)類、常緑の樫(カシ)類とウバメガシの大きく分けて4類があり、世界で500種にのぼります。ヨーロッパに多いのはオーク(oak)で、これは樫と訳されることもありますが、楢類などを含めたコナラ属の総称です。■