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「人生二毛作開拓記」を掲載しました!

 インサイダーで断続連載中の「人生二毛作開拓記」を若干補正し、写真・図などを添えてこのサイトに掲載を始めました。ここをクリックしてご覧下さい。←04年 4月9日

明けましておめでとうございます!

 さしておめでたくも面白くもない新年がまたもや訪れました。世の中のことはともかく、私個人について言うと、今年は還暦。60年という思えば気の遠くな る歳月を、一度として入院するような病気や怪我に遭うこともなく、至って健康で、好き放題のことをして生きて来られたことを、素直にありがたいと感じま す。

 還暦記念の企画はいろいろあって、そのうち私にとって最大のものは、安房鴨川の1000坪余りの山林地主として“人生二毛作”目を歩み始めることです。 年末年始も可能な限り鴨川に足を運んで、草刈りに精を出しているところで、冬のうちに何とか一応切り開いて、敷地の向こう端まで行き着くことが出来るよう にしたいと思っています。しかしまあ、10年以上も放置された茅の密集に野バラが絡んだ藪は凄まじいもので、地表を刈っても地下には20センチほどの深さ まで根が張り巡らされていて、結局、草刈り機では到底間に合わず耕耘機を買って下の方から掘り返すことになるのでしょう。「生きているうちに草刈りが終わ るかな」と思うほどですが、それでも秋には小屋くらいは建てられるようにするつもりです。

 昭和19年生まれの「一休会」の合同還暦パーティの相談も始まっています。一休会は、私たちが50歳になった10年前、私が突然「あと10年で還暦か あ」という感慨に囚われて、周りの同年生まれの人たちに呼びかけて結成した、単なる飲み会ですが、その創始メンバーに故・藤本敏夫がいて、「諸君、人生は 二毛作だ。二毛作と言えば農業だ。21世紀は再び農の世紀にならなければならない」と演説して、それじゃあ一度行ってみようということになり、彼が主宰す る「農事組合法人・鴨川自然王国」を訪れたことが、今日、私がそのすぐ近くで山林を手に入れて移り住むことになった始まりでした。その藤本が1年半前に亡 くなり、王国は今や加藤登紀子さんに引き継がれて、本来の棚田トラスト・大豆畑&味噌造りトラスト・果樹園トラストの活動だけでなく、連合労組の「ふるさ と回帰支援センター」主催の帰農塾の運営、電機労連の「田んぼ」作りとの連携、登紀子さんが主催する環境問題のための「未来たち学校」の開催など、活発な 活動を繰り広げています。藤本がいないのが残念ですが、最近の会合によく顔を出す人を挙げれば、記者では岸井成格(毎日)、中島健一郎(同)、田勢康弘 (日経)、作家では大下英治、テレビ人では梨元勝、政治家では岡崎トミ子、段本幸男、筒井信隆、丹羽雄哉、細田博之、町村信孝、峰崎直樹ら、労働界では鈴 木英幸、元官僚では長野厖士、元知事では北川正恭、アーティストでは田村能里子(壁画家)、山本寛斎(ファッションデザイナー)、音楽家では小椋佳(歌 手)、津田昭治(ギター)、外山喜雄(トランペット)、経営者では呉東富(新橋飯店)などなど多彩な方々。豪華なホテルなど飽きている人が多いので、春に お花見を兼ねて麻布十番温泉の大広間でも借り切るか、などと考えているところです。

 もう1つ、私は草ラグビーチーム「ピンク・エレファンツ」の団長を務め、昨年は結成20周年を盛大に祝ったのですが、同チームでは50歳になると桃色、 60歳になると赤のパンツを授与されて、試合ではそれを着用することになっていて、私が赤パンツの第1号(もっと年上のメンバーもいたのですが今まで生き 残っているのは私だけとうことで)。それを聞いた元ジャパンの伝説的ウィング=藤原優(六本木男声合唱団で同じバス・パート)が「よーし、高野さんの還暦 記念のために俺が“藤原アニマルズ”というチームを結成してオーバー40(40歳以上)の試合をやろう」と言い出して、我がピンクと、ジャパン級が何人も 入ったアニマルズとの試合が実現することになりました。久々に試合に出てトライを上げることが私の初夢になりそうです。←2004年1月1日

安房鴨川に2000坪近い山林を買った!

 千葉県の南房総、鴨川市の山中にある「鴨川自然王国」に通い始めてはや8年。その間ずっと「[21世紀になったら田舎暮らしを」と思い続けていたのです が、このほど縁あって同王国から車で5分ほどの大山不動尊近くに名目1000坪、実質2000坪近い(と地元長老は言う)山林を手に入れて、10年以上 放ったらかしで伸び放題の茅や野バラや笹の藪を切り開く作業に取りかかりました。この経緯については「人生二毛作開墾記」としてインサイダーに断続連載中 で、本サイトでも順次、写真などを添えて公開していく予定です。←2003年10月20日
 

「こだわりの道具大図鑑」のリンクを改定した!

 熱心なウォッチャーの方から、「こだわりの道具大図鑑」を楽しませて貰っているが、リンクがだいぶ切れているのが残念とのご指摘を頂き、そう言えば2年 ほど放ったらかしだったので、道具各ページのリンクを再点検し修正しました。ただし目次ページで「Not Found」と出るのはリンク切れではなく、私が未だ制作中で(なかなか暇がなくて!)アップしていないということです。←2003年8月5日

高知のトヨクニ鍛工所で刃物づくりに取り組んだ!

 土佐市に講演に行った機会に、高知空港から車で20分ほどの南国市亀岩にあるトヨクニ鍛工所を訪れ、小刀と鉈の製作を体験しました。軟鉄に鋼を当てて 1100度の窯で紅色に熱して動力ハンマーで叩いて形にしていくのですが、このハンマーの力加減がなかなか難しくて、軍手と袖口のあいだに火の粉が飛んで 「アッチッチー」などともたもたしているとカネが冷え始めてしまう。それでも何とか形ができて、刃付けは職人さんに任せて、焼き入れをして、小刀は完成。 鉈のほうは後で柄や鞘を付けて届けて貰うということで、半日コースを楽しみました。トヨクニは、95歳でまだ現役鍛冶師のおじいさん、2代目のお父さん、 2 人の息子と親子3代にわたり伝統技術を引き継いで、山林用の鉈からアウトドア用のナイフまで多彩な製品を作っていて、マスコミでもしばしば採り上げられて います。一部の製品は「東急ハンズ」にも常備されていますが、全貌はウェブサイトに詳細に描かれていて、インターネットを通じて注文することも出来ます。 URLはhttp://www.toyokuni.net/です。 ←2003年7月16日

大隈塾ゼミが始まった!

 早稲田大学の「大隈塾」授業が昨年4月から始まり、今年はその受講者200人の中から22人を選抜して「大隈塾ゼミ/インテリジェンスの技法」も始まり ました。いきなり毛沢東『矛盾論・実践論』を読ませちゃったりして、学生は目を白黒させていますが、毎日新聞の岸井成格さんにも加わって貰って「新聞の読 み方」を伝授したり、政経学部の貞広彰教授には「経済の読み方」を講義してもらったり、また学生の自主研究プロジェクトとして「朝毎読3紙の憲法記念日社 説の研究」や「日本地図の読み方」などがスタートしたりと、賑やかなゼミになっています。飲み会も多くて、今時の若い衆との付き合いを楽しんでいます。 ←2003年7月14日、前期授業最終日に

明けましてお目出度いのかどうか?

 秋の間しばらく更新が途絶えて申し訳ありません。藤本が死んだりしたこともあって何やら忙しくて。

 あ、そうだ、新年明けましておめでとうございました──と言いたいのですが、本当にお目出度いのかどうか。「インサイダー」新年号には次のように書きま した。

  ここ数年、明けましておめでとうと言うのもはばかりたくなるような正月ばかりを迎えていますが、2003年はなおさら憂鬱で、米ブッシュ政権が眼を血 走らせるようにして対イラク侵略にのめりこもうとする中で、日本の小泉政権も早々と最新鋭の戦闘艦であるイージス艦をインド洋に派遣して協力姿勢を鮮明に するという、戦争の暗雲が次第に重くたれ込める年末年始となりました。

 たぶんこの戦争は、石油と戦争に明け暮れた20世紀の惰性というかオーバーランとしての最後の石油戦争になるのでしょう。ということは、石油と戦争の上 に築かれたアメリカの帝国とその文明も、これを境に衰亡に向かうのでしょう。その意味では新年は、我々が卒業しそこなっている20世紀をようやく過去帳に 封印するきっかけを掴む年になるのかもしれませんが、それにしても、これまで20年間の戦争続きで150万人の一般市民が死に、そのうち半分は子供だった というイラクで、この上さらにたくさんの人が死ななければならないような戦争が起きてしまう前に、なぜ我々は20世紀を断ち切ることが出来なかったのか。 一人の物書きの出来ることなど知れていて、しょせんジャーナリストには世界を語ることは出来ても世界を動かすことなど出来はしないのですけれど、おのれの 余りの非力に自己嫌悪にも近い焦燥を感じてしまいます。

 だからますます、今年、私は、内山節=甲斐良治的な言い方をすれば(インサイダー前号エディター欄参照)「大きな世界について語る」ことを少なくして、 “農的生活”の実践をはじめとして「小さな世界で自分のやれることをやる」ことを増やすのだと思います。内山さんが言う「人が責任を負える範囲は、そんな に大きいものではないだろうという気がするのです。世界に責任を負える人間などいないし、日本全体に対して責任を持てる人間だっていないでしょう。責任を 持てるとすれば、僕でいえば、せいぜい上野村ぐらいの広さが限界です」という言葉に共感します。ジャーナリストの心意気は「たった一人で全世界を」という ことでいいし、そうでなければなりませんが、しかし責任のとれる範囲ということになると、余り誇大妄想のようなことは言っていられません。

 2002年の私にとってのワーストな出来事は、同志=藤本敏夫の死であり、彼が農的幸福論の拠点にしようとしていた鴨川自然王国の活動を広げて、付近一 帯の大山地区ひいては鴨川市全体の地域再生にまで結びつけていくために、加藤登紀子さんを助けて働くことは、新年の私の大事な仕事となるでしょう。他に、 藤本が代表もしくは委員長をしていた持続循環型農業を推進するための地域統合型リサイクル管理システムを研究する「IRM研究会」と、農業・農産物流通関 係の事業者の交流の場である「パストラルネットワーク」のアドバイザー委員会も、会員の皆さんに請われて私が引き継ぐことになり、すでに活動が始まってい ます。馬に関しても、自分で乗って遊ぶだけでなく、2001〜02年に地元に提案を出した「阿蘇大草原乗馬コース開発」計画や「みちのく馬回廊」構想の具 体化、鴨川への乗馬クラブ誘致、フランスが世界に誇る馬と人の舞踊劇団「ジンガロ」の2005年日本誘致運動の推進など、いろいろあって、いずれもが馬文 化の復興を地域再生の核にしようという目論見に繋がっています。

 自分が還暦近くなってきたせいかどうか、若い人たちに接する機会を増やしたいという思いが強まっています。昨春始まった早稲田大学の全学部対象の「大隈 塾」は、新年度からは、引き続き200名対象の授業を行うだけでなく、初年度履修者の中から20名だけ選別して「インテリジェンスの技法」のゼミを開設し ます。もう20年以上も昔から、「インフォメーションからインテリジェンスへ」をキーワードにして、ジャーナリストの方法論、あるいはそれをさらに拡張し て政治家・ビジネスマン・市民運動家のための戦略的思考論を語ってきましたが、これを機会にそれを整理して学生たちにぶつけ、彼らから学ぶであろう多くの ことをも取り入れて1冊にまとめてみたいと考えているところです。

 若い人と言えば、我が草ラグビーチーム「ピンク・エレファンツ」が新年には20周年を迎えます。金もない、クラブハウスもグランドもない、世代はどんど ん変わっていくということで、一時隆盛を誇っても消えていく草チームも少なくない中で、我がチームがここまで続いてきただけでなく、初期創立メンバーが今 もオーバー40(40歳以上)の試合に出たり、総会だ飲み会だといえば集まってくる、まさに“クラブ”として運営されていることに誇りを持っています。新 年度のキャプテンは金融庁に勤める29歳の若者。私は団長として20周年記念イベントを成功に導きつつ、現役の若い人たちが活躍しやすいような環境を作っ ていくことが役目です。

 クラブライフということでは、もう一つ「六本木男声合唱団」の活動があります。02年は12月12日にあのサントリーホールで初の定期演奏会を行い、約 140名が出演、客席をほぼ満杯にする大成功を収め、また恒例の年末ディナーショーも横浜インターコンチネンタルホテルの600席が一杯になる大盛況でし た。本番近くなると2日にいっぺんも行われる練習になかなか出られないのが悩みですが、来秋にはヨーロッパ公演旅行という無謀な計画も着々進行していて、 励まなくてはなりません。

 まあこうしてみると、どれもが金にならないことばかりで、物好きぶりに自分でもあきれますが、こうしたそれぞれの活動領域がそれぞれに異なる人たちとの 付き合いであり、その集大成がつまりは私のアイデンティティの多様性であるわけで、「仕事=会社が唯一の生き甲斐であるようなシングル・アイデンティティ じゃあ駄目で、仕事がなくなれば抜け殻になってしまう。仕事、家族、地域、趣味、遊び等々マルチ・アイデンティティならどれか1つが失われても生きていけ る」と常々言って歩いている私としては、仕方がないという以上に、まことに満足すべき状態と言えるのです。

 そんなことで、インサイダーを発行し続けることも私のアイデンティティの一部でしかないのですが、出来るだけ「大きい世界」への関心を失わないよう自ら を促しつつ、しかし「小さい世界」にますますこだわりながら、暗鬱な2003年を乗り切っていこうと思いますので、よろしくお付き合いのほどをお願い致し ます。

旅から旅へ……嵐のような8月でした!


 7月31日から8月2日は韓国に「内部告発者」の番組取材で行っていて、藤本の訃報はソウルのホテルで聞きました。30日には家内の母親が亡くなって、 どちらも1日に密葬がありましたが、そんなわけで両方出席できませんでした。2日に戻り、3日に取り敢えず鴨川に駆けつけてお線香を上げました。4日はサ ンデー・プロジェクトに出演、5日から10日まではまた同じ取材で米国。ワシントンDC、ノースカロライナ州ダーラム、テキサス州ダラスをほとんど一泊ず つで駆け回る慌ただしい旅でした。

 内部告発者は、日本では何となく“裏切り者”というニュアンスの暗いイメージがつきまといますが、欧米では“ホイッスル・ブロウワー”、警告を発 する人、社会に警鐘を鳴らす人という言い方をして、特に米国では70年代から勇気ある告発者を保護する法律の整備や、彼らを支援するNPOの活動が進んで います。欧州各国でも法整備が始まっている中、アジアでは韓国が先駆的に今年1月「腐敗防止法」が制定され、それに基づいて「腐敗防止委員会」が発足しま した。その実情を調べて、日本でもそのような法律を作るべきであることを訴えるのが番組の狙いで、9月か10月にサンプロで放映します。

 ワシントンでは、前夜遅く着いて翌朝早くから取材、午後には出発という時間のなさでしたが、ホテルがJWマリオットで隣がプレスビルだったので、 TBSの前「ニュース23」の報道デスクで5月からワシントンに来ている金平茂紀さんを30 分だけ訪ね、それから読売新聞アメリカ総局長の水島敏夫さんに中華街で昼食をごちそうになり ました。金平さんは「ワシントンが特殊なのかもしれないが、この国はすっかり“戦争モード”に入っていて、やっぱり変ですよ」と言っていました。金平さん の「ワシントン日録」の8月6日の 項に「高野が突然現れたが、国務省の会見に行くので昼食を一緒に出来なかった」旨の記述があります。

 10日午後に成田に着いて、そのまま車で鴨川に行ってサツマイモ畑の草取りとジャガイモ掘りの作業とその後の宴会に参加、翌日曜日は作業部隊の皆 さんを送り出してから、加藤登紀子さんや鴨川自然王国のメンバーたちと藤本亡き後の運営問題 を相談。登紀子さんからは、藤本の“いい加減さ”で成り立っていた部分が小さくないのでいろいろ難しいが、自分としては遺志を継いで何とか王国を継承・発 展させていくために支援を惜しまないので、協力してほしいとのお話しがありました。

 12日の月曜日は貯まった事務の処理、9月9日山形市で行われる「農業・農村シンポジウム」の打合せに加えて、藤本「送る会」の相談。最終的に高 野が内モンゴル旅行から途中帰国して実行委員長を務めることになり、そのための中国ビザの取り直しに走るなどバタバタで、翌火曜日には関西空港経由で北京 に旅立ちました。

 この旅は、98年から3年間、外モンゴルの首都ウランバートルへオペラを観に行くツァーを行い、昨年は趣向を変えてウズベキスタンの首都タシケン トに行って日本の代表的オペラ「夕鶴」公演をサポートした延長で、今年は内モンゴルで合唱団の演奏を聴こうということで、東京・大阪を中心に10数人が参 加しました。北京が初めてという方も多かったので、万里の長城、故宮など名所観光、骨董市やニセブランド専門街でショッピング、いま北京で大流行の足裏 マッサージを走り回り、夜はライブハウスで中国で人気トップクラスのロックバンド「痩人」を 聴きました。翌日は飛行機で1時間弱飛んで、内モンゴルの首都フフホトに移動。一泊して翌朝はバスに3時間揺られて大草原のゲル村へ。皆さんはそこでゆっ くり宿泊ですが、私は宴会後に一人フフホトに戻り、翌17日朝6時半の飛行機で北京経由、帰国したのでした。「痩人」については、99年のフジ・ロック・ フェスティバルに招かれて来日した際の日本語による紹介サイト「痩人楽隊」 のほかYahooで検索すると300件近く出てくるので、ご関心ある方はご研究下さい。

 さて成田から夜11時近くに自宅に帰り着くと、留守宅に連絡が届いていて、「帰って来るなら明日18日のサンプロに出てくれ。民主党代表選の立候 補予定者が勢揃いするので、いてくれたほうがいい」とのこと。旅装を解く間もなく午前1時にタクシーに乗って東京・全日空ホテルに入り、翌日は番組後あわ ただしく藤本葬儀に駆けつけたのでした。

 8月25日から3日間は、和歌山県高野山の宿坊に泊まって「ENJIN 01(文化戦略会議)」の合宿。これは、議長=三枝成彰(作曲家)、事務局長=矢内廣(ぴあ社長)を中心とするいわゆる文化人の集まりで、今回は40人ほ どが参加、次のようなセッションを行いました。話は全部面白く、しかも一見バラバラな各テーマが実は尻取りゲームのように繋がっている絶妙さでした。

25日  法会
   曼陀羅の世界1(土生川正道=高野山権大僧正)
   曼陀羅の世界2(田中公明=チベット仏教研究者)
26日  神と国家(中沢新一=宗教学者、宮崎信也=権大僧都、
        ペマ・ギャルボ=チベット文化研究所所長)
   夢見るES細胞(古川俊之=東大名誉教授、西川伸一=京大教授、
           亀井眞樹=代々木公園診療所所長)
   生命の誕生とゲノム(中村桂子=JT生命誌研究館副館長、松井孝典=東大教授)
   夜這論(岩井志麻子=作家、奥田瑛二=俳優、佐伯順子=同志社大教授、
       島田雅彦=作家)
   委員会報告1(税制/加藤秀樹=構想日本代表)
   委員会報告1(教育/林真理子=作家)
27日  世界の文字展望(浅葉克己=アートディレクター、秋尾沙戸子=ジャーナリスト、
           松岡正剛=編集工学研究所所長)

 高野山は何十年も前から行きたかったのに何故か機会がなくて、今回ようやく思いがかないました。と言っても、昼間はセッション、夜は宴会で忙し く、肝心のお山のほうは金剛峰寺や奥の院などを一巡りしただけだったので、もう一度ゆっくりと訪ねるつもりです。←2002年8月28日
 

藤本敏夫が死んでしまった!


 鴨川自然王国代表の藤本敏夫が7月31日、癌が肝臓からリンパ腺、そして肺に転移したとこ ろに肺炎を併発して、たちまち帰らぬ人となりました。最後は、酸素呼吸器で無理矢理呼吸させられるのがむしろ苦しいらしく、「もう、いいだろう!」と言っ て自分でそれを外して、加藤登紀子さんはじめ家族全員に見守られながら、ゆっくりと呼吸するのをやめたそうです。「もう十分に生き、戦った。もう死んでも いいだろう!」ということだったと思います。

 8月18日午後1時から、東京・青山斎場で「藤本敏夫を送る会」が開かれ、私は当初、13〜20日まで内モンゴル旅行中のため欠礼する予定でした が、登紀子さんから同会の実行委員会代表を務めるよう要請があったため、急遽、17日に帰国するよう日程を組み替えて出席しました。台風模様の雨が降る 中、会は、胡弓演奏で始まり、高野挨拶に続いて、筑紫哲也(ジャーナリスト)、内舘牧子(作家)、田中正治(鴨川自然王 国T&T研究所研究員)その他の方々の弔辞、登紀子さんの挨拶と歌、もう1人の実行委員長代表である陶芸家の小笠原藤右衛門さんの締めの言葉があって、次 女=八恵さんの澄んだ歌声が響く中、献花が行われました。

 高野挨拶の概要は以下の通りです。その中でも述べているように、藤本が最後の頃に考えていたことはちょうど死の翌日、8月1日に発売された『現代 農業・増刊』の「青年帰農」特集の中の彼の一文によくまとめられているので、それと併せてお読み頂ければ幸いです。

 同志・藤本敏夫が、死んでしまいました。それは、1つの戦死だったと思います。病と最後の最後まで 戦っただけでなく、何とかしてこの世の中を変えようとして、病院を抜け出して人に会い、会議を招集し、誰かに文書を送りつけて、その死の直前まで戦い続け ました。

 ある程度まで本人も周りも覚悟していたとはいえ、しかし余りに早く唐突に訪れた彼の死を、しっかり と噛みしめつつ、気持ちよく彼を天に送り出そうという今日の集まりに、このようにたくさんの皆さんが参加して頂いたことに、本人になりかわってお礼申し上 げます。鴨川自然王国には山賊小屋と呼ばれる集会所があって、その前には枕木で作った大きなテーブルがあり、農作業を終えて帰ってきた人たちは手足の泥を 落としてそこでビールを飲み始めます。この1年ほどは農作業に加わるだけの体力を失っていた藤本は、それでも夕方にはそのテーブルの議長席のようなところ に座って皆を迎えました。麦わら帽をかぶりタオルを首にかけて、長靴を履いた脚を組んで、そんな恰好をしてもいつもダンディだった彼が、「いやあ今日は申 し訳ないな、僕のためにこんなにたくさん集まってくれて」と言ってニコニコしている姿が目に浮かびます。

 「同志」という言葉も古いですが、同じ志を持って、ということは同じ時代の方角を向いて、一緒に考 え、議論し、行動するのがそれであるとすれば、今日お集まりの皆さんは、人生のある時期において、長いか短いか、ほんの一瞬であるかは別にして、彼に共鳴 し、影響を受け、ある場合には人生を狂わせられるような目に遭ったりもした、それぞれの意味における同志であるに違いありません。1000人いれば 1000の“同志・藤本”像があって、そういうものが、今日、終わり近くに流れるであろう加藤登紀子さんの歌声に乗って、1つの星雲となって空に昇華して いくなら、それが何よりの彼への供養だろうと思います。

 私は彼とは、同じ昭和19年生まれで、学生運動の時代から、大学も党派もかけ離れてはいましたが、 遠目で見て一目置き合っているような関係でした。私は「同志社に凄い奴がいる」と思っていましたが、彼もまた「早稲田に変な奴がいる」と思っていたこと を、後になって告げられました。10年前でしょうか、彼が参院選に出ることを決意した時には、相談があって、麻布十番のおでん屋で長い時間、語り合いまし た。8年前にわれわれが50歳になったときに、私は突然「ああ、あと10年で還暦かあ」という感慨に駆られて、藤本らと語らって「一休会」を作りました。 19年の一九と、「ここらで人生一休み」の一休をかけた会で、多士済々の方々が集まって、仕事仕事でこのまま還暦を迎えてやがてバッタンキューというので いいんだろうか、人生二毛作と言うじゃないか、何か別の生き方・暮らしぶりを考えるべきじゃないか、というようなことを語り合ったのでした。

 その中で藤本は、人生二毛作というなら、まさに土に足をつけた“農的生活”をめざすべきだと主張し ました。そして私をはじめ何人かを帯広の牧場や鴨川の農場に連れて行きました。私はそれにすっかり魅せられて、それ以来、帯広に年何回か通って山野で馬を 乗り回したり、鴨川で農林業ボランティアや棚田トラストの活動に精を出したりすることを生活の一部とするようになって、人生が大きく様変わりしてしまいま した。さらに、自分たちがそうするだけではなくて、農村から都市へという流れを100年目にして大逆転させるための帰農運動を作り出すべく、さまざまな働 きかけを行ってきました。

 彼が最近10年間ほど何を考え行動してきたかは、ちょうど彼の死の翌日に発売になった『現代農業・ 増刊』の「青年帰農」特集に載った彼のインタビューによく集約されていると思います。この季刊雑誌は、いち早く「定年帰農」という言葉を打ち出したことで も知られる、農と食に関わる思想・文化誌として、藤本も常々「いつも世の中の先を行っている」と高く評価していたものですが、それが今度は「青年帰農」と 言い出して、中高年や離職者ばかりでなく、学生や若い人たちのあいだにも農業と農的生活に目を向ける人が増えていることを、豊富な事例を挙げて伝えまし た。「定年帰農」が「青年帰農」へと広がりつつあることを見て、藤本がどれほど喜んだことか、想像に余りあります。

 鴨川自然王国で国王と言われた藤本が、還暦を迎えることなくいなくなってしまって、どうしたらいい か分からない心境ですが、帰農運動の拠点としての鴨川自然王国をどう継承し発展させていくか、登紀子さんと相談しながら担っていくことが、私の使命だと考 えています。

 藤本はいつも同志を求めていました。ある時は激しくアジり、ある時は理路整然と説得し、またある時 は背を向けて「お前ら、俺の背中を見れば分かるだろう」と突き放すような態度を取り、そして周りの者がその気になると、その時には彼はもっと先へ行ってし まっているという風でした。それが彼のスタイルでしたから、仕方がないことだったのでしょう。そして今、我々は最終的に「投げかけられたまま」となりまし た。それにどう答えを出すか、一人一人が問われているのだと思います。万感を込めて、ありがとう、藤本。そして、さようなら。←2002年 8月20日
 

川淵三郎=Jリーグチェアマンの協会会長就任を祝う!


 7月29日に新橋の小料理屋で、川淵三郎さんを囲んでスポーツ評論家の玉木正之二宮清純両氏ほか数名がJリー グチェアマンそしてW杯お疲れさま、サッカー協会会長就任おめでとうという小宴を開きました。

 私は特にサッカーファンという訳ではなく、どちらかと言えばラグビーのほうなのですが、「地域社会の市民パワーにささえられたスポーツクラブ」と いう川淵理念(「Jリーグ100年構想」=Jリーグ公式ホームページhttp://www.j-league.or.jp/参照)に心から賛同して、J リーグ開幕以来、玉木さんらと共に川淵応援団を作って、“宿敵”ナベツネ攻撃の論陣を張るなどしてきました。

 その席で話題になったことの1つは、ちょうど出たばかりの『週刊朝日』7月26日号に載った船橋洋 一=朝日新聞コラムニストによるトルシエ=サッカー日本代表前監督の独占インタビューの中で、中田英寿についてトルシエがびっくりするほど 露骨な言葉遣いでこき下ろしていることをどう見るかということでした。その部分は次の通りです。

トルシエ ……日本ではスターだったが、ヨーロッパに出たらただの人になる。そうすると、日本人の考 え方、文化では『メンツを失う』ということになってしまう。だから、ヨーロッパに行ったけれども試合に出なかった選手が日本に戻ってくると、サングラスを かけて、ちょっとカッコいいジーンズでもはいて、『スター!』という恰好をして、どうしても……自分をスターふうにこしらえてしまう。中田の例をとってみ ましょうか。昨年、彼はイタリアで何試合出ましたか。でも、日本から見れば、全試合出たのと同じなんですよ。1分出場したとしても、その写真を日本のマス コミが撮ってきて、それを1000回も流すじゃないですか。そうすると日本から見れば『おお、スターだなあ』と思う。まあ、これは日本のやり方だから、中 田が悪いわけではないんです。しかし、もっと静かにしておいてやったほうが、彼のためには良かった。すばらしい資質をもっているんですから。イタリアでの 中田は普通の選手か、ちょっと悪いんじゃないかくらいの選手として、とらえられている。日本では現実とのズレが生まれている。マスコミの責任だと思います ね。

船橋 だけど、それでも中田はスターから日本のチームのリーダーへと、それなりに成長したんじゃない ですか。

トルシエ いいえ、それは間違いです。

船橋 間違い?

トルシエ 中田は日本チームのリーダーではありません。あくまでもマスコミによって中田はリーダーに されています。代表チームのリーダーではないのです、彼は。まあでも、せっかく子どもたちがそういう夢を見ているのでしたら、夢をそのままにしておいて やったほうがいいとは思います。

 これにはさすがに船橋さんも驚いて、インタビュー後記で、中田のリーダーへの変貌が日本躍進のをもたらしたという信念を叩き潰されて、自分までが 夢見る子供の1人であるかに扱われて「自尊心がグチャグチャにされていくような気がした」と戸惑いつつ、しかし「いまの日本にはリーダーシップと個人とし ての表現力が決定的に欠けているというトルシエの日本観察はそのどおりではないか」と半ば納得しようとしています。

 川淵さんにこのトルシエの中田評価をどう思うか、尋ねましたが、その答えはまたにべもないものでした。

「嫉妬ですよ、嫉妬。トルシエは、何でも自分が一番でないと気が済まない、まったく子供じみた異常な性格だから、中田にせよ誰にせよ、自分以外の者 がもてはやされるのが面白くない。中田がリーダー? 冗談じゃないよ、日本チームに自分以外にスターもリーダーもいるわけないじゃないか、ということです よ。選手がメディアに大きく採り上げられて、しかもトルシエのやり方にちょっとでも批判がましいことを臭わせたりしたら、もう外される。中村俊輔がそうで すよ。中田だって本当は使いたくなかったが、いくらなんでもそれは出来なかったというだけでね。選手もそれを知っているから、マスコミの取材に対しても、 みんな『頼むから大きく書かないでね。外されるから』といちいち念を押していたほどです」

 玉木、二宮両氏は有名なトルシエ嫌いで私もそうでしたから、そこで酒の勢いもあってトルシエの悪口大会。

「試合中でも、練習した形がうまくいって得点すると『あれは俺が教えたとおりのシュートだ、見たか? あれは俺のシュートだ』と周りに自慢する。う まくいかなくて失点すると『あの選手がバカで俺の言うとおりやらないから悪い』と罵倒する。成功は俺のもの、失敗は部下のもの、というダメな上司、ダメな リーダーの典型だ」

「韓国でもどこでも、決定的な得点を上げたときには選手が監督と抱き合って喜ぶが、日本選手は誰もトルシエに寄ってこないから、トルシエはいつも隣 にいる通訳とだけ抱き合っていた」

「日本選手はトルシエの異常性格にほとほと困って、反トルシエで結束した。だから日本チームはあそこまでまとまったので、そういう意味ではトルシエ は“反面教師”として立派な役目を果たしたということだ」

「トルシエが監督だったのに、日本はあそこまで善戦したんだから、トルシエがいなかったらもう1つ勝ち進んだかも」

「岡野前協会会長がトルシエを甘やかしたんじゃないか。岡野さんでなければ、とっくにクビになっていた」

「『フランス監督ならタダでやってもいい』なんて、あれは裏返せば日本蔑視。日本で稼いだカネで豪邸と別荘まで建てておいて、何だって言うんだ」

 と、まあとどまるところを知らず、途中からはサントリー・ラグビー部の土田雅人監督 もその席に顔を出して、新橋の世は更けていくのでした。トルシエは船橋インタビューの最後では、フランス代表監督への就任について「8割方、決まりそう だ。8月21日のフランス・チュニジア戦が初戦になる」と語っていましたが、そうならなかったのはたぶんフランス・チームにとって幸いだったと見るべきで しょう。

 玉木さんと二宮さんは、トルシエ批判を平気で口にした数少ない論客。しかしメディアでちょっとでもそれを言うと、全盛期の田中真紀子現象と一緒 で、ワーッと抗議の電話やメールが殺到するということを何度も体験したそうです。トルシエは中田がリーダーだというのは「マスコミがつくった幻想」だと言 いましたが、むしろトルシエが名監督であるというマスコミがつくった幻想に多くのサッカーファンは取り憑かれていたのかもしれません。

 念のため付け加えれば、だからと言って中田が無条件ですばらしいということではありません。最近出たばかりの面白い本は高岡英夫=運動科学研究所所長の『ワールドクラスになるためのサッカートレーニング』(メディアファク トリー刊)で、高岡氏が世界一流の条件として挙げている(1)全身の筋肉がトロトロに柔らかいか、(2)太腿の裏側の筋肉(ハムストリング)に頼った足腰 の動きが出来ているか、(3)腸腰筋が使えているか、(4)体軸が出来ているか──に照らしてみると「まだまだ体が開発されきっておらず、世界のトップ選 手とは言えない」のが現実であることは認めなければならないでしょう。高岡氏の身体論、運動科学論は面白いですよ。八重洲ブックセンターの地下1Fのス ポーツ・コーナーの武術・格闘技関係の売り場に行くと、著書やビデオが本棚1つ分も並んでいます。どう面白いかは、いずれまた詳しく述べることがあるで しょう。

 さて、川淵さんが選んだジーコ新監督の下、次の4年間に日本サッカーはどのような成長をみせるのでしょうか。←2002年8月10日

●早稲田大学再生を目指す「大隈塾」が始まった!

 早稲田大学の存在感というか社会的影響力が慶応大学に比べても余りに希薄になってしまったということで、奥島孝康総長と田原総一朗氏が語らって、本年4月から「大隈塾」と称して全学部の1〜2年生対象に200人の志望者を 募って「21世紀日本の設計」をテーマに将来の日本の各分野のリーダーとなりうる人材育成を目的とした単位講座が開設されました。田原氏と高野が新たに客 員教授となり、前から客員教授である寺島実郎=三井物産戦略研究所長、それに政経学部の3教 授とともに教授団=コーディネーター・グループを編成して、外部の政治家、官僚(OB)、経済人、ジャーナリストなどをゲストとして呼び込んで毎回の授業 を行うという趣向です。

 4月15日の第1回=オープニングは、大隈講堂の大会場に小泉純一郎首相をメインゲ ストに迎え、以後は通常の授業として、4月22日岡本行夫(外務省OB)vs田原、5月13 日安倍晋三(内閣官房副長官)vs田原、20日筑 紫哲也(ジャーナリスト)vs高野と続き、さらに27日寺島実郎vs坪井善明=早大教授、6月3日山崎拓(自民党幹事長)vs田原、10日船橋洋一(朝 日新聞特別編集委員)vs高野という具合に展開していきます。

 大隈塾 http://www.waseda.ac.jp/open/ookuma/index.html

 やっぱり今の学生はナイーブというか勉強していないというか、第1回、第2回で日本政府の9・11事件対応の正当性と有事立法の企図を精力的に語 られると、すっかり感動してほとんどが「有事立法賛成」になってしまったことが、毎度学生に感想文を提出させるので、はっきりと見て取れます。そこで5月 20日の筑紫さんと私の授業では、2人に共通する若いときの“沖縄体験”から話を始めて、近代日本で唯一“地上戦”を体験している沖縄の人々から見て、今 回の本土決戦型のシナリオ想定に基づく有事立法は余りに現実とかけ離れていて、本当に「国民の安全」を考えたものなのかどうかまったく疑問があるという話 をしたのですが、そうするとまた大半の学生が「前2回の授業で『有事立法賛成』ですっかり自分が洗脳されていたことが分かった」と、コロリひっくり返って しまうのです。まあそうやって学生の頭を揺さぶるのが狙いですから、それでいいんですが、21世紀を担う若いリーダーを都の西北から育成するのは容易なこ とではなさそうです。

 なお、この日は私は聞き役で、有事立法をめぐる論点の多くに触れる時間がなかったので、i-NSIDER No.65と66に書いたものを統合・加筆して参考資料として掲げておきます。

 高野孟「有事より無事を、法律より 戦略を/問題の組み立てがおかしい有事立法」 ←2002年5月22日

●小淵沢エンデュランス大会で40キロ乗馬レースを完走した!

 5月12日に山梨県小淵沢町で野外乗馬の耐久レース=エンデュランスの大会が開かれ、40キロのレースに 出場、昨秋のタスマニアでの豪州公式競技に続いて2度目の40キロ完走を果たしました。その模様を隔月刊の『乗馬ライフ』に連載中のコラムで次のようにレ ポートしました。

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 5月、山梨県小淵沢町に「エンデュランス文化」が大きく花咲いた。11〜12両日に開催された「八ヶ岳 ホーストレッキング&エンデュランス大会」がそれで、主催した八ヶ岳ホーストレッキング大会実行委員会の委員長は鈴木隆一=小淵沢町長、事務局は同町教育 委員会の中に置かれ、文字通り「町ぐるみのイベント」となった。地方自治体がこれだけ本格的にエンデュランス競技に取り組むというのも、全国初めてのケー スではないだろうか。

 山梨県は、八ヶ岳南麓を中心に乗馬クラブがたくさんあり、小淵沢には県営の馬術競技場もあって、馬 術やホーストレッキングのメッカとも言うべき土地柄。これを地域の特色ある文化として育てつつ観光客の誘致にも役立てようということで、県の農政部畜産課 が「まきばの郷」づくりを推進してきたが、その一環として小淵沢町が2年前に、1周10キロのホーストレッキングコースを整備し、それを使って「八ヶ岳 ホーストレッキング大会」と銘打って5キロ、10キロ、20キロの各トレール競技を開くようになった。そして3回目に当たる今年、初めてエンデュランス競 技を加えることになり、それに合わせて距離も40キロに伸ばすことになったのである。

 11日は、午前中にビギナークラスのための5キロと10キロのトレッキング大会、午後に20キロの エンデュランス大会(トレーニングライド)、そして夕方からはボブ・サンプル=元豪州エンデュランス協会会長の「エンデュランス/完走することが勝つこ と」と題した講演があった。サンプル氏は、30年以上の競技歴と数々の優勝歴を持つ世界的に有名なエンデュランス・ライダーであり、またエンデュランス用 のアラブ種競技馬の飼育家でもある。96年に来日してエンデュランス講習会の講師を務めて以来、日本との関わりも深く、世界選手権で活躍する安永兄妹はじ め多くの日本人ライダーが彼の元で修業を積むなど、日本でのエンデュランス普及の大功労者である。

 12日がエンデュランスの本大会で、9時から40キロのオープン競技とトレーニングライドがスター トした。オープン競技は、国内外の40キロ以上の競技を2回以上完走した選手が有資格で、5時間の制限時間内にゴールし、ゴールから30分後の獣医検査で 心拍数1分間=55以下などの基準をクリアした者の中から、所要時間の短い順に1〜3位が表彰されるほか、ベストコンディションド・ホース賞が選ばれる。 他方、トレーニングライドは、同上の資格を持たないが主催者が出場可能と認めた者による競技で、着順を問わず、完走証とベストコンディションド・ホース賞 だけが与えられる。また、このクラスではゴール前で着順を争うことによる危険を避け、馬の福利を守るため、同着が認められている。その意思を示すには、ラ イダーは馬上で手を繋いでゴールする。いかにもエンデュランスらしいルールである。

 オープン競技には、60歳を超えて米国の160キロ世界選手権に挑戦して話題になった増田光子さん (横浜ズーラシア動物園長)はじめ、著名な選手が出場した。私は、昨秋にタスマニアで40キロの公式競技を完走しただけなので、トレーニングライドのほう に出場し、無事4時間半で完走した。ゴール後の馬体検査で心拍数が多すぎたり跛行したりして失格する人が少なくなかった中で、2度目の40キロ完走を遂げ て次に80キロに挑戦する資格を得たのはうれしかった。

 全部の競技とライドに参加した選手は100人近くに達し、その中には、地元の町会議員さんや町幹部 も含まれていた。いずれも60歳台で、昔、農耕馬に乗ったことはあるが馬術はまったくの素人で、11日の5キロと10キロのトレッキングに参加するため暇 を見つけては特訓したとか。地元の意気込みが窺えるほほえましいエピソードである。

 競技馬は、小淵沢町のクラブだけでなく鳴沢村の紅葉台木曽馬牧場や白州町のホワイトサドルなど、山 梨県内の15の乗馬クラブが全面協力、選手に馬を貸してくれた。それぞれに自慢のいい馬を出してくれたに違いないが、40キロという距離を、抜きつ抜かれ つしたり、折返し点近くの狭い道ですれ違ったりしながらも、自分で馬と相談しながらペース配分して走りきらなければならないエンデュランスには、そのため の普段からの馬の訓練が必要で、そのあたりがこの地でこれからエンデュランスを盛んにしていく上での1つの課題だろう。私は4月に試乗に来て、乗馬ペン ション「フリースペース」の外乗馴れした老練なサラブ系の馬を借りることにしてあったので、まったく問題がなかった。

 エンデュランス競技は、この後も5月軽井沢、6月兵庫県三木と北海道の津別、鹿追町、8月北海道日 高、9月北海道釧路湿原と各地で目白押しで、9月21〜22日には北海道鹿追町で全日本選手権大会が開かれる。さらに、10月に再び北海道津別、11月に も再び小淵沢で開かれることになっていて、ようやく日本でも本格的な定着期を迎えたと言えそうである。←2002年5月15日

●阿蘇の人々と大草原の未来を語り合った!


 5月8日に大分県教育委員会の主催で県下小中学校の校長先生600人が集まる研修会があり、「ゆとり教 育」をめぐる講演とシンポジウムに出ました。大分まで来ているのなら阿蘇まで足を伸ばして、と熊本県産山村で赤牛の自然放牧に取り組んでいる井(い)信行 さんからお呼びがかかって、その夜は井さんの山小屋で宴会、翌日は朝から(財)阿蘇地域振興デザインセンターが主催する地域づくりのための第1回「阿蘇人 (あそびと)塾」で講演し、午後から乗馬を楽しみました。

 井さんは産山村の村会議員を務める村のリーダー格で、阿蘇の大草原で草をたくさん食べて育った健康 な赤牛の肉を自分たちで加工して「うぶやまさわやかビーフ」として販売し、狂牛病事件で牛肉が敬遠される中で、逆に「本当の牛肉とは何か」に目覚めた消費 者から注文が殺到しててんてこ舞いしている、九州ではちょっとした有名人。私は昨年3月に阿蘇大草原の野焼きボランティアに参加した折に知己を得てすっか り意気投合、その肉の味にも大感動し、「輸入濃厚飼料や肉骨粉を食わせ、ビールを飲ませ、ホルモン剤や抗生物質まで投入した病気状態の牛を“霜降り”と 言って有り難がるのはもうやめにしよう」というキャンペーンのお手伝いをしてきました。

 これが本物の“牛肉”であることを知って欲しいという趣旨の紹介文を添えて、あちこち友だちに贈っ ているのですが、これが大好評。島田紳助さんのところに贈ったら、ご本人は「ふーん、こういう牛肉もあるのか」くらいだったのに、大学生の娘さんが「お父さ ん、私が今まで食べていたのは牛肉じゃないわ」と、一発でその真価を解ってくれたとのこと。また俳優で合唱団仲間の奥田瑛二さんからはこんな絶賛のファックスが届きまし た。

「過日は大変美味なる肉、本当にありがとうございましが。モー最高でした。御礼が遅れて申し訳ありま せんでした。言い訳として、ホームレスの役で映画主演しておりなかなか日常に戻れなく失礼いたしました。昨日クランクアップいたし、元の生活に戻りまし た。いやァ誠においしかったです。このままあの肉を続けたく存じます。これからは御照会いただいたうぶやま生産組合を利用させていただきます。それか ら……中略……。しつこいようですが、他のステーキが食べられなくなりました。拝。奥田瑛二」

 8日夜の山小屋での宴会には、地元育牛家、村職員、阿蘇地域振興デザインセンターの坂元英俊=事務 局長はじめスタッフの皆さんに加えて、阿蘇大草原の保全のための(財)阿蘇グリーンストックを率いてユニークな活動を展開している佐藤誠=熊本大学教授と そのお弟子さんも駆けつけてくれて、牛肉バーベキューをしながら阿蘇の大草原保全を軸とした産業・観光振興について大いに語り合ったのでした。私は昨年 来、井さんたちに、大草原を維持するには牛の放牧を増やすだけでなく馬の飼育も導入して、食肉産業と観光事業を盛んにすべきではないかと提案していて、翌 日の阿蘇人塾でもそういう趣旨のお話しをしました。

 佐藤教授やデザインセンターは来年までに阿蘇の地域振興の計画を立案する予定だとのことなので、私 は帰京後、皆さんとの議論を踏まえて、取り敢えず以下のような私見をまとめて送りました。
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《阿蘇大草原再生計画(素案)》   高野孟 02-05-10

 昨年、野焼きのボランティアに参加して貴重な体験をさせて頂きましたが、牧野組合の高齢化と放牧牛 の激減という現実の前では、ボランティアによって野焼きを何とか続けていくというのでは一時の気休め以上のことにはならないと感じました。やはり、牛をた くさん飼って肉をどんどん出荷し、それでも余る草地を活かして新たに馬の放牧も導入して、草地そのものを本来あるべき使い方をすることで維持しつつ、さら に牛馬とともに暮らす牧場ライフや乗馬トレッキングを観光事業の目玉として発展させていくことを基本に考えるべきです。そのような観点から、私の思ってい ることを簡単にメモにまとめ、デザインセンターと佐藤教授&グリーンストックがうまく力を合わせてこれを実現していくことを願って、参考に資したいと思い ます。

1.大草原は緩やかに死滅に向かっている

(1)牧野組合の高齢化と入会権の形骸化によって野焼きの面積は次第に減少しつつあり、ボランティア が外から支援したくらいで食い止められる状況をすでに遙かに超えている。
(2)牧草管理も満足に行われていないところが多く、さらに悪いことに、大根栽培への安易なレンタルで土地 の劣化と表土の流失が深刻になりつつある。
(3)さらに、これまたかつて安易な金儲けを狙って植林した杉林が何の見通しもないまま放置されていたり、 椎茸生産の後退に伴ってクヌギの伐採が行われなくなって、それらが草原の景観と環境を壊している。
(4)この現状を打開して、大草原を本当の意味で再生させるには、牛の放牧を増やすだけでなく、新たに思い 切って馬の放牧も導入して、草地を本来あるべき使い方に戻しつつそれを維持していくことが必要となる。

2.赤牛の赤肉の評判を高め出荷を飛躍的に増大させる

(1)狂牛病問題は、従来の肉牛生産と牛肉流通のあり方、とりわけ牛を成人病状態にして出来るシモフ リ肉をバカ高い金を出して喜んで食べる日本の異常な“牛肉文化”を転換して、大草原の自然放牧で草をたくさん食べ、飼料も育牛家自身やその信頼できる農家 が作った安全な国産穀物を食べて育った牛こそが本当の牛であり、それこそが美味しいのだということを知って貰う一大キャンペーンを展開する。
(私が産山村の肉をいろいろな人に送った中で、島田紳助の大学生の娘が「お父さん、私が今まで食べていたの は牛肉じゃなかった。今日初めて牛肉というものを食べた」と興奮したそうで、知って貰えば必ず理解されると確信する。)
(2)長年苦労してきた産山村の赤牛生産の先駆例を大きく成功に導くサポートが必要になる。まず懸案のグ リーンストックを通じての安定的な出荷を確立する。スエヒロなど全国的ネームバリューのある大手の協力を取り付ける。テレビ・雑誌・インターネットなどを 通じての告知を増やすなど。
(3)若いやる気のある育牛経営者を育成・募集する。井信行さんによれば、赤肉でいいということになれば通 年放牧・自然繁殖(例えば雌30頭に雄1頭放っておけば100%近い出産率を難なく確保できる)ということなので、(赤肉がもてはやされるようになること が前提だが)「こういうやりかたで、若い人も儲かる育牛が出来る」というモデルを示して、地域外からもやる気のある経営者の卵を募集することが出来るだろ う。

3.“阿蘇馬”の育成に取り組み、それを馬肉事業と観光事業に役立てる

(1)いくら赤牛生産が増加したとしても草地は圧倒的に余るので、馬の放牧飼育を大胆に導入する。
(2)馬種は、(社)北海道うまの道ネットワーク協会の後藤良忠専務のアイデアでは、北海道産和種(道産 子)を中心として、それに南方の和種として対馬の対州馬を掛け合わせるのがいいという。同協会の会長である八戸芳夫北大名誉教授もそれを勧めてい る。道産子そのものが元は南部馬であり、南部藩が北海道開拓の荷役馬として連れて行った馬を冬になると放置して帰ってきて、来年また新たな馬を連れて行く ということを繰り返している中で、半ば野性化したそれらの馬が北海道の厳しい気候風土に順応して出来上がったものであり、阿蘇地域が道産子と対州馬から独 自の馬を育ててそれを“阿蘇馬”と称することに何の問題もない。
(3)“阿蘇馬”の育成は、公的もしくは三セク方式で「阿蘇馬育成センター」のようなものを設立して、八戸 先生のような権威のアドバイスを受けつつ、育成と調教の専門スタッフを置いて行うのが望ましい(個人もしくは個別組合ではなかなか踏み出せない)。
(4)「育成センター」は、育てた馬を観光や子供の教育、さらには障害者セラピーなどに活用するプログラム を組んで、乗馬文化を広げる。
(5)廃馬は馬肉加工に回し事業化する。
(6)馬の放牧によって輪地切りを補助するという佐藤教授のアイデアは面白いが、上記の「育成センター」 や、どこか馬飼育に乗り出した牧野組合がある場合にそこでテストするということだろう。
(7)米西部スタイルのカウボーイ(カウガール)が馬に乗って牛の放牧管理をすると いう「恰好いい牧場ライフ」を意識的に追求し、たとえばの話、帯広畜産大の馬術部の女子学生が「阿蘇に行って、そういう恰好いい牧場経営をやってみた い!」と思わせるように仕向ける。(それが、2の(3)の若いやる気のある牧畜家を集めることに繋がる。)

4.牧場ライフを観光事業の目玉にする

(1)新宮牧場の「夢大地」は、牧野組合から草地丸ごと借り受けて馬牧場にすることに成功した、佐藤 教授の言うところの“農地(再)解放”の貴重な先駆例であり、事業として成功させる必要がある。デザインセンターの坂元局長も「これを何としても事業的に 成功させなければ」という覚悟で、JRの由布院〜阿蘇駅のバス路線との提携などを進めているが、 私もJASが組み上げようとしている農家ステイのプログラムに関わりがあるので、それに新宮牧場を織り込むよう努力したい。
(2)新宮での牛の委託放牧を実現し、「馬で牛を追う」米西部スタイルを見せるようにする。

5.乗馬トレッキングのコースを開発する

(1)若い女性を中心に野外乗馬は静かなるブームと言っていい状況が生まれつつあり、そのような志向 の人々の多くは東京はもちろん大阪あたりからも北海道に行って、2泊3日とか1週間のステイで楽しんでいる。阿蘇を北海道と競えるようなもう1つのセン ターにしたい。
(2)そのために、新宮牧場はじめ近隣の乗馬クラブ、久住町のホースランド久住、さらには飯田高原のエル・ ランチョ・グランデも含め協力を求めつつ、乗馬トレッキングのコースを開発する。
(3)具体的には、
(a)井信行さんの山小屋を起点に産山村の池山水源を経て久住町のホースランド久住まで(ほとんどが産山村 の牧野なので実現可能)、
(b)ホースランド久住から久住山の東側の「扇の鼻」までの山岳コースを試す(ホースランド久住は「登山道 としても荒れているし、途中川を渡るところもあるが、行けるならそこまで行ってもいい」と言われていて試したがっている)、
(c)「扇の鼻」まで行ければ、そこから瀬の本に下るコースも可能かもしれない、
(d)瀬の本の扇牧野組合の草地は昨年春に高野、後藤、ランチョ・グランデなどで試走済み、
(e)瀬の本の牧野の隣は再び産山村の牧野で、井さんの山小屋まで戻れる、
(f)井さんの山小屋から南に、下田尻の牧野を経由して(了解を得るのはたぶん問題ない)、井出牧場の作業 道を通ると、木落牧場の東端近くまで達し、そこから新宮牧場までは4〜5キロ、
(g)新宮牧場は内部で数キロのコースをとれるだろうし、新宮の北の方から別コースで産山村に戻るか、黒川 温泉方面を経て瀬の本に至る道が探せればなお面白い、
──というようなことで、長距離コースの設営は(井信行さんが自分でも馬を飼って周囲に働きかけてくれるな ら)けっして絵空事ではなくなってきた。
(4)こういう大きな回遊コースがとれて、それが最低80キロになるなら、2008年からオリンピック種目 に入ることになり日本でも今年3回目の全日本大会が行われる「エンデュランス」競技の地方・全国・国際イベントの誘致も可能になる。
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 これまでは、地域開発・地域振興というとハード先行で、山を崩したり森を切ったり川をコンクリ固め にしたりして妙なハコモノを建設するのが常でしたが、そうではなくソフト優先で、大草原という(1000年前から続く野焼きという管理手法によって維持さ れてきた)類い希な人工的自然を活用して、牛や馬の飼育を盛んにし、それを食肉事業や観光事業に役立てるという方向を目指したい。そうするとそれは必然的 に、生産効率一本槍だった戦後農政からの転換、霜降りを最高級とする異常な牛肉格付け規格や食肉習慣の見直し、機械化とともにいきなり「生活の中の馬」を 廃絶してしまった余りに性急な政策の再考……等々とリンクしてくるわけで、阿蘇から21世紀型の地域振興のモデルが生まれることを期待しています。

 産山村            http://www.aso.ne.jp/~ubuyama/
 阿蘇地域振興デザインセンター http://www.asodc.or.jp
 阿蘇グリーンストック     http://www.aso.ne.jp/~green-s/
 新宮牧場「夢大地」      http://www.aso.ne.jp/~g-valley/yumedaichi.htm
 エル・ランチョ・グランデ   http://plaza19.mbn.or.jp/~ERG/
 北海道うまの道ネットワーク協会http://member.nifty.ne.jp/uma-net/

 「うぶやまさわやかビーフ」はホームページをこれから作るところなので、健康赤牛を試したい方は、 電話&ファックス0967-25-2958へ。←2002年5月10日

「市民版憲法調査会」の立ち上げに参加した!

 憲法記念日を前に、五十嵐敬喜=法政大学教授と高野の連名で「市民版憲法調査会」を作ろう という呼びかけを発し、4月26日に議員会館内で記者会見を開きました。呼びかけの全文は次の通りです。同会は、5月28日を第1回として、月1回程度の 勉強会を開きつつ、1年後には第1次の憲法草案を作ってさらに広範な人々の議論参加を求めてそれを完成させ、国会に持ち込むことを予定しています。

《市民版憲法調査会》の呼びかけ

憲法を恐れることなく大いに論じて
21世紀の国の姿に相応しい新憲法案を
市民自らの手で創り国会に上程しよう

                           提案者   五十嵐敬喜(法政大学 教授)
                                 高野 孟 (ジャーナリスト)

 2年前に国会に設置された憲法調査会は、近く「中間報告」をまとめ、さらに2年後をめどに「最終報 告」をまとめる予定で、それとタイミングを合わせて自民党は憲法改正案を世に問おうとしています。すでに改憲に必要な国民投票を実現するための法案も準備 されており、憲法改正は確実に政治日程に組み込まれつつあります。

 自民党案はおそらく、かつて読売新聞社が独自に発表した改憲案と同工異曲の、「集団的自衛権」の容 認など第9条の骨抜き化、国民の権利だけでなく義務の強調、 官僚主導の中央集権体制の維持・強化など、メ国権モを一層強化する時代錯誤的なも のになることは目に見えています。それに対して、野党側は総じて取り組みが遅れていて、このままでは野党側としてまとまって、しっかりとメ民権モの立場に 立った対案を打ち出して対抗することができるかどうか、見通しは不透明のままです。

 これでは、国民は、国の将来を決する憲法論議に参加できないまま、自民党改憲案のごり押しとそれに 対する旧来型護憲派の抵抗を遠くから眺めているだけ、ということにもなりかねません。そんなことで国のあり方の根本である憲法が書き換えられてしまうとし たら、とんでもない話です。

 もはや憲法論議を国会と政治家、いわゆる専門家だけにまかせておくことはできません。私たち自身 が、草の根から無数の憲法論議を巻き起こして、21世紀のこの国のあり方を大いに論じあい、それを私たちの言葉で1つの体系的な新憲法案に仕上げていきな がら、与野党を問わず良心的で開明的な政治家たちの協力を得て国会に上程することをめざす、一大《新憲法創造運動》を展開することが必要です。

 そのために、想いを同じくする各界各分野の方々の賛同を得て「呼びかけ人」になって頂いた上で、今 年の5月3日憲法記念日直前に《市民版憲法調査会》を発足させ、約1年間をかけて私たちの新憲法草案を創り上げ、それをさらに広範な人々の議論に委ねつつ 完成させていくようにしたいと思います。

 この趣旨をご理解頂き、ぜひ呼びかけ人に加わって頂くよう心からお願いします。
 

《参考資料》
 この提案は、五十嵐敬喜と高野孟が昨年末以来、およそ次のような対話を重ねてきた中から生まれました。対 話の要約を記して経過説明に代えさせて頂きます。

■2年後に山場を迎える憲法状況

高野   「9・11テロ事件以降、世界も日本もメ何でもありモというような一種異様な雰囲気になって、集団的自衛権のなし崩し的な発動を可能にするテロ支援対策法 が本質的な議論を抜きにしたまま成立して、初めての自衛艦の海外派遣が行われました。さらにその延長で、まるでドサクサまぎれのように、今国会で有事法制 案も上程されようとしています。こうした流れは、結局のところ、2年後に国会の憲法調査会が最終報告を出すのにタイミングを合わせて、自民党が改憲案を出 して国のあり方を大きく切り替えていくことに収斂されていこうとしています」

五十嵐  「日本もアメリカと同じようにテロと戦うべきである、それにはメ集団的自衛権モを発動して自衛隊が参加しなければならないが、その集団的自衛権を憲法第9 条は認めていない、そこで憲法を変えることが現実的な課題というわけですね。他方では、日本経済は底なし沼の状態にあって、小泉内閣のメ聖域なき構造改革 モもスキャンダルまみれの中で掛け声倒れに終わろうとしている。小泉に至る行政や政治改革などの一連の改革も役に立たなかったということになると、このま ま座して死を待つのか、それとも改革の究極である憲法改正に着手して一挙に打開するのか、という気分になっているのでしょう。不況、財政危機などの不安感 が改憲を促進するということがあるかもしれません」

高野    「しかも、小泉内閣が行き詰まって解散に打って出ると、それをきっかけに与野党ガラガラポンの政界再編になって、そこへ石原慎太郎東京都知事のメ石原新党 モが登場して与野党の一部若手がそれに同調するというようなことになって、憲法をめぐる状況の煮詰まりがもっと繰り上がってくることも考えられますね」

五十嵐  「私の直感ですが、現在の与野党の枠組みを超えた政界再編は必至で、その場合に間違いなくメ憲法モが再編の中心軸になると思っています」

■旧来の改憲・護憲の対立図式を超えて

高野    「そこで問題は、自民党保守派やメ石原新党モの側からの改憲論は、それはそれで狙いが分かりやすいが、それに対抗するのが旧来型の護憲論だけというのでは 困ってしまう。かつて55年体制の時代には、自民党が第9条の改悪を中心とする改憲を叫び、社共両党が『一指も触れるな!』と護憲を掲げて抵抗するという 図式でしたが、今回もこれでは結末は見えている。国会には共産党も含めた憲法調査会ができており、憲法改正のための道筋が避けて通れなくなっているのだか ら」

五十嵐  「護憲派は、安易に改正論に乗って別の案を出したりすれば敵の罠にはまるという考え方です。また改憲論には環境権やプライバシー権など時代に即したいかに も肌触りのよい提案もあるけれども、それは第9条の改正による自衛隊出兵という主目的を実現するための目くらましにすぎないのだから、決して騙されてはい けないという立場ですね。こうして、旧来型の改憲論と護憲論は、憲法を改正すべきかすべきでないかの入り口で衝突してしまって、かってはそれ以上の中身の 論議に進むことができなかった」

高野    「防衛政策をめぐる論議と同じで、旧社会党や共産党は、自衛隊は違憲であって、本来は存在してはならないものだという前提に立つから、批判し抵抗するばか りで、防衛政策や予算について具体的な論争をして中身を修正するといったことに手を染めなかった。その結果、かえって防衛予算の膨張を許し、冷戦後の防衛 戦略の転換も促すことが出来なかったのです」

五十嵐  「憲法の理念やシステムと現実とのあいだに落差が生じているわけですが、改憲派は、それは現行憲法の規定が悪いのだから現実に合わせて憲法を変えるべきだ と言うのに対して、護憲派は、そうではなくて憲法を正しく運用していないからそうなっていただけで、憲法を変える必要はないと言う。しかし、私たちは、そ の どちらでもなく、憲法の規定と具体的な現実とを突き合わせていきながら、必要に応じて憲法の条文を変えることを含めて解決策を考えるという立場に立ちた い。それをメ論憲派モと呼びましょう」

高野  「メ論憲モは今の民主党もそう言っているし、旧社会党の時代にも山花委員長の時代に論憲とか 創憲とか言った言葉がありました。旧社会党のメ論憲モは、『いや、とにかく論じるのであって、論じた結果、必ずしも改正しようということにならないかもし れない』という論法で、護憲派と妥協を図るための理屈という側面があって、 今の民主党にもそれは少し引き継がれています。だから、私はあんまり好きな言葉ではないのです。私はいわば市民的積極改憲論ですからね。旧来型の受動的護 憲論に対して能動的護憲論と言ってもいいです。しかし、五十嵐さんが言われる意味はよく分かります」

五十嵐 「この論憲派はこれまで、改憲派と護憲派のあいだに挟まれて、あまり目立ちませんでした。単 に目立たないというだけではなくて、例えば環境権など今の憲法で足りないところだけを部分的に追加すればいいので、全体は第9条を含めいじらない方がいい という部分修正論と、そうではなしに、明治憲法、現行憲法に代わる新憲法として抜本的に改定すべきだという全面改正論とが、整理されないまま内在してい て、そこが弱さになっていた」

高野  「私は後者で、堂々と、恐れることなく議論して、自分たちの案を出せばいいじゃないか、それ が抜本的で建設的な案であれば国民の支持を受けないはずがないじゃないか、という意見です」

五十嵐 「同感です。憲法と現実の落差は、かなり本質的なところから生まれている。端的に言って現憲 法では、主権者である国民が正当な位置を与えられていない。これが官僚支配を生み出している最大の原因で、これを改めなければならない。そこで重大問題に ついては国民が自ら決定するという、直接民主主義の大幅な導入ということを新しい憲法の柱にすえるべきだと私は考えているのです。そうすると、単に新しい 条文をひとつ二つプラスするというのではなく、1つ1つの条文と、それら全体の配置を、論理的で体系的に考えていかなければならないということになりま す」

■第9条をめぐる“第3の道”の可能性

高野  「先ほどの、憲法の条文と日本の現実に乖離があって、現実に合わせて憲法を変えるのか、憲法 理念に合わせて現実を変えようとするのかという問題は、第9条に即して言うと、戦後日本の政治をずっと突き動かしてきた『憲法法体系と安保法体系の矛盾・ 相克』という問題になります。2度の世界大戦の悲惨の後に、もう国家同士の紛争を戦争で解決するなどということはやめようじゃないかという趣旨を中心に据 えて1945年に国連憲章ができて、その憲章の精神をいち早く体現するものとして46年に 日本国憲法の第9条《戦争放棄》の規定ができた。ところが世界はたちまち米ソ冷戦に突入して、その冷戦の現実には国連憲章および日本の第9条の理念・理想 はいかにもそぐわないものとなってしまった。その状況で、旧来型の改憲論と護憲論の対立図式が展開したのですね。しかしその後45年を経て冷戦が終わっ て、本当はわれわれは今ようやく、憲章や憲法の理念を実現できる時代の入り口に立っているわけですが、その時にアメリカは依然として冷戦時代の思考から卒 業できずに、メ唯一超大国モという幻想に取り憑かれてアフガンで戦争したり、次はイラクを空爆しようかなどと、相変わらず武力で問題解決が可能であるかの 行動をとっている。そして日本は、そのアメリカの、私に言わせればメ暴走モですが、それに歩調を合わせて、日米安保条約に内在しているメ集団的自衛権モを 解禁して、それを憲法上で容認できるようにしようとしている。つまり、それ自体が冷戦の遺物にすぎない安保法体系を、有事法制も含めて、今更ながらに完成 させて、その下に憲法法体系を従属させようとしていることになります」

五十嵐 「事実はそのとおりです。ただテロを含むいわゆる危機に対して国民はどうすべきか護憲派も、 具体的な提案を出せなかった」    

高野  「本来なら日本は、冷戦が終わって国連憲章と日本国憲法第9条の理念・理想の実現にむかって 歩み始める世界環境がようやくできてきたのだという観点に立って、アメリカの一方的な軍事力行使を批判し、国連や地域機構でのねばり強い対話と協力を通じ た問題解決の努力こそ中心に据えられるべきであること、どうしても強制力が必要である場合はあくまでも国連の総意に基づいて、国連の指揮の下に平和維持活 動が行われるべきであり、それには日本も積極的に参加することを主張するのでなければいけないと思います。そういう意味では私は、第9条についても積極改 正論者で、現行の条文をメ解釈改憲モの余地のないよう明確な文章にして、国権の行使としての対外戦争は集団的自衛権の発動も含めて絶対にやらないというそ の本来の趣旨を徹底すると同時に、専守防衛のための最小限の自衛隊を持つことを明記し、さらに国連(もちろん国連が現状でそのように機能するのかどうかと いう問題があって、その改革の方向を考えなければならないのは当然ですが)の下での国際平和活動は、日本の国益のための国権行使とは明確に区別をして、積 極的に参加することを宣言するのが正しいと思います。まあ、ここはいろいろ議論があるところですが、私はそのようにして、安保法体系を憲法法体系に従属さ せることが大事なポイントだと思っています」

五十嵐 「そこはたくさんの議論があるところですね。私は、憲法9条の主権の発動としての武力の行使 は絶対にしないということと、危機対応は別に考えたらよいと考えます。もっと根源的には、成熟した都市社会では、さまざまなリスクから考えて、そもそもも う戦争はできない。これは日本だけでなく世界に通じる普遍的な論理だと思っているのです」           

■たくさんある憲法論議の論点

高野  「さて、憲法というとまず第9条問題という認識がおかしいのであって、ほかにも論議すべき問 題が山ほどありますね」

五十嵐 「勿論です。高度経済成長の名によって、あまりにも環境が壊された。日本全国どこを見 ても、やせた杉林とコンクリート固めの川、海岸線はテトラポットで埋め尽くされています。私は最近『美しい都市をつくる権利』という本を出しましたが、単 に環境を破壊するなというにとどまらず、もっと積極的に、美しい都市をつくってそこに暮らしたいという願いを国民の権利として捉えて、それを憲法上に表現 したいと考えています。また、そのような破滅的な事態が止まらないのは、中央官僚主導を市民がチェックし参画する仕組みができていないという問題があるか らですが、行政、議会そして司法のあり方なども、これまでのような誰か偉い人(あるいは組織)が、国民を支配するという[統治機構]としてではなく、市民 自らが決定する、それを手助けするという「市民の政府」として再構築したいと考えています」

高野  「それは、明治以来の発展途上国型の官主導のシステムを、成熟国型の民主導の原理に転換する ために、もっと直接民主主義の要素を導入すべきだということですね」

五十嵐 「そのとおりで、市民はメ間接民主主義モによるメ統治の対象モなのではなくて、メ直接民主主 義モによるメ統治の主体モにならなければなりません。そうすると、そもそも現在までの議院内閣制がそのままでいいのか、それとも、より直接民主主義的な大 統領制度を導入すべきなのか、などという論点も重要になってきます」

高野  「選挙制度も、せっかく小選挙区制に変えたのにいっこうに政権交代は起こらない。だから鈴木 宗男に象徴されるように、族議員と官僚の癒着も直らないということになります」

五十嵐 「そのためには、国会内の多数派から首相を選ぶという議院内閣制よりも、国民が直接選ぶ大統 領制のほうがよいのではないか、と多くの国民が考え始めています。また衆議院と参議院の二院制はこのままでいいのかというようなこともあるでしょう」

高野  「地方分権は、私は新憲法の柱だと思っています。明治以来の行け行けドンドンの発展途上国時 代は、みな働くのに忙しく、決定権をエリート官僚に委ねてしまうのも仕方がなかったけれども、世界で2番目の経済規模を持つ成熟国になってまだそんなこと を続けていたのでは、経済は回らず社会は混乱するばかりです。メ地域主権連邦国家モとでも言うべき徹底的な分権システムに切り替えて、生活に関連する公共 事業はじめ投資や予算の配分はすべて地域社会に任せるようにしたい。問題によっては、民間企業やNGOに委ねる方が適切で、そうなると民営化や規制撤廃と いうことになるし、また問題によっては、誰というのでなく市場の判定に委ねましょうということになって、それが市場原理の導入です。そうやって、中央官僚 が一手に握っていた決定権を、地域、民間、市場に向かって手放させていくのが、私はこの国家改造の眼目だと思っています」

五十嵐 「実際そのようになったら、本当に日本は変わりますね」           

■市民が自分たちで憲法を創る

高野  「こういう議論をもっともっとたくさんの人たちとやって、それを1つの案にまとめ上げて、国 会に持ち込むということにしたいですね」

五十嵐 「憲法改正はもはや、研究者や評論家のテーマではないし、政治家任せにしておいていい問題で はありません。憲法は国と国民のあるべき姿を示す最高の規範なのですから、国民自身があらゆるところで論議して創り上げていくべき国民的なテーマです。誰 かが作った案を、国民投票で賛否を表せばいいということではない。かつての明治憲法は、確かに日本人の手で作られたけれども、しかしそれは一部エリートに よるものであって、国民が直接関わったものではありません。また今の憲法は、周知のとおり、アメリカの占領部隊であるマッカーサーがイニシアティブをとっ て作られた。今回の日本近代史上3番目になる憲法こそ、国民が自ら案を考え、これを国会に上程し、それを国民投票で決する、というものにしなければならな い。憲法制定の発議権は国会に独占されるのではなく、中身も手続きも、何よりも主権者である国民にある。これは聖徳太子以来、日本では歴史上初めての実験 になります。」

高野  「いま、特に9・11以降の異様な流れや政治の現状に違和感や危機感を抱いている人はたくさ んいると思います。でも何をしたらいいのか分からないということもあるでしょう。そこで、大きな議論のためのテーブルを設けて、この1〜2年間かけて市民 の側から積極的に憲法を論じて1つの案にまとめていくということを、今まで『憲法なんて言われても私は素人でノノ』と思っているような方々も含めて広く呼 びかけてはどうでしょうか」

五十嵐 「市民版憲法調査会ですね」

高野  「憲法を軸にして新しい流れを市民側から作っていくというのは画期的だと思います」←2002 年4月26日

●経済学者の言うことはよく分からない!


 私が経済学の素養がないせいだろうかとも思うのですが、世のいわゆる経済学者の言うことはよく分からないですね。

 4月24日に都内のホテルで菅直人=民主党幹事長の後援会が主催するシンポ&パー ティがあって、菅さん、小野善康=大阪大学社会経済研究所教授、それに私の3人で日本の政 治・経済の現状と今後について討論することがあったので、前夜に急いで小野さんの近著『誤解だらけの構造改革』(日本経済新聞社、01年12月刊)を読み ましたが、その第1ページ「はじめに」の書き出しはこうで、そこですでに私はジンマシンが出てしまいました。

「日本の景気悪化が深刻さを増し、その解決のために、小泉純一郎政権は構造改革を推し進めている。しかし、景気はどんどん悪化し、失業率は上昇し て、国民の生活は苦しくなる一方である。奇妙なことに、それにもかかわらず、小泉内閣は国民の大きな支持を受けている」

 景気がよくないのは事実ですが、「国民の生活は苦しくなる一方」というのは本当なのでしょうか。みなさんはどうですか。自分の生活が苦しくなる一 方だと思う方が一人もいないとは思いませんが、多数であるとは私には信じられません。私がが何年も前からINSIDERその他で書き続け講演会でしゃべり 続けているように、日本は基本的にGDPで約5兆ドルというとてつもない経済規模を達成し、かつての発展途上国時代=右肩上がり時代のように年々何%かず つ確実に量的拡大を続けることはないとしても、数%の幅で微増微減しつつもそれを維持しているのであって、しかもその5兆ドルというのがどれほどのものか と言えば、全世界GDP総合計31兆ドルの6分の1に当たる訳ですから、どう考えても国民生活が苦しくなる一方だということにはならないのですね。

 本誌がしばしば引用するOECDの「GDP統計」の02年3月版を見てみましょう。この表は、左半分に95年の物価および為替レートを基準にした 98〜01年の各国GDPが、右半分に各年の物価および為替レートによる各国GDPが示されていて、この左半分のほうが年々の変動に惑わされないで、大局 的なトレンドを把握するには便利です(単位=兆ドル)。
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   95年の物価・為替レート基準で|当該年の物価・為替レートで
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  |95  98  99  00   01 |98  99   00   01
米国|7.34 8.21 8.63 8.99 9.08|8.72 9.21 9.81  10.13
日本|5.29 5.51 5.55 5.68 5.64|3.94 4.49 4.77  4.15
独 |2.49 2.56 2.61 2.69 2.70|2.15 2.10 1.87  1.85      
英 |1.14 1.24 1.27 1.30 1.33|1.42 1.46 1.43  1.42
仏 |1.55 1.66 1.70 1.76 1.79|1.45 1.44 1.29  1.30
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 左半分の数字を使えば、この4〜5年の中期的トレンドとして、米国はざっと9兆ドル経済で、それに拮抗するとは言えないまでも肉薄するのが日本の 5.5兆ドル経済であり、欧州で見れば独英仏のEU主要3カ国の合計が日本とほぼ同じということです。

 OECDはまた、「2000年の一人当たりGDP」という表を出しています。同年の為替レートで算定すると、日本はルクセンブルクに次いで第2 位、3万7546ドルで、第3位のノルウェー3万6021ドル、第4位の米国3万5619ドルを上回っています。

 「失業率が上昇して」と小田教授は言い、事実、昨年4月に戦後最悪だった4.7%を突破して4.8%になり、12月には5.5%になって(新聞の 見出しで言えば)「戦後最悪を更新」し続けてきましたが、今年の1月、2月は5.3%とやや落ち着いているので、上昇し続けているかに言うのは事実に反し ているし、その幅もコンマ以下のレベルです。しかも、これもOECDの主要7カ国失業率比較を見ると、イタリア9.0、フランス9.0、ドイツ8.1、カ ナダ7.9、米国5.5、日本5.3、イギリス5.1で(02年2月、但しイタリアは1月、イギリスは01年12月)で、日本は主要国でイギリスに次いで 最も失業率が低い国なのです。さらに、戦後直後の食うや食わずだった発展途上国時代の失業と、豊かになって基本的に食うに困るということがなくなって、む しろ産業社会から情報・サービス社会へと産業構造・就業構造の組み替えが進んでいく成熟国時代の失業とを質的に区別することなく、上っ面の数字だけを比べ て「戦後最悪」と言いふらすのは完全にミスリーディングです。

 菅さんは小田教授を高く評価していて、それは数年前に菅さんが「減税」による需要回復を主張した時に小田さんから「とんでもない。減税をしてもそ れが物を買うことに繋がるとは限らず、むしろ貯蓄に向かうので景気はよくならない」とアドバイスされて目から鱗が取れる思いをしたのがきっかけだそうで す。小田さんの言うのは確かに1つの理屈で、だから公共事業を削って財政支出を抑え、それによって減税しようという小泉内閣の構造改革路線は間違っている というわけですが、どちらにしても彼は今の日本経済の停滞(と私は思いません、高レベルの横ばい状態と捉えていますが)を需要不足による不況と捉えるとい う、いわゆる改革抵抗勢力=景気拡大派と共通する誤りを犯していることには変わりはありません。この“停滞”を、需給バランス失調による不況と捉えるのは 根本的な誤りで、GDP5兆ドルに象徴される富の力を維持しているにもかかわらず、その富を適切に巨体のすみずみに配分して循環させる財政・金融という心 臓機能が壊れているために全身循環不全の状態に陥っている事態として把握しなければならないでしょう。

 なぜ心臓が機能しないのかと言えば、それは旧大蔵省が財政・金融を一体のものとして管理する発展途上国時代の仕組み、その下で爛熟した政官業癒着 の体制が残っているからで、だからこそ、金融における政官業癒着の結末としての不良債権処理とさらにその先の成熟国に相応しい金融システムに向けての改 革、郵貯改革とそのカネの行き先である特殊法人の切開手術、中央に税が集まって旧大蔵省の手作業で省庁縦割りで配分される財政の中央集権の解体(すなわち 徹底的な地方分権)、そして鈴木宗男や一連の政策秘書疑惑に象徴される公共事業やODAに寄生する政治家の処断などが、まさしく1枚の絵の中に収まる「構 造改革」として推進されない限り、日本経済が元気を取り戻すことはないのです。だから、小泉が批判されるとすれば、郵貯と特殊法人の改革については(唯一 彼の手の内に入っているテーマであるために)多少とも手を着けているけれども、政権1年目を過ぎても依然として改革の全体図を示すことが出来ないでいるこ とであって、需要不足を解消する手段を講じていないなどという問題ではないのです。

 結局、経済学者というのは需要と供給という物差ししか持っていないのでしょうか。日本経済はとっくに成熟しているのに、国のシステムが発展途上国 のままにとどまっていて、経済学者の頭も未熟であるのが、この国の不幸ということなのではないでしょうか。←2002年4月24日

「ジンガロ」の02年日本誘致は断念した!

 下記(4月8日記)のフランスの騎馬芸術集団「ジンガロ」は、結局、ピロプラズマの検疫問題をリアすることが出来ず、時間切れということで、今年11月 の日本公演は実現をあきらめざるを得なくなりました。残念! このためジンガロは、9〜10月のロサンゼルス公演がとっくにチケット売り切れになっている ので、1カ月程度延長し、それをもって現在の出し物である「トリプティク」の上演を終了、これから2年間かけて次の出し物の仕込みをして、2004年から 次期公演に入ります。ジンガロ側は是非アジア公演を実現したい意向で、われわれも捲土重来を期して今から準備に入りますが、すでに香港と韓国が誘致に名乗 りを上げていて、もたもたしていると「初のアジア公演」をそのどちらかに持って行かれる可能性があります。検疫問題を技術的にクリアする方法の模索と同時 に、ジンガロ・ファンの小沢昭一さん、高倉健さんはじめ文化人・芸能人や馬術・乗馬界の方々を含めた「応援団」を結成して誘致を促すことになるでしょう。 あきらめずに頑張ります。

 なおジンガロは、このインタバルを活かして、ヴェルサイユ宮殿の旧王立騎馬隊の馬場・厩舎に03年2月から馬術芸術学校を開設します。一般にも公 開するので、パリに行ったら是非訪れて、ジンガロ流の馬の調教や音楽に合わせたパフォーマンス練習の様子を見て頂きたいと思います。←2002年4月15 日

鴨川自然王国が棚田などのトラスト会員を募集中!


 鴨川自然王国では今年度の棚田トラスト、大豆畑トラスト、果樹園トラストの会員を募集しています。トラストは、我々都会人が棚田の場合年間3万円、大豆 畑は4000円、果樹園は2000円を拠出して現地農家に信託し、放っておけば使われずに荒れていく農地を保全しつつ、我々も田植えなどの農作業に参加し て土に触れる喜びを味わおうという趣旨で、定年になって、もしくはそれに備えて少しでも“農的生活”をしたいと考えているような方々には、恰好の農への入 口となります。

 鴨川自然王国のホームページ(http://www.smn.shizen-ohkoku.co.jp/) で詳細をお確かめの上、入会してください。果樹園はほぼ一杯ですが、棚田、大豆畑はまだ若干空きがあります。

 なお王国の次のイベントは、5月4(土)〜5日(日)の田植えです。もちろんトラスト会員でなくても参加できますので、昔ながらの手植えによる重 労働をお楽しみ下さい。

 さらに、今年は全国棚田サミットの開催地が鴨川市で、8月30日(金)〜9月1日(日)まで、堂本暁子=千葉県知事の記念講演や事例発表、10の テーマ別の分科会、各種イベントなどが行われます。高野は、分科会のうち「田舎暮らしの現実と課題」のコーディネーターを務めます。全体を取り仕切ってい るのは、鴨川自然王国代表で大山千枚田保存会会長である石田三示さん。ご関心ある方は是非お集まり下さい。

大山千枚田保存会 http://www.senmaida.com/

今年のモンゴル・オペラ鑑賞ツァーは8月13日から!

 98年から3年続きで行い、昨年はウズベキスタンに“浮気”した「モンゴル・オペラ鑑賞ツァー」は、今年は原点に戻って、8月13日から1週間の日程で 行います。詳細は、三枝成彰(作曲家)、矢内 廣(ぴあ社長)、高野の幹事団で相談を始めているところですが、前例に従えば、首都ウランバートルで昼は観光、夕はオペラ、夜はディスコ巡 りという感じで数日間を過ごし、向こうのオペラ・音楽関係者との交流も行って、その後に郊外のゲル村に泊まって大草原乗馬や川遊び(ラフティングなど)を するか、もっと足を伸ばして帝国時代の遺跡や砂漠を巡るか、といったことになるでしょう。たくさんの皆様の参加を歓迎します。←2002年4月8日
 

2月のパリで騎馬劇団「ジンガロ」を観た!

 2月15日にパリに飛んで、シラク大統領が「いまフランスが世界に誇る最高の舞台芸術」と言ってはばからない、人馬一体の音楽劇団『ジンガロ』の公演を 観てきました。

 地下鉄7号線でパリ北郊のフォール・ドーベルヴィリエ(オーベルヴィリエ砦)駅に降り立つと、すぐ目の前がジンガロの本拠地です。ゲートをくぐっ て進むと大きな木造ドームの建物があって、そこは100人ほども入れるレストラン棟。7時の開場を待ちかねて流れ込んだ観客たちが思い思いに席を占めて、 馬のオブジェや写真、これまでの出し物に使った道具や衣装などを壁一杯に博物館のように陳列した幻想的な雰囲気の
中で、ワインを飲んだり食事をしたり、ショップで買い物をしたりして、8時半の開演までの時間を過ごします。

 やがて案内のアナウンスに導かれて、一旦外に出て広場を横切って、一段と大きなこれも木造の劇場棟の階段を上がると、そこは馬房の2階で、ほの暗 い電灯に照らされた渡り廊下を、まだ出番でない何頭かの馬の姿を上から覗き込んで藁の臭いを嗅ぎながら進むと、いやが上にも気分が高まります。なにしろジ ンガロの人気は凄まじく、2年先までチケットが入手出来ないほどなので、(私は劇団側の特別招待で入れて貰いましたが)やっとここまで辿り着いた観客たち が興奮気味なのも当然でしょう。劇場は、サーカス小屋と同じような、中央に直径30メートルほどの円形フィールドがあって、それを600ほどの客席がすり 鉢状に囲んでいる造りです。

 さあいよいよ新作「トリプテイク(三部作)」の開幕です。暗転した舞台にストラビンスキーの『春の祭典』が鳴り響き、巧みに演出された光とほんの りと焚かれた香の香りの中に妖しいほどに美しい白馬たちが躍り出て、ある時は自分らだけで音楽に合わせてラインダンスのように踊り、ある時は長いドレスを 着た女性騎手や北インドの逞しい男性舞踏家を乗せて走り回り、またある時は人と馬が1対1で濃密な絡み合いを演じ、まさに人馬一体となって荒々しい野性と 精緻な優美とが入り交じった神秘的な時間の流れを作り出していって、人々はまるで魔法にかかったようにそこに引き込まれていきます。

 ジンガロを1984年に創設したのは、「1957年、ヨーロッパのどこかで生まれた」としか語らず、出身も本名も不明なバルタバスという人物。ジ ンガロとはイタリア語でジプシーのことなので、その血が混じっていると言われたこともありましたが、本人はそれも否定しています。しかしとにかく彼が企画 構成から演出、舞台監督、オーケストラ・シェフ、そして馬の調教まですべてを取り仕切って、このサーカスでもない、演劇でも舞踊でもない、他に類例のない 不思議な舞台を作り上げているのです。「30頭の馬のそれぞれから何を引き出すか、そのためにはそれぞれの馬の性格を知り尽くさなければならない。それに は馬と生活を分かち合い、馬の言うことに注意深く耳を傾けなければならない。新しい作品を作るには気の遠くなるような時間が――2分間の馬の舞台に2年間 の準備期間がかかる」とバルタバスは言っています。馬という人間にとって数千年来の友との強い尊敬と信頼と交信を通じて、生命とは何か、自然とは何か、そ して人間とは何かを探し求めているかに見える彼は、数十頭の馬と約60人の劇団員とともに、本拠地の劇場の周りに置かれたキャンピングカーの中で、まさに 24時間を馬と一緒に暮らし、ヨーロッパ各地に巡業する時にはそのキャンピングカーで馬と一緒に移動することによって、彼は現代の魔術師となったのです。

 で、私がなぜわざわざパリまでそれを観に行ったのかというと、ジンガロの日本公演を実現させようというプロジェクトに昨年末から参画していて、前 からビデオや写真や雑誌記事では見たことがあるのですが実物を観なければ話にならないだろうということで、その目的のためだけに行ったのです。ジンガロが 海外に出たのは、過去2回のニューヨーク公演だけ。今夏はロサンゼルス公演が予定されていて、その帰途に
日本に招致して11月から3カ月間、東京・お台場で“初のアジア公演”をやろうということで、(株)カンバセーションが企画してきましたが、欧州の馬の多 くが持っていて問題にならないピロプラズマという寄生虫症が日本の検疫ではダメということになっていて農水省からOKが出ない。米国でも日本同様にダメな のですが、NY公演の際には政府が「こういう芸術は是非国民に見せるべきである」として特例を設けて馬の入国を認めたし、日本でも国際的な馬術競技や欧州 の乗馬学校チームのエギジビジョンの場合に特例を認めた前例があるので大丈夫だろうと考えていたのですが、なにせ農水省は大臣以下、検疫部門の現場まで狂 牛病問題でてんやわんやの状態で、せっかくの駐日仏大使の熱心な働きかけに対しても「この非常時に検疫を緩めろだと? 何を言っておるのか!」という取り 付く島もない反応で、昨秋の段階で企画が行き詰まってしまいました。それで私も一枚加わって、超政治的な打開策を模索しているところなのです。今年11月 の招致は難しいかもしれませんが、時間をかけても必ず実現するつもりなので、その折にはご支援をよろしくお願いします。←2002年4月8日

帯広と旭川で新年早々雪中乗馬に励んだ!

旭川雪中乗馬  1月15日に帯広で、16日に旭川で、それぞれ北海道新聞主催の講演会の仕事があったので、13日サンデー・プロジェクト終了後に帯広入りして現地の仲 間たちと馬に乗ったり酒を飲んだりして過ごし、15日夕方に旭川に着いて翌日午前はまた旧知の「クラーク・ホースガーデン」を訪れて雪原で乗馬を楽しみま した。
 

 クラーク・ホースガーデンは旭川市の中心部から東
の当麻方向へ30分ほど行った丘の上にあります。ウェスタンそのものの雰囲気のクラブハウス&レストラン(カレーがおいしい!)、レザークラフトのショッ プ、馬場、厩舎があり、周辺には広大な放牧草地が広がります。主宰するクラーク・オノヅカさん(もちろん日本人。ウェスタン乗馬の人はみな“ウェスタン・ ネーム”で呼び合います)は、北海道に憧れて横浜から移住してここを開き、馬を通じて自然と共に暮らすライフスタイルを提唱している方。「こういうのって 商売になるのかなあ」と悩んでいたので、「これこそ21世紀的ですよ。これから時代がこっちのほうに寄ってくるから」と励ましたのでした。

 インストラクターの美女アンさんが初心者でも親切に教えてくれるので、こちら方面にお出かけの際には是非訪れて下さい。←2002年1月20日

住所=旭川市東旭川町桜岡160-4 電話&ファックス=0166-36-5963 
E-mail=clark@par.odn.ne.jp

あけましておめでとうございます!

十勝雪中乗馬  おめでとうと言うのも憚られるような21世紀2年目ですが──そう、1 年目は内外ともに20世紀を引きずったまま終わってしまいました──もうちょっとマシな世の中にならないかという願望を込めて、やはりおめでとうと言い合 わなければならないのだと思います。

 インサイダーNo.43(12月23日号)にはこう書きました。「21世紀最初の年は、思いもかけ なかった小泉内閣の発足と、にもかかわらず一層混迷の度を深めている日本の政治と経済の先行き不安、そしてそれよりもさらに衝撃的だった9・11テロとそ の後のアフガン事態の泥沼化の中で、暮れて行こうとしています。とうてい“おめでたい”気分にはなりませんが、しかし正月は正月、放っておけば内外ともに 最悪の年になるかもしれない2002年を、何とかして流れを変えて、本当の意味の“21世紀”が始まる年にしたいという願望と決意とを込めて、心からの新 年のあいさつを送ります」

 さらにNo.45(12月31日号)ではこう述べました。「塩野七生さんが30日付『毎日新聞』で 『9月11日をもって21世紀が始まった』と語っていますが、私の捉え方は違います。『9月11日への米国の対応によって、世界はまたもや20世紀を卒業 し損なってしまった』のだと思います。引き延ばされた世紀末──それへの無念を込めて、1月9日書店発売の『増刊・現代農業』(農文協刊)に「石油と武器 と戦争と/20世紀を卒業しそこなったアメリカ」という一文を寄稿しました」

 でも、まあ人類はいっぺんには利口にならないですから、「ポチポチやっていく」よりしょうがないの でしょう。若い頃には、いっぺんに世の中をひっくり返すことを夢見たりもしましたが、なかなかそういうものでもないことを思い知らされて、ならば自分で出 来ることを小さくても確実にやって行くしかないのかなと、妙に悟ったような気分で自分の暮らしの再編成に取り組んでいるのが私なりの21世紀なのでしょ う。今年はせいぜい野外乗馬に励もうと思います。

 皆様も、自分なりの21世紀をどう始めるか、イメージを膨らませてみてはいかがでしょうか。結局の ところ、そうしたイマジネーションの集積が本当に新世紀の扉を開く力を生むのだと思います。

 あ、そうそう、インサイダー電子版をまだお読みでない方は、是非ご購読下さい。年間6000円プラ ス消費税です。高野の個人ページ(http://www.smn.co.jp/takano/)から「インサイダー購読案内」に入って詳細をお確かめの 上、ins@smn.co.jpにお申し込み下さい。

                                2002年1月元旦

                                  高 野  孟

六本木男声合唱団のディナーショーに出演した!

 六本木男声合唱団は今年も12月21日に横浜コンチネンタルホテルと24日に浦安ベイヒルトンホテルでディナーショーを行い、成功を収めました。

 今回、私は特別に、曲目の1つであるシベリウス作曲「フィンランディア讃歌」の指揮をさせて貰いました。

 この合唱団は、前にもお話ししたように、99年まで10年間ほど毎年行ってきたエイズ支援のチャリティ・コンサートの活動の中から生まれました。 同コンサートは、作曲家の三枝成彰さんの総監督の下、本物のオーケストラをバックに文化人、芸能人、政治家、経営者などが一芸を披露し、その売り上げをエ イズ患者支援に寄付するというもので、私も、ずっと前にはアルトサックスで「アルルの女」のソロをやったり、別の時にはシベリウスの交響詩「フィンラン ディア」の指揮をしたりしました。99年夏の最終回では、それまでに出演した人々の有志30人ほどで「元美少年合唱団」を編成して、日本の代表的テノール 歌手でありわれわれのモンゴル・中央アジア旅行仲間でもある小林一男さんの指導で数ヶ月間練習をして出演したのですが、やってみると男声合唱というのはな かなか気持ちがいい。私のような、歌はカラオケもやらないと決めているような者にも、ウォーンと和音がみごとに合った時の快感が忘れられないということ で、その後「六本木男声合唱団」として存続させることになったのです。

 その年の暮れに横浜コンチネンタルで最初のディナーショーをやって、ひとまず成功。以来、この催しは同ホテルの恒例になって、今年は1人3万 2000円というべらぼうな値段でありながら640席がたちまち完売で、それをオーバーした200人ほどをお断りするほどの盛況でした。東京ベイ・ヒルト ンは今年初めての試みで、こちらも550席が満杯でした。この2年半にメンバーもずいぶん増えて、今や登録は170人余り、政治家は自民党、民主党、共産 党までいますし、奥田瑛二や辰巳琢郎など俳優、ケント・ギルバードやダニエル・カールなど外人タレント、ケンタロウなど料理人、ソムリエの田崎真也、島田 雅彦など作家、松尾翼など弁護士、堀池秀人や隈研吾など建築家、浅葉克己などデザイナー、わたせせいぞうなどイラストレーター、指揮者の大友直人やN響バ イオリンの窪田茂夫やピアニストの横山幸雄などプロの音楽家(であっても合唱は素人)、その他、大学教授、医師、評論家、ジャーナリスト、コピーライ ター、テレビマン、広告マン、証券マン、会社社長……など多彩を極めています。巧い下手よりも、各界のいろいろな才能の人々が歌を中心に集まって遊びなが ら面白いことをやっていこうという一種の異業種交流のようなものです。

 さてそれで、今年は曲目に「フィンランディア賛歌」が加わり、「これは高野に指揮させよう」ということになったのは、上述のようにエイズ支援コン サートで私が「フィンランディア」を指揮したことがあるというのが直接の理由です。交響詩「フィンランディア」は、18世紀初からロシア帝国の支配下に あったフィンランドで、18世紀末にようやく独立運動が高まり、その中で1899年にヘルシンキで上演された愛国的な歴史劇にシベリウスが音楽を付け、そ れの一部「フィンランドは目覚める」の音楽が後に交響詩として単独で演奏されるようになり、さらにその中に出てくる民謡風のメロディに詩人のコスケンニエ ミが歌詞を振って「フィンランディア讃歌」という男性合唱曲として世界中で歌われるようになったのです。

 で、なぜ私が「フィンランディア」なのかというと、1988年から4年間ほど、フィンランドの隣国であり文化的・言語的に親戚に当たる当時ソ連支 配下のエストニアの独立運動にコミットし、いつもヘルシンキ経由でエストニアの首都ターリンに行くことを繰り返しているうちに、エストニアやフィンランド の人々の自然を愛する穏やかな暮らしぶりにすっかり憧れて、日本にいてもよくシベリウスを聴いてその人々のことを思い出していたからです。

 エストニアの独立運動は「歌いながらの革命(Singing Revolution)」と呼ばれて、旧ソ連の厳しい管制下、政治集会はもちろん、エストニア語でしゃべることさえ禁じられている中で、ゴルバチョフの 「ペレストロイカ」路線を支持しつつそれを巧く利用して独立を果たそうとする「エストニア人民戦線」が学者・文化人を中心に結成され、ロック・フェスティ バルや民謡大会を開くという形で運動を進めていきました。我々はひょんなことからそれに関わりを持ち、3日間で延べ50万人が集まる野外のロック・フェス ティバルにソニー・ミュージックの丸山茂雄=現社長の助力を得て日本のバンドを連れて行ったり、その際に楽器などの機材に紛れ込ませてコピー機を持ち込ん で人民戦線に寄付したり(当時、ソ連ではコピー機の個人保有が禁じられていた)、自分たちの稼いだお金やスポンサーから集めたお金を総計数千万円も持ち込 んでカンパしたりしました。その頃、エストニアの人たちが演奏したくても出来なかったのが「フィンランディア」で、それはもちろん“反ソ的”だということ で当局がそれを禁じていたからです。

 そんなわけで、「フィンランディア」は私のエストニアへの入れ込みの思い出と深く結びついていて、エイズ支援のために何か指揮するということに なった時にそれを選びました。指揮をするに当たって、フィンランドの人々は強大なロシアと闘って独立を得るために、どこから力を得ようとしただろうか、と 考えました。きっと、自然から力を借りたに違いない。シベリウスはそれを描きたかったのではないか。冒頭の金管の重厚な響きは大地の底から湧き出す力、次 の木管と弦による静かなメロディは森の精の霊的な力、さらにその次のチャンチャチャカチャカという元気な部分は風に波立つ海の力を表しているのではない か。そのチャンチャチャカチャカの中に挿入されている、後に「賛歌」となった部分は「独立後の祖国への希望」を意味しているのだろう──と勝手に解釈し て、指揮は下手でも(高校3年生の時にブラスバンドの指揮をしていて、少しは出来るのですが)気持ちはそういうことで演奏したいものだと思ったのでした。

 その際に、市販されている「フィンランディア」のCDを全部買い集めて聴いてみました。私のイメージに一番近かったのがアシュケナージ指揮、英 フィルハーモニア管弦楽団のそれで、彼は旧ソ連生まれのユダヤ人でアイスランドに亡命した人だから、ロシアに抑圧された者の心が解るのでしょう。反対に、 最悪の演奏はカラヤン指揮、ベルリン・フィルで、やたら大げさで、権威的で、この曲の意味を何も理解していないことを露呈しています。ナチス・ドイツはこ の曲が“反ロシア的”であることから好んで演奏させましたが、その嫌な歴史をそのまま引き継いでいるのがカラヤンということでしょう。ま、下手は下手なり に音楽を楽しむについて、その1つの(ジャーナリスティックな?)方法は、このように、その音楽を育んだ土地柄や歴史、そこに生きそして闘った人々の心情 に想像力を差し伸べて、自分なりの独自の見方・捉え方を持つことだと思います。

 アシュケナージの「フィンランディア」はポリドール発売のLondonレコード(POCL-5085)を、「フィンランディア賛歌」はワーナー ミュージック発売のヘルシンキ大学男声合唱団「シベリウス・男声合唱曲集」(WPCS-6108)を、お聴き下さい。また、我が六本木男声合唱団の歌声 は、ソニー・レコーズ発売「ネットを越えろ/第46回世界卓球選手権大会テーマソング」(SRCR-2597)に、その曲と我が団の定番「いざたていくさ 人よ」が収録されています。←2001年12月30日

なお、六本木男声合唱団のホームページはこちらです。
http://www.tenorcup.com/6ponghi/

タスマニアで1週間“馬三昧”した!

 10月末から11月初の1週間、オーストラリアの南東にある美しい島「タスマニア」に行って、エンデュランス(と言って最近日本でも注目され始めた馬の 野外耐久競技)の講習を受け、最終日には公式競技40キロ部門に出場して完走賞を貰いました。『乗馬ライフ』で連載中のコラムに報告を書いたので、以下に 転載します。

 世界自然遺産の島=タスマニアに行って、思う存分、馬に乗ってみたいという前々からの夢が、「フリーダム・ライディング・クラブ」(田中雅文代 表)が年に1〜2回実施しているタスマニア乗馬ツァーに参加する形で、ようやく実現した。

 目指すのは、同クラブがその一角にロッジを保有するデニス・フォーレイ氏の牧場。日曜日の夜に成田を発って、シドニーで国内線に乗り換えて1時 間、同島第2の都市ローンセストンに降りる。そこからさらに車で1時間半で、景勝地クレードル山地の麓にある牧場に着くと、もう月曜日の夕方近くである。 そこで、案内役の田中氏を含めて一行6人の我々は、火曜日から4日間、午前中は馬学やエンデュランス競技についての講習、午後は牧場周辺でトレッキング、 夜は宴会、そして土曜日にはこの牧場を本部に開催されるエンデュランスの公式競技40キロ部門に出場するという、まさに“馬三昧”のぜいたくな1週間を過 ごした。

 牧場主のデニスは、アラブ馬60頭を抱える飼育家であり調教師、そしてエンデュランスの名選手でもある。オーストラリアではエンデュランスに出る 馬の9割がたがアラブ種。なぜアラブ種がエンデュランス向きなのかについては、全豪エンデュランス協会会長で自らも飼育家であるローリー・ニコル氏から講 義を受けた。また著名な獣医であるジム・ライリー氏も、サラブレッドの筋肉との質の違いをはじめ、アラブ種の特徴、そしてエンデュランスには付きものの馬 の健康管理や獣医検査の実際について詳しいレクチャーがあった。アラブ種は、有酸素運動に適した長い筋繊維の筋肉が多いので耐久力があるが、エネルギー源 としての糖分は、筋肉内に蓄えられた分を最初の10〜15キロでほとんど使い果たしてしまい、以後は腸内にある分を使うので、スタートから10キロ程度は ゆっくり安定したペースを守り、それ以降は馬が草を食べたり水を飲んだりするのを助けなければならない──といった話がとても勉強になった。

 さらに、オーストラリアを代表する女性エンデュランス選手のケリン・マホーニーさんからは、どうやって馬に適した鞍を選び、装着するかを学んだ。 オーストラリア独特の、太腿の前に耳状の突起がついたストックサドル(牧童鞍)は、落ちにくいのでトレッキングには向いているが、エンデュランスでは重す ぎるし、また“耳”がかえって邪魔になるので使われないこと、軍用の鞍を改良したキャプテンバック、アメリカ南北戦争の将軍の名に由来するマクレラン(尻 の当たる部分が空間になっていて6キロ程度と超軽量)、オーストラリアの名選手が開発したマッキンダーなどがエンデュランス向きであることなどを知った。 またオーストラリアのチーフ・スチュワード(主任監督官)であり公式国際審判員でもあるアンドリュー・ブレークと、我々の現地での世話役であるタスマニア 高地乗馬協会の代表サイモン・キュービットの両氏からは、エンデュランス競技の実際について詳しい解説をしてもらった。

 火・水・木の3日間は毎日30キロ程度の外乗。金曜日は明日の競技に備えて馬を休ませなければならないので、牧場周辺で1時間程度の散歩にとどめ て、さあ、土曜日はいよいよ私にとって初のエンデュランス競技である。朝5時起床、軽い朝食を済ませて本部に行くと、もう50頭ほどの馬が集まっていて、 次々に獣医検査を受けている。7時半に「ブリーフィング!」と声がかかって全員集合。コースの説明や危険個所の注意を受ける。8時、まず80キロ出場の選 手が出発し、15分後に我々40キロ組も出発する。

 教えられたとおり、最初はゆっくり歩く。40キロ組はだいたいが初心者だから、ペースライダーと呼ぶ先導者の後について行く(彼を追い抜くことは 禁じられている)。10キロを過ぎたあたりからトロットが増え、森を抜け、山に登り、沼地を渡り、谷を越えて進んでいく。キャンターはよほど条件がいいと ころで1〜2度、短い距離を走る程度。急な登りや瓦礫の多い下り坂、それに舗装道路などは馬を下りて引いて歩くこともある。たまに歩くと、馬も休めるが、 人間の脚も血が戻って楽になる。

 こうして我々は40キロを4時間半で走り、獣医検査も無事クリアして完走した。80キロ組がゴールするのを待って開かれた表彰式では、「OSS フォーレイ記念エンデュランス競技40キロ完走者」と刺繍した帽子を授与された。次は……そう、80キロに挑戦である。北海道か、出来ればまたタスマニア で。←2001年11月10日

釜石ラグビー部が市民クラブチームに転換、私もサポーターになった!

 “近代製鉄の父”と言われる大島高任(たかとう)の没後100年を記念する釜石市役所による一連の行事の一環として、10月12日に「21世紀日本はも のづくりの時代」という趣旨の講演に呼ばれたので、その機会に、かつて日本ラグビー史に残る7年連続日本一を為し遂げた新日鐵釜石ラグビー部の後身「釜石 シーウェイブス」を訪ねました。

 高炉が燃えさかって、10万人近い人口を誇った釜石市の栄華も今は昔、製鉄所の人員もわずかに残った加工部門や子会社への出向者も合わせて 2000人ほどにまで縮まって、市の人口も半減、栄光のラグビー部は同社の冠を取り去った市民クラブチームとして再発足することになったのです。今年4月 には選手を公募したりスカウトしたりして、市職員や教員、地元企業の社員ら9人が新たに加わり、それから半年でサポーターも個人3000人、法人200社 が集まって、東日本1部リーグへの復帰を目指して今シーズンに挑んでいます。これまで4戦して3勝1敗。残り3試合でこれ以上、星を落とすと1部への昇格 を賭けた入れ替え戦への出場が危うくなりますが、3勝のうち2勝は、106点(対警視庁)、124点(対大塚刷毛)で圧勝しており、11月10日12: 00から秩父宮ラグビー場で行われる対東京ガス戦を乗り切れば、その勢いで1部復帰を果たすことになりそうです。監督の高橋善幸さんはこう語っていまし た。

「地域に根ざしたクラブチームとして再出発してまだ半年だが、サポーターがすでに3000人も集まって、その3割が釜石市民、3割が岩手県内、残り の4割は東京など県外ということで、全国にファンがいて期待してくれているのだということをひしひしと感じている。我々の公式ホームページのほかにも、 『北の鉄人』という熱烈な支援サイトを開いてくれている人もいるし、東京中心にインターネットを通じて組織されたらしい『ファンの集い』が生まれている。 市内や県内の中学校から講演に呼ばれることも多い。我々はラグビー少年団の活動を27年続けてきたし、新日鐵釜石のサッカー部はサッカー少年団を30年続 けてきている。サッカー部は、我々より先に市民チームに衣替えして他の職場の人たちも加わり、天皇杯に出たりしている。今後、サッカー部とも連携しなが ら、子供から大人まで地元でスポーツを楽しむようなヨーロッパ型のクラブに発展させていきたい」

 学校〜企業〜国家という発展途上国型のタテ型秩序の下に組み込まれた“富国強兵”的な体育から、地域社会の市民文化としてのスポーツへの転換は、 川淵三郎チェアマン率いる「Jリーグ」の基本理念ですが、その考え方がいろいろな分野に拡がりつつあって、アイスホッケーでは栃木県の古河電工アイスホッ ケー部が99年に廃部となったあと、それを市民クラブチーム「日光バックス」として存続させようとする高橋健次社長はじめ関係者の血のにじむ努力がようや く実りつつあります。同チームの苦闘の記録『日光バックス再生の軌跡』が先ごろ下野新聞社(電話028-625-1135)から出版されたので、是非お読 み下さい。

 こうした動きは、「企業が不況でチームを持ちきれなくなったので、やむを得ず市民チームに転換した」とネガティブに受け止められがちですが、そう ではなくて、日本のスポーツがようやく企業丸抱えから脱出して自らを解放するための、それこそ“構造改革”の一環なのです。かつての釜石ファンの私も、 シーウェイブスの成功を願ってサポーターに登録しました。←2001年10月15日

シーウェイブス公式HP
http://www3.famille.ne.jp/~nsckama/RUGBY/RUGBY.htm

北の鉄人
http://www.kitanotetsujin.com/indextop.htm

日光バックス公式HP
http://www.icebucks.net/

ウズベキスタン・オペラ鑑賞ツァー漫遊記を搭載した!

 8月下旬にウズベキスタンの首都タシケントに行って日本の代表的オペラ「夕鶴」の公演を鑑賞し、そのあとヒヴァやブハラの世界遺産や古都サマルカンドを 駆けめぐったので、その漫遊記を載せました。←2001年9月24日

久しぶりに更新した!

 6月からだいぶサボってしまいましたが、久しぶりに少し更新しました。「農と言える日本」のNo.53〜55を搭載したのと、「こだわり道具大図鑑」→ 「ナイフと小刀」→「ソムリエナイフ」の項を若干改定して、「 研究資料・ライヨールとラギオール 」を新たに搭載しました。

 ややマニアックな事柄なので、興味のない方もおられるでしょうが、ワイン好きの方はお読み下さい。フランスで作られて世界的に人気のあるコルクス クリュー付きのソムリエナイフに「Laguiole」がありますが、この読み方を巡って、一般愛好家だけでなくナイフ業界にも混乱が見られるので、丸一日 かけてネット上で資料を漁って、整理を試みました。

 「ウズベキスタン旅行記」も近日中に写真入りで掲載します。←2001年9月20日



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