余り短かくない自分史・第1部


★対談バーション「我カク戦ヘリ」――高野孟に聞く(構成・福島泰樹)
 中身は本稿とさして変わらないが、大学同級生の絶叫歌人&僧侶の福島泰樹との対談で語ったものもあるこちら

1944年3月……2つの誕生日?

 3月19日に東京・築地の聖路加病院 で生まれたことになっているが、本当の誕生日は4月17日。4歳で幼稚園に入ったが、「お遊戯」が嫌いで3カ月で登園拒否、家でブラブラしているので母親 が困って、1年早く小学校に入れるために区議会議員に頼んで戸籍を書き換えた。

 父親の高野実は、戦前からの職業的革命家・ 労働運動指導者で、戦後は「昔陸軍、いま総評」と言われた頃の総評事務局長。母親の倭文子(しずこ)は、戦前に『中央公論』編集者で、戦後は小唄の師匠、 英語塾の経営者として家計を支えた。2人とも1974年9月に亡くなった。

 孟は、はじめと読む。元々この 字は、兄弟姉妹の一番上、季節の初めという意味で、孟女といえば長女、孟夏といえば初夏のことである。動詞では「つとめる」と読み、困難を冒して前進する という意味になる。

1960年4月……アン ビヴァレントな青春

 高校2年生で安保反対のデモに参加。 この頃は忙しくて、早稲田大学付属の高等学院で吹奏楽部に所属し、1年生でトランペット、2年生でサクソフォン、3年生でキャプテン兼指揮者をやる傍ら、 ジャズバンドやブロックフレーテ(英語ではリコーダーと呼ばれる木の笛)のバロック・アンサンブルをやったり、新宿のキャバレーや厚木の米軍基地の将校レ ストランでサックス吹きのアルバイトをしたり、母親の経営する英語塾で先生をしたり、丹沢山塊を中心に山登り・沢登りをしたり、友達と一緒にオーダーメイ ドの自転車を買ってサイクリングをしたり、禅研究会に参加して毎週日曜日早朝に座禅を組んだり、「ストリップ研究会」を組織して浅草・新宿・渋谷および鶴 見・船橋あたりの劇場に通い詰めたり、マルクス・毛沢東・サルトルを読み耽ったり、学園祭でロシア語劇(ゴーゴリの『検察官』??第2外国語がロシア語 だったので)を演じたり、デモに参加したり……まあ大抵の面白いこと(と同時に若干の人生の悲哀)は16〜17歳で経験してしまう典型的な都会派高校生 だった。

 安保の頃は、昼間は「安保反 対、岸(信介首相=当時)を殺せ」と叫んで反米デモをして、夕方18時になると親米に急変して新宿西口から米軍のカーキ色のバスに乗って厚木基地でバンド のアルバイトをするという、まことアンビヴァレントな青春だった。

1962 年4月……哲学科の学生 

 早稲田大学文学部西洋哲学科に進学。相変わらず忙しかった。カントやヘーゲルやマルクスをドイツ語で読んだり、サルトルをフランス語で読みたくてお茶の 水のアテネ・フランセに通ったり、毛沢東を中国語で読もうとして水道橋の日中学院第1期生に入学したり、やっぱり英語ができなくてはと千駄ヶ谷の津田英語 塾に通ったり(いずれも中途半端で終わった)、高校の吹奏楽部の仲間とブロックフレーテ・アンサンブル「管楽研究会」を組織したり、社交ダンスを習った り、歌舞伎・文楽・能など古典芸能を片端から観て歩いたり、さらにそれらの費用のほとんどを自前で賄うために英語塾やダンス教室やジャズバンドのアルバイ トに精を出した。

1964年6月……中国 への旅

 60年代に入ってずっと病気がちだっ た父親を中国共産党指導部が「ゆっくり療養にいらっしゃい。ご家族も一緒にどうぞ」と有り難い招待をしてくれて、生まれて初めての海外旅行として中国を訪 れた(その2年前に米軍施政下の沖縄に行ったことはあるが)。当時はもちろん日中国交回復前で、東京・羽田空港から日本航空で香港に飛んで一泊し、翌日汽 車で国境まで行って徒歩で鉄橋を渡って入国手続きをして、そこで昼食。また汽車に乗って広州市で一泊して、翌日、軍用機のようなソ連製の旅客機で北京へ――と、北京まで2泊3日かかる時代だった。

 その3日間は私にとって2つの 点で極めて印象的だった。第1に、日本航空のスチュワデスというのは当時、花形の仕事で、8等身美人(という言葉が当時あった)が綺麗に化粧して機内で優 雅に振る舞っているのをウットリと見ながら香港まで行ったのだが、広州市から乗った飛行機で三つ編みお下げで化粧も何もせずにきびきびと立ち働いている軍 服のようなものを着た少女がの真っ直ぐな笑顔がそれより何倍も美しく見えたことである。第2に、たまたま同じルートで訪中する日本人の知人と香港まで一緒 だったが、彼は香港で荷物を盗まれて中国入りを断念した。他方、私は翌日泊まった広州市の迎賓館の洗面所に歯ブラシを忘れて来たが、その歯ブラシが翌日北 京の宿舎に届けられた。 「人間がこんなにも明るく純真に生きることが出来るのなら、社会主義って悪くないな」と思った。尤も後になって考えれば、それは「古きよき毛沢東の中国」 の最後の時代で、間もなく中国は文化大革命の悲惨に突入していくことになるのである。

 父母は、最初は大連の幹部用別 荘、後には杭州の温泉保養地にある迎賓館に逗留して療養することになり、私と4歳下の弟は、中華全国総工会(中国の総評に当たる)が派遣してくれた鄭さん という若い通訳と一緒に、北はハルビンから北京、上海、広州まで、約2カ月間かけて工場、人民公社、名所旧跡を訪ねる旅をした。次の目的地まで丸1日も汽 車に揺られて行くようなのんびりした旅のあいだ、鄭さんは繰り返し私に「なぜ日本共産党に入って革命運動に身を捧げないのか」と問うた(当時は日中両共産 党は友好関係にあった)。私は、なぜ日本共産党がダメか、100ほども理由を挙げて反論したが、彼は「じゃあどうするんですか。仮に日本共産党があなたの 言うような欠陥があったとして、それを正さない限り日本で革命は起きないじゃないですか。それとも社会党にでも入りますか。革マルはどうですか」と言う。 私はとうとう根負けして「分かった。帰国したら入党します」と約束した。

1968年4月……学生 運動の4年間

 私は帰国するとすぐに早大文学部の共 産党の幹部らしき奴を掴まえて、「共産党に入りたい」と言った。相手は「学生は6カ月間、民青で活動して、試された者が党に入ることが出来る決まりになっ ている」と言った。私は、当時よく「歌って踊って」と揶揄されていた民青にだけは入りたくなくて、「そんなら、やめる」とゴネた。党は、せっかく自分のほ うから飛び込んできた私を取り逃がしたくなかったのだろう、形の上だけ民青にも加盟申請を出すという条件で即時入党を認めた。

 それから約4年間、私は他のす べてを捨てて学生運動と党活動に専念した。1年ほど経った65年半ばには、当時大学全体で300人ほどいた学生党組織(さらにその外側の民主青年同盟員ま で入れると約700人)を動かす学生総細胞委員会のサブキャップ(組織・財政担当)になったが、その直後に日中共産党の関係が険悪化し、早稲田の組織の中 でも数十名の毛沢東主義者が反乱を起こした。中国で勧められて入党した私が、中国派の仲間を査問して除名する役目を引き受けたのは皮肉な巡り合わせだっ た。

 66年早々からは「授業料値上 げ反対」をきっかけに全学がストライキに突入、バリケードの中で150日間暮らした。この早大闘争は、やがて68年から69年にかけてピークに達する「ベ トナム反戦・大学解体」を掲げた学生パワーの爆発の導火線となった。その頃、私のすぐ下にいてゲバ隊長をしていたのが、『突破者』(南風社)という本を書 いた宮崎学である。

 私は本来なら66年3月に卒業 する予定であったが、それどころではなくて、結局2年間余計に大学にいることになった。日本の戦前の戦闘的唯物論哲学者=戸坂潤の「イデオロギー論」を主 題とする卒業論文を書いて、68年3月に卒業。アカデミズムの道に進もうかという考えもチラリと頭をかすめないではなかったが、戸坂潤の「哲学はジャーナ リズムのものである」という言葉に惹かれてジャーナリストを志すことにし、父親の紹介で共産党系の通信社「ジャパン・プレス・サービス(JPS)」に職を 得た。卒業して半年余り経った68年11月、全学幹部として教育学部の細胞に指導に入っていたときに知り合った吉田千織と結婚した。

 JPSは、1950年代に共同 通信社からレッドパージされた敏腕記者たちが中心になって作った通信社で、私の主な仕事は、日本事情を英語で海外に伝える『ジャパン・プレス・ウィーク リー・ブレティン』という週刊ニュースレターや、ラジオ・テレタイプというメディアを利用して、キューバのプレンサ・ラティーナ通信社、ベトナムのベトナ ム通信社および南ベトナムのジャングルの中にあった南ベトナム解放通信社、北朝鮮の朝鮮中央通信およびプラハのチェコスロバキア通信社の3方向に毎日各1 時間流す英文ニュースの原稿を書くことだった。

 JPSは、党中央の直轄下にあ りながら自由で自立的な思考が許される空間だった。特に私が属した内信部の部長は山田昭という優れたジャーナリストで、当時「川端治」というペンネームで 共産党系の出版物に国際情勢や国内政治に独自の視点に立つ鋭い論評を発表して若い世代に圧倒的な人気を博していた。私は彼から、ジャーナリストの生き方、 思考の方法、文章の書き方について教えを受け、やがて1年ほどすると、彼の指導を受けながら党の理論機関誌である『前衛』や、外郭の出版社が発行する『経 済』といった月刊雑誌の巻頭論文を「香月徹」というペンネームで書くようになった。

 その頃私は25歳そこそこで向 こう見ずだったから、理論的な問題意識や情勢分析の視点に関して党中央の見解の枠をはみ出すことを恐れなかった。そのため私の論文は何度か、党機関紙『赤 旗』の論壇時評などで批判された。私は意に介さず、また党の影響下にある学生や青年の組織では、川端論文や香月論文のほうが党中央の臆病で無味乾燥な文書 より人気があって、盛んに講演に呼ばれるという状況が生まれた。危険な兆候だった。

1972年7月……共産 党よさようなら

 決裂の時が来た。米国のポスト・ベト ナム戦略や佐藤内閣による「沖縄返還」の評価を巡って、また当時の共産党指導部が打ち出していた「人民的議会主義」の下での選挙重視、労働運動・学生運動 軽視の方針の評価などを巡って、我々は半ば公然と党中央を批判していた。宮本顕治らは、珍妙なことに、川端治や香月徹らは「北朝鮮労働党からカネを貰って 日本共産党指導部の転覆を謀る陰謀的な分派を形成している」という幻覚を抱き、これを「新日和見主義集団」と呼び、全国の学生・青年組織の幹部約300人 を一斉に検束・拉致・監禁して査問した。

 JPSでは党支部の総会が開か れ、中央から上田耕一郎(現幹部会副委員長)が乗り込んできて、川端と私が陰謀の首謀者としてさんざん糾弾され、そのまま上田に連れられて党本部に出頭さ せられ、1週間にわたり監禁され、査問された。査問の中で彼らは、私が党中央の情勢分析や組織方針と反する言動を弄して学生・青年をたぶらかしていると非 難した。私は、私が中央と若干異なった見解を抱いているのは事実だが、「意見が違う」というのと「党を転覆する陰謀を企んだ」というのは全然別の次元の話 で、仮に後者だというのなら私を反革命罪で除名したらどうか、と言った。彼らは、そうするだけの理由と証拠はないと認めた。それで私は、党中央に誤解を受 けるような言動をしたことは申し訳ないという趣旨の「反省文」を提出して、無罪釈放された。

 私はこの時、中国の鄭さんの 「日本共産党の欠陥を正さない限り日本で革命は起きない」という言葉を思い起こしながら、決して諦めずに党に留まってその内部改革に取り組もうと考えてい た。しかし反面、その1週間の異常な体験から、こんな陰険で独断的な党に革命が出来るわけがないし、出来たとしてもロクなことにならない、という思いも深 まった。その両極の間で揺れながらも、私は半ば意地になって、党籍をそれまでの中央直属から、当時住んでいた東京・池袋の地域支部に移すよう文書で申請し た。彼らは、私のような者が党内に留まっていられては迷惑だったのだろう、転籍手続きの書類がどこか上のほうで審査中なのでちょっと待って貰いたいとか言 葉を濁しながらウヤムヤにしようとした。結果として私の日本共産党の党籍はきちんとした説明がないまま自然消滅した。

1975 年10月……INSIDERの創刊と再刊

 党と同時にJPSの職場も追われた私 は、しばらくのあいだ失業保険で暮らしたあと、学生時代の友人が経営幹部をしていた広告・PR会社「麹町企画」に拾われてコピーライターの仕事に就き、食 品会社のPR雑誌の編集や石油会社のコミュニケーション戦略の立案などで3年間ほどを過ごす。 他方、私と同時にJPSを追われた師匠の山田昭は、その頃は「山川暁夫」のペンネームで雑誌などに評論を書く一方、74年春から、手書き原稿をコピーした 全く個人的なニュースレター『MAPP(Military & Politics Perspective)』を不定期に発行し始めていたが、75年夏に至ってそれをもっと本格的なニュースレターとして刊行したいとの考えを明らかにし た。広告・PRの仕事で高給を得て酒を飲み歩いているような生活に飽きていた私は、ただちに賛同してその年8月、会社を辞めて再び失業保険生活をしながら ニュースレター創刊の準備を手伝うと同時に、フリーランス・ジャーナリストとして活動を始めた。

 ニュースレターは、誌名 『INSIDER』、発行主体「MAP分析研究会」(代表=山川暁夫)、月2回刊、年間購読料2万円、郵送による会員制とすることにし、75年9月に日本 版のNo.0が、11月にNo.1が刊行された。 年が明けるとすぐに米上院チャーチ委員会でロッキード事件が火を噴き、赤坂の小さなアパートにあったINSIDERのオフィスは、マスコミ各社の記者や週 刊誌の編集者やフリーのライターなどが夜な夜な集まっては情報交換したり議論したりする場になった。

 そういう中から私にとってフ リーになって最初の本である、週刊ポストの記者だった加納明弘との共著『内幕』が生まれた(76年12月、学陽書房刊――ちなみにこのときの担当編集者が 後に独立して作家となった江波戸哲夫)。また、東京12チャンネルのテレビ・ディレクターとして、評判になったシリーズ『ドキュメンタリー青春』などを 撮っていた田原総一朗が会社を辞めてペンで仕事をすること決意し、「ついては週刊誌や月刊誌で大型の企画をやりたいので取材チームを編成したい」という相 談があり、私、加納、それにやはり週刊ポストにいた西城鉄男の3人で第1期の田原専属取材班が76年夏にスタートした。

 INSIDERのロッキード事 件に関する大胆かつ的確な分析はなかなか評判になり、部数も一挙に数百部に増えた。しかしそれから先は容易でなく、かろうじて印刷と郵送の経費を賄えるく らいで、事務所の維持その他は山川がほとんど1人で背負い込んだ。77年半ばから、紙質を落とし、オフセット印刷を止めて自前の簡便印刷に切り替えるなど して経費を節減したがそれでも追いつかず、ついに79年秋に至って、疲れ果て身体を悪くした山川が廃刊を宣言する。それまで熱心に応援してくれていた田原 総一朗、当時まだ兜町にいた長谷川慶太郎、共同通信社会部の斎藤茂男、元衆議院副議長の岡田春夫はじめたくさんの協力者の方々と相談の結果、 INSIDERを止めてしまうのはもったいないということになり、今度は私を中心にして協力者の方々にも出資して頂き、株式会社の形態をとって80年2月 に再スタートした。これが現在の第2期INSIDERである。

 新INSIDERは、発行主体 「(株)まっぷ出版」(地図屋と間違えられるので後に(株)インサイダーに変更)、月2回刊、年間購読料1万2000円(ただし複数の人・部署で利用する ことが前提となる大企業など法人は10万円)とした。事務所は神田神保町に移った。

1982年1月……世界 地図の読み方

 その神保町の事務所に、確か80年の 夏に日本実業出版社の単行本部門の責任者である大江高司さんという方が突然訪ねてきて、「あなたが雑誌で書いているものは、よく読んでいる。私が地図が好 きで、2万5千分の1の地図を片手に三浦半島の海岸を歩いたりしているので思いついたのだが、高校生でも読めるような国際政治・経済の入門書を世界地図を 素材にして書いてみないか」と言う。私も子供の頃から山歩き用に5万分の1の地図を箱一杯も収集していた地図マニアだったし、また師匠や先輩から「米ソの 軍事戦略を考える場合は、北極から見た世界地図を使わなければダメなんだ」といったことを教えられて、ちょっと珍しい地図や地図帳を見つけては買い込んだ りしていたので、その提案に二つ返事で乗った。が、始めてみると大変な作業であり、INSIDERを何とか成り立たせていくための気が狂うほどの忙しさの 中で少しずつ書き溜めて、1年半ほど費やして『世界地図の読み方』という本が生まれた。

 幸いにこの本は大いに好評を得 て、最初は四六判で、後に同じ出版社から新書に版を改めて10年ほどにわたって増刷を重ね、合計で10数万部も出るロングセラーになった。その本の「一枚 の地図、そして一冊の地図帳があれば……」と題したプロローグは4、5年前から三省堂の中学生用の国語の教科書に収録されるという栄誉にも浴した。

 またその頃、俳優で作家の中村 敦夫さんがTBSで「地球発22時」という硬派情報番組を始め、私もその企画メンバーに加わっていた関係から、私の『世界地図の読み方』をコンピュータ・ グラフィックス(CG)を多用して番組化することになり、地図をあれこれ動かしながら中村さんと私が語り合うという1時間番組を2回作った。当時はテレビ でCGが使われ始めた最初で、地球儀をクルクル回したり、世界地図の上に戦後の米ソ関係の変化をプロットしたりするといった程度のものを作るのに、 コンピュータ技術会社の数人のスタッフが1週間も泊まり込みをして突貫作業をしなければならず、費用も数百万円かかったが、それでいて出来上がったものは わずか数分間の動く紙芝居という程度のものでししかなかった。とはいえ、この本と番組の経験を通じて、それまで純粋な活字人間だった私は、グラフィックス を上手に使うことで遥かに広く深く自分の物の見方・考え方を伝えることが出来るのだということを学んだ。

1986年6月――英語 版への挑戦

 第2期インサイダーが始まって5年が 過ぎて、一応出血状態も止まったので、前々からの宿願だった英語版の刊行に取り組むことになった。日本のメディアと言えばほとんどが国内の日本語マーケッ トだけを相手にしていて、特に国際問題ともなれば、「お前ら、こんな英語の雑誌やドイツ語の新聞は読んでいないだろう」といった調子で、ヨコのものをタテ にしてそれらしくインフォメーションを流しているだけで、それら膨大なインフォメーションの海の中から大事なものとそうでないもの、発信者のバイアスがか かっているものとそうでないものを振り分けながら、日本・アジアのスタンスに立って世界の流れを先読みし日本の進むべき道を考えるといったインテリジェン スの作業は、皆無に等しかった。ところが東京は実は世界でも有数の情報集積都市であって、ここに居ながらにして世界に通用するインテリジェンス・リポート を発信することは出来るはずだ、というのが我々の発想であり、また心意気だった。またその頃、東洋経済新報社が昔からあった英文誌『Oriental Econoist』を刷新して『Tokyo Business Today』というスマートなビジネス誌を出し始め、それに私が書いていたコラムがけっこう好評で、海外からもいろいろ問い合わせやインタビューの申し込 みがあったことも、意を強くする要因だった。

 そこで、パートナーだった ジャーナリストの歳川隆雄が編集長になって『TOKYO INSIDER』の見本版を4月に出し、6月から月刊で刊行を始めた。とにかくお金がないので、私と歳川で原稿を書いて、翻訳は専門家に頼んでそれを チェックし、慣れないIBM-PCで私が入力してレイアウトするといったまったくの手づくりの英文ニュースレターのスタートだったが、すぐに米ソ両大使館 から申し込みがあるなど、内容はまずまずの好評だった。しかし購読者を増やすのは大変で、途中経過を一切省けば、ちょうど5年間、さんざんな苦労をして 60号まで出した挙げ句、数千万円の借金を残して撤退することになった。しかし歳川は同誌への愛着を捨てがたく、(株)インサイダーから独立して自ら会社 を興し『Tokyo Insideline』という名称で発行を継続することになった。歳川はその後、同名の日本語ニュースレターも刊行し、それらには経済ジャーナリストの須 田慎一郎らが協力した。97年2月に至ってインサイドライン英語版は終刊した。東洋経済新報社が『Tokyo Business Today』を廃刊したあと、同社ニューヨーク支局長のピーター・エニスが編集長となって『The Oriental Economist』という旧名を冠した月刊の英文ニュースレターの刊行が2月から始まり、歳川はその東京特派員として寄稿することになった。

1988 年10月――電子メディアへの進出

 日本でも「パソコン通信」というもの が始まり、(株)アスキーから、同社の運営するパソコン通信アスキーネットにインサイダーを有料コンテンツとして載せたいという話があり、かねて将来の電 子メディアの可能性に関心を持っていた我々は一も二もなくOKして早速アップを開始した。アスキーネットは日本のパソ通の先駆で、85年に日本で初めてパ ソ通が自由化されてすぐに実験サービスを始めた。当時のことだからパソコン・マニアを中心に1万人か2万人の人たちが利用していたにすぎなかったが、86 年に日本電気がPC-VANを始め、翌87年には富士通と日商岩井がニフティサーブを始めて競合が激しくなったこともあり、アスキーとしては一般向けコン テンツを拡大して吸引力を強めようという戦略だったのだろう。当時、月間のアクセス料に4000円も払っていたアスキーの会員はインサイダーを読むのは無 料(エクストラ・チャージなし)、外から入ると同誌を郵送で購読した場合と同じ月1000円という価格設定で始めたが、予想されたとおりアクセスは極めて 少なかった。なおアスキーネットは97年8月をもって業務を停止するとアナウンスした。

 この時に、アスキーの西和彦社 長が、我々との契約を記念して、当時の最新型だったNECのパソコン9800RX4をモデム付きで事務所と私の自宅に据え付けてくれた。私のパソコン歴に 触れておくと、81年からエプソンのワープロで原稿を書くようになった。やがてワープロでは物足りなくなって、83年に日本IBMが最初のビジネス向け日 本語DOSパソコン5550を出すとすぐに事務所に2台導入し、原稿書きや読者管理に使い始めた。BASICをかじってDOSファイルをいじくり回さない と動かないし、JXというIBMの日本語システムも使い勝手が悪くて、悪戦苦闘したことを思い出す。で、88年に西さんから98マシンを貰って、さらに自 分でもその頃出始めたばかりの98ノートを買っていっぱしの電子生活を送った。この当時は国内に見るべきデータベースもなかったので、もっぱらThe Sourceはじめアメリカのデータベースを使った。そのためには(何と呼んだか忘れたが)特別の回線をKDDと契約してべらぼうな料金を払わなければな らなかった時代である。

 あるとき西さんと食事をする機 会があって、私は「日本とアメリカのデータベースを比べると、検索のキーワードの立て方が天国と地獄くらい違う。日本のは、新聞で言えば見出しの言葉だけ キーワードに拾っているだけだから、全文呼び出して読んでみないと本当に必要な記事かどうか見当がつかない。アメリカの優れたデータベースは、恐らく内容 を理解しジャーナリスティックな感覚を持っているプロがキーワードを拾っているので、時間も手間も半分か3分の1で効率よく必要な記事を集められる。キー ワードづくりというは1つの文化だが、日本はそこまで行っていない」と言った。彼は「そうか。それは気が付かなかった」と言って手帳にメモしていたが、日 本のこの点での立ち後れは今もまったく変わっていない。

 というわけで、私の98時代が 4年ほど続いたが、92年の春、あるパソコン雑誌に「Geocartという地図作成ソフトが近く発売される」という小さなニュースが出ていた。記事による と、それには何十という地図の図法が組み込まれていて、世界全図でも部分図でも好きな図法を使って自由に地図を作り、自分で色づけすることも出来るとい う。かつて『世界地図の読み方』のテレビ番組を作るときにCGで地図を作るのがいかに大変なことかを体験していた私は、「これが欲しい!」と叫んだ。が、 よく見るとそれはMac版。当時はグラフィック関係はほとんどMac中心で、調べてみると他にもMacGlobeとかWorldAtlasとか、世界地図 帳のようなMac版のソフトも出ていることが分かった。ちょうどその頃、何かの仕事で若手のMac評論家として売り出し中だった大谷和利君が事務所に出入 りしていて、いつもMacのパワーブックを持ち歩いていたので、ちょっと触らせて貰って、その場で「よし、Macに転向しよう!」と決断、翌日秋葉原に 行ってパワーブック170を買った。その頃のことだから、モノクロ画面の本体だけで56万8000円、プリンター、カラーモニター、カラー接続用のアダプ ター、外付けのCD-ROMドライバーなどを合わせると100万円を超えるという、今では信じられないような買い物だった。しかもこの頃はMacも使いや すいとは言えず、販売店やアフターサービスも不親切で、セットアップに大変な苦労をした。大谷君が『MACLIFE』というMac専門誌の92年9月号の 連載コラムで「高野孟氏のパワーブック170購入顛末」を書いてなぐさめてくれた。以来、私個人だけでなく事務所もMac一色で、最近は仕方がないので Windowsも使うけれども、事あるごとにみんなで「どうしてWindowsはこんなに馬鹿なんだろう」と言い合っている。

1989 年4月――サンデー・プロジェクト放送開始

 88年の4月から日曜日朝7時から1 時間の情報トーク番組「爽論争論」が田原総一朗の司会で始まり、私も企画と準レギュラー出演という形で協力した。1年後にそれが格上げされて、日曜日朝 10時から2時間弱の「サンデー・プロジェクト」という新番組に発展した。島田紳助が女性アナと共に司会し、その頃歌手を引退して「フツウのオバサン」宣 言をしていた都はるみ、高坂正尭=京都大学教授、当時は浪人中だった東尾=現西武ライオンズ監督、田原総一朗、まだ東大助教授だった舛添要一、私などが並 ぶという、何だかよく分からない構成の“高級ワイドショー”だった。この年1月に昭和天皇が亡くなり、2月にリクルート事件で強制捜査開始、4月竹下首相 退陣、6月天安門事件……という内外ともに大激変の時期で、政治家を呼んで歯に衣着せない質問を浴びせる“田原コーナー”や、私を含め何人もが手分けして ソ連・東欧やアジアの冷戦崩壊の現場をレポートするドキュメンタリーが受けて、番組はただちに軌道に乗った。その後、一時はNHK出身の畑恵(後に自民党参 院議員)が島田のパートナーを務めたり、現民主党代議士の海江田万里が経済評論家として出たり、都と東尾が引退したり、高坂先生が亡くなったり、いろいろ変 転があったが、93年の自民党単独政権崩壊の前後からは田原コーナーでの議論が翌日の新聞のニュースになるなど、政局に一定のインパクトを与えるほどに なった。

 毎月最終金曜日の25時からの 討論番組「朝まで生テレビ」は、その1年前、87年の4月に始まった。最初のうち私は出ていなかったが、87年12月の「天皇」問題あたりから準レギュ ラー的に出るようになった。また88年10月には日本テレビで日曜日朝8時から中村敦夫と木村優子の司会で「ザ・サンデー」という情報番組が始まり、桂文 珍、兵藤ゆき、私がレギュラーになった。この番組は最初のうち思い切って金を使って海外取材を展開したので、私も、ベルリンの壁の崩壊、ルーマニアの独裁 者チャウシェスクの処刑、ドイツやハンガリーの初めての自由選挙、エストニアはじめバルト3国のソ連からの独立運動、パナマの独裁者ノリエガの逮捕直前の インタビュー等々、冷戦崩壊に揺れる世界を駆け回り、ずいぶんいい体験をさせて貰った。が、90年8月の湾岸危機から91年1月の湾岸戦争にかけて中村も 私も米ブッシュ政権と多国籍軍に対して批判的な論調を繰り広げたのが読売新聞には気に入らなかったらしく、91年3月に私が番組を降ろされ、半年後には中 村も辞めてしまった。その番組は、まったく骨抜きの通俗的なワイドショーに衣替えして今も続いている。

 91年10月にTBSが生島ひ ろしの司会で月曜から金曜までの朝7時から1時間半の「ビッグ・モーニング」という新番組が始まり、曜日毎のニュース編集長という役回りで水曜日を担当す ることなった。他方、91年4月から名古屋の東海テレビで、毎週土曜日の深夜、田原総一朗、月尾嘉男東大教授、大礒正美静岡県立大教授といった勉強会仲間 が順繰りに出る「世界が見たい」という番組(中京地方のみ)が始まり、半年後にこれが土曜日朝10時から1時間の「高野孟のワールド・インサイダー」とい う私が主宰する情報トーク番組に衣替えし、さらに92年4月からは(株)インサイダーで丸々制作を請け負う形で同じ時間に東京から生放送する「週刊大予 測」に発展、私と蓮舫の司会で毎回ゲストを招いてトークをしたり、スタジオにMacを持ち込んで自家製のCGで世界の焦点の問題を解説するコーナーを設け たり、それまでやりたいと思っていたテレビでの実験をいろいろ試みた。それはまた地方局発信の生番組を東京のスタジオから送り出すという点でも画期的だっ た。番組はなかなか好評だったが、局の都合で93年3月一杯で打ち切りとなった。

 TBSの「ビッグ・モーニン グ」は3年間続いて、94年9月で終了した。ところが今度は、ほぼ同じ時間帯(6時45分〜8時)のテレビ朝日「やじうまワイド」の水曜日のコメンテイ ターをやることになり、96年4月から週に一度、4時半に起床するという生活が再び始まった。

 こうして振り返ると、田原さん との付き合いを中心としてテレビの仕事に本格的に取り組み始めて10年余りになる。ここには私の出演番組の変遷を記したが、この間に(株)インサイダーは 西城鉄男をヘッドに映像部門が出来て、東海テレビの番組制作だけでなく、あちこちの番組の海外取材ものを中心としたドキュメンタリーの制作にも経験を積ん だ。こうした蓄積を、デジタル多チャネル時代を迎えて小資本・小企業でもやり方次第でオリジナルな発信を行うことが出来るようになってきた中で、どう活か していくかがこれからの大きなテーマである。

1992 年5月――地球市民革命、そして民主党

 89年から91年にかけて、冷戦崩壊 の現場を求めて世界各地を飛び回った体験をもとに、すでに何冊か本を出していたが、いわば総集編として『地球市民革命』(学習研究社)を92年5月に出し た。年に最低1冊は本を出している私にも、この本は特別に思い入れの強い本で、もちろんインサイダーや他の雑誌に書き散らしたものを活用しはしたものの、 ほぼ全編を1年ほどかかって書き下ろした。そのタイトルは、「地球規模で近代国家のありように対する新しい市民革命が起きている」という意味と、「その革 命の担い手は地球市民という意識を持った人たちである」という意味がダブらせてあって、そこに冷戦崩壊期の世界への私の基本的な視点が集約されている。

 私の説では、冷戦下で米ソを先 頭に各国が核兵器をも含めて重武装して激しく利害を競ったのは、1つの目的に向かって国民を総動員する近代国民国家システムの行き着く先だったのであり、 冷戦が終わることによってその基礎にある近代国家もまた終わりに近づいていく。そこでは、相変わらず冷戦時代の思考を引きずって“国益”の囚われ人である ことを止められない人々と、平和、環境、人権、貧困の克服など地球普遍的な価値の形成に重きを置いて、そのためには国家の枠組みを無視し、あるいはもしそ れが邪魔なら壊してでも行動しようとする「地球的に考えて、地域から行動する(Think Globally, Act Locally)」ような人々との対立・抗争が時代の軸をなす。そして、その後者の人々の中心は、どうも「1968年世代」――西側世界ではその年に最も 高揚した「ベトナム反戦」の運動に何らかの形で関わりながらそれぞれに自国の戦後秩序の耐え難さに異議を申し立てようとした若者たちであり、東側世界では その年に起きた「プラハの春」をソ連赤軍の戦車が踏みにじるのを見て「人間の顔をした社会主義」の到来の余りに遠いことに絶望しかかった若者たちではない のだろうか、というのが私の問題意識だった。

《ニューウェーブ》
 この革命の火付け役としてのゴルバ チョフ評価に始まって、「ペレストロイカは世界を巡り、東洋において完結する」という韓国の抵抗詩人・金芝河のテーゼを紹介することで終わっているその本 のあとがきで、私は、本当はこのあとにもう1章設けて、では日本では何が起きているかを書こうと思ったが、どうもそれほどの中身がないので、また機会を改 めて「日本編」を書くつもりだ、と述べた。

 そうは言っても、日本でも 「68年世代」が政治の舞台に少しずつ登場し始めていた。89年夏の参院選と90年冬の衆院選を通じて、労組出身の高齢者が中心になっていた社会党に、弁 護士や医者やその他いろいろな社会分野で経験を積んだ全共闘世代の人々が1つの塊として入ってきて、すぐに「ニューウェーブの会」を結成して執行部の党大 会方針案に意見書を提出するなど、めざましい活動を開始した。

 私はそれまで、社会党という政 党にほとんど関心を持たなかったが、ニューウェーブの中に学生運動時代の仲間だった人たちが含まれていたこともあって、彼らの勉強会に顔を出したりした。 フランスの「カルチェラタンの世代」は早くも70年代初めに仏社会党の再建に取り組み、その10年後にはミッテラン政権を作っていたし、ドイツの「SDS(社会主義学生同盟)世代」もそれから少し遅れて独社民党の政策と体質の転換を促す主力部隊となっていた。

 15年から20年遅れではある けれども、同じようなことがこの日本でも起きて、政治を活性化させる可能性があると私は期待した。しかしまあこの世代の人々は、1人1人が自分なりの意見 をしっかり主張するのはいいのだが、反面、俺が俺がが強すぎてまとまりに欠け、離合集散を繰り返すことになった。

《シリウス》
 92年には、当時は社民連にいた菅直 人を中心にして社会党のニューウェーブ系が加わって「シリウス」というグループが出来て、赤坂に事務所を置いて政策勉強会を進めつつ、社民連を率いていた 江田五月をかついで社会党を乗っ取ろうという計画進めたが、江田が決意し切れないでモタモタしている間に93年7月の総選挙、自民党分裂、細川政権誕生と いう一大政界再編ドラマの第1幕に突入してしまい、立ち消えになる。そのため菅は、ややもして「さきがけ」に加わった。

 私は(非議員では唯1人)この シリウスの会合にもしばしば顔を出し、92年10月、金丸信・前自民党副総裁が佐川疑獄で議員辞職しそれをめぐって竹下派=経世会が事実上分裂に陥った頃 に、自民党体制の崩壊と政界再編の爆発を予想しつつ、「ネットワーク型新党」の可能性についての最初のメモを作成して仲間たちに配布 した。

 改革への期待の中で誕生した細 川政権が詰まらないスキャンダルで94年4月に挫折、後を継いだ羽田政権も2カ月の短命に終わったあと、改革の方向を維持・発展させられるかどうかが6月 政局の焦点になった。私は、あくまで自民党を野党に留めて改革を継続するには、社会党とさきがけが政権に復帰して第2次羽田政権を作る以外にないと考え、 社会党の久保亘書記長とそれを支持する同党のニューウェーブ系を含む中堅・若手も同じ考えだった。

 しかし、さきがけの人々は、そ れまで10カ月間に当時は新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一のイチイチ・コンビの強引な手法にウンザリしていて、新生党や公明党との政権復元には熱心で なかった。他方、小沢は羽田政権を作り直すよりも、自民党から海部俊樹元首相を引っぱり出して同党を分裂させ、新生・公明・民社の3党と一緒に海部政権を 作るという成算のない陰謀に陶酔していた。

 こうした混沌の中で、自民党が 社会党の高齢者グループに密かに働きかけて、自民党が社会党の村山富市委員長を首相に担いで政権に復帰するという奇策を成功させ、自社さの村山政権が誕 生、改革の道は閉ざされてしまった。

《新民連》
 この局面で、新党運動は、社会党内で 村山政権の誕生に反対した山花貞夫・赤松広隆の前委員長・書記長コンビを中心とする「新民連」に受け継がれた。これには、やがて新進党という名の「小沢新 党」に合流することを潔しとしなかった日本新党の海江田万里が加わり、さらにさきがけの自民党との連立に不満だった佐藤謙一郎らさきがけの10人ほども賛 同して、11月26日に日比谷のプレスビルで「新党シンポジウム」を開いた。

 このとき私は山花らの要請で コーディネーターを務めた。山花は「来年1月中旬までに新党を結成する」と宣言したが、私はその集まりの前の打ち合わせの段階からそれには疑問があると述 べた。山花新党は、社会党が言わば「社民リベラル」に脱皮することを意味するのか、それともその脱皮と同時に海江田らの言わば「市民リベラル」やさきがけ などの「保守リベラル」が一挙に合流してまさに「民主リベラル」大合同が実現するのか――後者を考えているとすれば時期尚早というか、まだそこまでの機は 熟していないのではないか、ということだったが、集会ではその点ははっきりしないまま「新党」結成方針を拍手で採択した。

 私はなおその点にこだわり、新 党の意味をもう一度整理したほうがいいのではないかという趣旨の「私なりの総括」をメモして、山花・海 江田のほか社会党の改革派の人たちに配布した。その議論が煮詰まらないまま山花は「自分一人でも社会党に離党届を叩きつけよう」という思い詰めた心境に なって行き、95年1月17日にまさに行動を起こそうとしたその朝に阪神大震災が勃発して、新民連は吹き飛んでしまった。

《リベラル・フォーラム》
 2月に入って、横路孝弘北海道知事が 鳩山由紀夫と会談した。4月の知事選を前に横路は後継者を指名していたが、その頃鳩山も(すでにさきがけの将来に見切りをつけていたのか)知事選に出馬す る意向を漏らしていて、横路陣営には大脅威だった。それで横路が声をかけて2人が会ったわけだが、知事選の話は早々に終わって、政界の現状とリベラル勢力 の結集の必要性に話が及んだ。横路は退任後は中央政界に復帰して新党づくりの新しい波を起こさなければならないと考えていて、その点で鳩山と大いに意見が 一致した。そこで、新民連が消し飛んで宙に浮いた格好になっていた海江田にも声をかけて、新党協議のための秘密会合「リベラル・フォーラム」を始めること になった。

 1〜2回あとから私も呼ばれ、 さらに4月に入ってかつてニューウェーブの中心にいた仙谷由人=前衆議院議員(当時落選中で現民主党企画局長)、五島正規=社会党副書記長(当時)、それ にさきがけの市民派若手の高見裕一(当時落選中)が順次呼び込まれ、横路の私設秘書的な立場にあった松本収(現民主党政調事務局長)を書記役にして赤坂プ リンスホテルで深夜に集まっては熱心に議論した。これが96年10月に結成される民主党の原点である。

 しかしいつまで密談だけしてい ても仕方がないということで、参院選が終わったあと7月25日に上記のメンバー全員に新進党の船田元を加えて公開シンポジウムを開催し、同フォーラムの事 務所も構えて公然と活動を始めた。

 他方、東京では、その7月参院 選では、さきがけは中村敦夫、海江田のローカル政党「東京市民21」は見城みえ子、社会党は鈴木喜久子、をそれぞれ立てて健闘したが、同じ層を食い合う格 好で3人とも落選した。さきがけ東京代表の菅直人と海江田と社会党東京委員長の村田清順が3人の候補者を慰労するために開いた会食の席で、3人の票を合わ せれば100万近くになること、3党がバラバラで闘えば衆院選でも同じようなことが起きて、自民・新進の保守2大政党制が東京で真っ先に成立する可能性が 大きいことなどが話題になり、何としても3党が協力して東京に「第3極」の芽を作らなければならないとの合意が出来上がった。それで8月末にその3党に東 京生活者ネットなど市民派も含めて「リベラル東京会議」が結成された。私はここにも引っぱり出され、「選挙区調整委員長」という面倒な役目を負った。

《社会党新党協議会》
 一方、社会党は5月の臨時党大会で 「リベラル新党結成」の方針を決め、学者・文化人に呼びかけてその準備委員会が作られることになり、久保亘書記長の要請で私や日本女子大の高木郁朗教授、 宗教評論家の丸山照雄などがその中心に座った。私はこの時点ではまだ、リベラル・フォーラムの動きと久保を中心とする社会党の改革運動はいずれ合流するこ とが可能だし、そうなることが望ましいと考えていたので、請われるままにそれに参加した。その頃に書いた「新党問題レジュメ」に私の気持ちが盛 られている。が、何度か会合を重ねる中で、私は久保の煮えきらない態度にたちまちウンザリしてしまった。

 問題の本質は新民連のときと同 じで、久保には社会党内で徹底的な党内闘争を仕掛けて血を流して同党を変えようというつもりは毛頭なく、外から我々のような人間を寄せ集めてマブすことで 社会党が新しい何かに変わったかのようなフリをしようとしているだけであることが明らかになった。加えて6月に入って国会で、自社さ連立の名において全く 愚劣きわまりない内容の「戦後50年決議」が採択され、私はプッツンしてしまって、新党準備会への「辞退届」を出した。 私の社会党新党運動との決別は、いくつかの新聞がニュースとして採り上げるほどのちょっとした“事件”となった。

 その協議会は丸山を中心にその 後半年間続けられ、社会党は何度か先延ばしした挙げ句に翌96年1月19日に新党に踏み切るとの方針を決めた。そこで12月18日に「新党結成プレ集会」 なるものが開かれ、村山富市首相=社会党委員長が挨拶に立ったものの、赤松に「お前がいるから新党が出来ないんだ!」とヤジられ、さらに続いて登壇した丸 山に「社会党は嘘つきだ」と罵倒される始末だった。

 この時点で、村山=社会党と武 村=さきがけが合流する形での「新党」運動は完全に破綻した。そんなものが仮に出来たとしても、若い有能な人たちは誰も付いて行かず、自民党に呑み込まれ て「自民党村山派」のようなものになり終わることは目に見えていた。そこでリベラル・フォーラムとしては、村山・武村の動きにも、社さ合同という路線に も、一切幻想を捨てて、21世紀の新しいリベラル政治を創り出そうという決意を持った個々人が自らの信念に従って結集する以外にないという方向を確認し た。

 そこから、鳩山由紀夫を軸とし た「民主党」結成への動きが本格的に始まった。5月から8月にかけて、何度も挫折しそうになりながら進んだその水面下の協議の真相は、いずれ詳しく語るこ とがあるだろう。ともかくも8月末に至って、それまで村山・武村を無視ないし排除して新党を作ることに賛成でなかった菅直人が合流することになり、私が原 案を執筆した「理念」についても 鳩山と菅の間で合意が成り、一気に9月中旬の民主党結成準備委員会の旗揚げに進んだ。

《民主党結成》
 準備委員会の結成の会場で、党外「文 化人」を代表して祝辞を述べた私は、「4年前に『地球市民革命』という本を書いて、その最後の章で日本の“68年世代”は何をしているかを書こうと思った が書くことがなかった。それで自ら首を突っ込んで、書くべきことを創り出さなければならなかった。これでようやく安心してその本の続編を書くことが出来 る」と言った。

 しかしジョークの分からない人 がいるもので、ジャーナリストのくせに出すぎたことをして生意気だという批評もあった。また、ああいう一党一派に片寄った人間がテレビの番組で政治につい て論評するのは好ましくないという自民党筋からの批判も出て、ビビッたテレビ朝日は「選挙期間中はサンデー・プロジェクトへの出演をご遠慮願いたい」と通 告してきた。私は、自分が職業としてジャーナリストである以前に、人間として一個の市民であり、自らの信念に従って政治ボランティアとして働く権利も義務 もあると考えているが、それを言って分かる相手ではないので、黙ってその通りにした。

 まあとにかく「民主党」は面白 い体験だった。出来上がった党が、私が思い描いていたものとはだいぶ違っているのは仕方があるまい。2、3度の選挙を経るうちに勢力と能力を蓄えて、遅く とも2005年頃までには彼らが政権をとって、そこから何かが始まるだろうと期待している。(未完/以上「第1部」は98年に執筆)


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